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6.破綻-2

たまたま山崎の暴言を聞いただけで、自分の方から小野塚にアクションを起こすのはやり過ぎだろう。下手に声をかけてもプライドを傷つけるだけだ、と思うようにして水澤は沈黙を守っていた。やきもきしつつも、一方で自宅売却の話が進んでいたから、小野塚のことばかり考えているわけにはいかなかった。  売却話はとんとん拍子に進み、「室内大変きれいにお使いです!」とよく見るフレーズのチラシが作られたのを眺めていると、もう自分の家ではないような気がしてきた。同時に引っ越し準備をしなければならないことに気づき、慌てて部屋の中を片付けていった。佐希子は自分のものをあらかた持ち出していたから、残りは水澤のもので取っておくか処分するかはひとりで決められたが、結婚式のアルバムは悩ましい。うっかり眺めていたら情けないことに涙が出てきた。いちおう捨てるものを溜める段ボール箱に入れてはみたが30分後には気が変わり、ふたたび本棚に押し込んだ。  ひとりで暮らす家も探さなくてはいけなかった。利便性は重視したいが、佐希子と朝陽の住んでいる市はなんとなく避けた方がいい気がして、そうなるとそれなりの家賃を払うか多少の不便さを我慢するかになってしまい、水澤は毎日のように住宅情報サイトをチェックした。半ばやけくそになって、隣の県で検索したら、同じ家賃で通勤時間以外はびっくりするほど条件の良い物件が出てきて、すこし遠くてもいいのかなと思えてきてしまった。どうせ気楽な賃貸暮らしなのだから、我慢できなくなればまた引っ越せばいいのだ。どうやら生活に関してなら柔軟に考えられるくらいには精神も回復したらしい。仕事に対してももう少しこだわりが捨てられればよいのかもしれないと考えながら、水澤はどうしても商品企画課に戻りたいという思いが抜けきらなかった。  多少不本意であっても、休憩スペースの改装はかなり力を入れて取り組んでいた。計画から2ヶ月かかってようやくテーブルと椅子の納品が終わり、晴れて運用開始となった。日比野の指示もあり、水澤は何度も様子を見に行ったが、いつも数人が利用していて、中には気分を変えたいのか業務用パソコンを持ち込んで仕事をしている者もいた。  休憩スペースの運用を始めてから3日目の午後、水澤が様子を見に行くと、喫煙室で3人が煙草を吸っているほかはソファにひとり座っているだけだった。それが林原だと気づいた水澤は無言で立ち去ろうとしたが、運悪く振り返った青年と目が合ってしまった。 「お久しぶりです」  人懐っこい笑顔を無碍にすることもできず、水澤は林原の隣に腰を降ろした。 「この絵、良いですね。好きです」  林原の正面の壁には、縦にかなり長い額が飾られている。水澤がインターネットで直感的に気に入ったもので、カンヴァスに深い青が幾層にも塗り重ねられた抽象的な絵だ。それとわかる形状はなにも描かれていないが、なんとなく海の底に沈んでいくような感じで、眺めていると心拍数が下がって落ち着くように水澤は思っている。 「なんだか、胸のあたりがすーっと静まるなあ……」  別に水澤が描いたものではないのだが、好きだと言ってもらって少し嬉しい。  カフェオレの缶を手に持った林原は、ソファに深く腰掛けて背もたれに寄りかかりくつろいでいる様子だ。優しい雰囲気のある端整な横顔を眺めて、そりゃあ彼女もいるだろうなあと水澤は思った。小野塚と並んだら絵になるだろう。あの部長は僻みっぽいから社員をメディアに出すのは嫌うに違いないが、女性をターゲットにして林原と小野塚をグルメやビジネス系のテレビ番組に出していくのも悪くない。企画によっては男性ユーザーの支持を得られるかもしれない。 ──とはいえ、一方が恋愛感情を持ってちゃ、ややこしいか……  今の所属では到底できないことなのに、メディアを利用した売り込みについて色々と妄想してしまった。 