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6.破綻-1
いちど覚悟を決めてしまえば、とんとん拍子にことは進む。佐希子と電話で話した日の午後には、水澤は駅前の不動産会社の店舗を訪ねていた。売却の相談を軽くしてみたところ、マンションはまだ築浅で駅から近いこともあり、頭金は諦めるもののオーバーローンにはならずに済みそうだった。「人気の物件ですので、売却額をすこし高めに設定しても大丈夫かもしれません」と言われたが、あまり欲張るとなかなか買主が決まらないかもしれない。価格設定は佐希子に相談しなければ。必要書類の説明を受けながら、水澤はあれこれと考えを巡らせた。
「……あと、売主様の住民票ですね、それから印鑑証明書……」
さらりと従業員が言った言葉に水澤は引っ掛かった。
「あの、売主って名義人全員ですかね」
「その通りです。言葉足らずで申し訳ありません」
「実は、共有名義人の妻はもう引っ越していて、住所が変わっているんです」
「すると、住所変更の登記が必要になりますね」
水澤とさほど年齢の変わらなそうな男性従業員は顔色も変えずにそう言った。よくある話なのだろうが、多少拍子抜けした水澤は、はあそうですかと答えた。
佐希子にも色々頼まなければいけないとわかりメッセージを送ったり、市役所に住民票や戸籍謄本の郵送請求をするために久しぶりにパソコンとプリンターを動かしたりと、慌ただしく土曜日が過ぎた。
佐希子からはすぐに売却価格についての意見が来て、あまり冒険はしないことに決まり、水澤は日曜日に再び不動産屋を訪れて打ち合わせをした。
本当に離婚をするのだという感慨に耽る間もなく動き回ったせいか、やたらと気分が高ぶってしまい、薬を飲んで広すぎるベッドに横たわっても疲労感はあるのに眠気が訪れない。妻子のことを考えまいとしているうちに、金曜日の小野塚の姿が蘇ってきた。ぼんやりとしたイメージをそのまま捨て去ろうとして上手くいかず、彼に口づけされた記憶が一気に呼び戻されてしまい、水澤は思わず顔を枕に押しつけた。
あのときは何も感じていないつもりだったのに、今になって脣に甘美な感触が残っているような気がする。ただの粘膜と粘膜の接触ということであれば、それはちょっと肩が触れあうのとなんら変わりはないだろう。そう割り切ればよい、なにも悩むことはないと自分に言い聞かせてみたが、もうずっと自慰すらしていない下半身がやんわりと硬くなっているのに気がつき愕然とした。
寂しいだけで相手は誰でも良いのではないか。それにしても、男の小野塚は違うだろう、いったい彼に何を求めているのか。抱き締められたら肉体的に満たされるのだろうか、などと次々に思考が移っていくと、ますます眠れないような気がした。
熟睡感の無いまま目覚まし時計に起こされ、賞味期限当日の食パンを牛乳で胃に流し込むと、水澤は重い体を引きずりながら会社へ向かった。頭がぼんやりしているし小野塚と顔を合わせたくなかったから、トイレと昼食以外は総務課のオフィスから出ずに一日を過ごした。それが何日か続いた。
小野塚から連絡は無かった。あっても無視するつもりではあったが、しばらく音沙汰が無いと水澤は少し不安になり、5日目に一念発起して商品企画課のフロアを覗きに行った。
「水澤?」
オフィスに足を踏み込んだ途端、同僚の中村が声をかけてきた。
「どうしたんだ、急ぎの用?」
中村は妙に硬い表情で訊ねた。
「え、いや……」
水澤が知っている数人の視線を感じる。妙な空気感に狼狽える水澤の肩を叩いて中村が囁く。
「ちょっと取り込んでいるんだ。急いでないならまたにしてくれないか」
「うん、いいけど……」
並ぶ机に目を走らせたが、小野塚の姿は無い。出張なのだろうかとぼんやり考えた矢先、奥から罵声が響いた。
「こんなもん認められるわけねえだろッ!」
脳が理解する前に心臓が跳ね上がった。大丈夫だ、自分に向けられた言葉では無いと言い聞かせ、恐る恐る歩みを進めて廊下に出た。心配しているのか中村があとからついてくる。
「相変わらずだね」
努めて平静を装って水澤は笑ってみせた。
「今日はいつもより虫の居所が悪いみたいだ」
中村もあえて軽い調子で返してくる。
「……で、誰に用?あとで電話させよっか?」
「いや、いいんだ。大したことじゃない」
あまり気を遣われても困るので、水澤は手を振って立ち去った。そのまま足早に階段を降り、3階のトイレに駆け込む。運良く誰もいなかったので、洗面所で内ポケットから薬を出して素早く飲み込んだ。
山崎の声を耳にした瞬間は動揺したが、そこまで精神に負担がかかったわけではなく、意外と冷静でいられたと水澤は思う。自分でもよくやったと思っていたのに、部屋を出る瞬間に聞こえた山崎の言葉で気持ちが折れそうになってしまった。
山崎は怒りの矛先を向けている相手の名前を呼んでいた。
「小野塚」と。
今は彼が生贄の羊になってしまっているのか。
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