「水澤さん、お時間ありますか?」  林原の声に水澤は我に返った。 「5分くらいなら……」 「ちょっと相談したいことがあって」  林原は伏し目がちに言った。長い睫毛がかすかに震えている。 「水澤さん、商品企画課の小野塚さんと仲良いですよね?」 「え、うーん……たまに飯食いに行くくらいだけとね」  まさか、キスをしたとは言えまい。そもそもあれはもののはずみだ……その「もののはずみ」の原因が目の前にいるのに気づいて、水澤はなぜか息苦しくなった。  複雑な気分の水澤をよそに、林原は続ける。 「少し前に小野塚さんに飲みに誘われたんですよ。行くつもりだったんですが、急用ができてキャンセルしたんです……そしたら、小野塚さんなんだかよそよそしくなっちゃって」  まあ、小野塚としては失恋したようなものなのだから、林原を避けるようになっても仕方がないだろう。 「よそよそしいと言っても、仕事に支障をきたす訳じゃないんだろう?」 「あ、もちろんです。ただ、お昼ご飯に誘ってくれなくなりましたし、いちど僕の方から声をかけてみたんですが、午後イチで出張だからって断られて……」 「タイミングが合わなかっただけじゃない?」  なぜ、ふたりの仲を取り持つような真似をしているのか、水澤自身もよくわからなかった。 「それならいいんですが、メールもなんだか事務的だし」 「仕事のメールだろ?余計なこと書いちゃだめじゃない」 「あ、そういう訳じゃないんです。なんとなく、雰囲気が……」 「林原くんは敏感なんだね」  皮肉のつもりではない。林原は小野塚のことが気になり始めているのではないか、と水澤は思った。林原にはかなり親密な恋人がいるようだし、そう簡単に同性に靡くわけがない。しかし、水澤だってそのつもりはなかったのに小野塚にキスを許してしまったのである。林原だって、機会さえあればあるいは……  小野塚はゲイだ、お前に気があるんだと言ってしまえばどれだけ楽だろう。どうせ小野塚は望み無しと思っているし、あとは林原の意志に任せてしまえば良い。ゲイに嫌悪感があれば離れていくだろうし、その逆でふたりは親密になるかもしれない。  林原はカフェオレの缶に口をつけた。この部屋に設置された自動販売機にあるコーヒー飲料の中でもいちばんミルクと砂糖が多い商品で、水澤も飲んだことがあるが甘すぎて次は無いなと思うくらいだが、林原にはなんだか似合っている。いや、林原そのものという感じだ。  小野塚もカフェオレが好きなのだろうか。 「俺も最近小野塚見かけないから、忙しいんじゃないかな」  その場しのぎのような適当な言葉しか浮かばなかった。林原はしばらくうつむいていたが、急にパッと顔を上げると、 「……もし、小野塚さんに話す機会があったら、僕のこと怒ってないか訊いてもらえませんか?」 と言って頬を赤らめた。それがまたなんともいじらしくて、林原に対して同僚以上の感情はないはずの水澤でも、胸がちくりとした。 「うん、別にいいよ……俺でよければ」 「ありがとうございます」  林原は何度も頭を下げて、まだ飲み終わっていないらしいカフェオレの缶を片手に休憩スペースを出て行った。その少し後に喫煙室から3人が続けざまに出てきて、2人はそのまま、ひとりは自動販売機でお茶を買って休憩スペースを後にした。  残された水澤は何故か煙草が吸いたくなった。大学時代に仲間と興味本位に何回か吸った程度で、付き合い始めたばかりの佐希子が嫌がったからすぐにやめてしまい、欲求など感じたことはなかったのに。しかし飲料の自動販売機はあっても、煙草の自動販売機は無く、買うなら外出してコンビニへ行くしかない。さすがにそこまでする気にはなれず、水澤はブラックの缶コーヒーを買って、静まりかえった休憩スペースを出た。

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