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6.破綻-3

 安請け合いしたものの、商品企画課のオフィスに行く気にはなれずどうしたものかと水澤は悩んでいた。いい大人なのだから、林原もしっかりしてほしい、俺が間を取り持ってどうするのだという小さな不満もある。  たまに思い出しながらも仕事が忙しいからと自分に言い訳をして、結局1週間近く経ってしまった。国からの急な調査(年1、2回ほど、予告なくメールが送りつけられてくるのが厄介である)の対応で水澤は残業していた。表計算ソフトに大量の数値を入れていく面倒臭い作業で、他部署から電話がかかるたびに脳味噌がリセットされるので苦労したが、どうにか終わりが見えてきた。 「すみません」  聞き覚えのある声に思わず顔を上げてしまい、入口に佇んでいるスーツ姿を目の当たりにして、水澤は反応したことを後悔した。残業している他の連中は、パソコンの画面から視線を離していない。  水澤の顔を見て小野塚は弱々しく微笑んだ。 「こんな時間に申し訳ないんですが、第1会議室の鍵を貸してもらえませんか」 「どうしたの」 「今日の午後会議室を使わせて貰ったんですが、忘れ物があったみたいで」  午後といえば、水澤は緊急の調査のせいで関東の各支社に電話をかけていて、商品企画課の誰かが来ていても対応していなかった。 「急いでるのか?」  正直、明日でも良いのではないかと思ったが、ストレートには言えなかった。 「ちょっと厄介なもので、明日まで待てないんですよ」  確かに明日は朝イチから会議室の申請が入っている。 「じゃあ、俺も行くよ。警備さんに捕まると厄介だ」  ヒビノには夜間も警備員が常駐しているが、今日の当番はかなり偏屈な爺さんで、顔見知りの水澤すら嫌味を言われることがあるのに、小野塚なんか不審者扱いされてしまうだろう。  水澤は鍵を取ってきて小野塚を連れてエレベーターに乗った。ほかには誰もいない。  小野塚が小さな声で話し始めた。 「会議のときに研究所の職員が開発中の商品のデータが入ったUSBメモリを持ってきたんですが、研究所に戻ったところ鞄に入ってなかったみたいで……」 「それ、マズいじゃないか」 「そうなんですよ。研究用の独立したネットワークのデータを入れてたので……もちろんパスワードで保護してるとは思いますが」  とはいえ、落としたという事実が問題なのだ。交番に届けられたとしても、中身を見られていないという保障はない。  エレベーターから降りたふたりは足早に会議室へ向かった。鍵を開けると小野塚は明かりをつけ、並んだ机の下やラックを体をかがめて覗き込んでいる。 「机動かしちゃったから、そのひとが座ってたのがどれだかわからないんですよね」  机は30台以上ある。突っ立って小野塚を眺めているのも居心地が悪いので、水澤も捜索を手伝うことにした。 「すみません」 「気にしないで」  水澤は最後列から順番に確認していったが、消しゴムをひとつ見つけただけだった。掃除は早朝に行われるはずだから、会議室で落としていれば誰かが既に持ち出していない限り見つかるはずだろう。そして社内の落とし物は総務課に届けられるが、水澤が知る限りそんなものはなかったはずだ。ここで見つからなかったらもう一度確認する必要はある。  もし本当に紛失という事態になったら山崎が激怒するというレベルでは済まないだろう。セキュリティのために研究用のシステムは社内クラウドから切り離しているが、今回はそれが裏目に出た形だ。とはいえ生データを研究所外に持ち出しているとは考えにくく、会議に出すために加工しているだろうから、研究内容を盗用される可能性は低いと水澤は考えた。まあそれでもある程度の処分は免れまい。小野塚までとばっちりを受けなければよいが。 「あっ……」  小野塚が声を上げる。 「ありました!」  つまみ上げたのは、目が覚めるような蛍光イエローのスティックである。 「よかったね」 「連絡してやらなきゃ」  小野塚はスマートフォンを取り出した。 「もしもし勝村さん?小野塚です。ありました……はい、俺が預かっておきますので、またこっちに来たときにでも……大丈夫です、信頼してるひとにしか話してませんから。俺も確認不足で申し訳ないです……ああ、また今度……」  信頼してるひととは自分のことなのかと、水澤はちょっと照れ臭くなったが、違っていたらさらに恥ずかしいので黙っていた。  小野塚は通話を切ると長い溜息をついた。 「いやー、寿命が縮みましたよ」 「勝村さんって松本研究所のひとか」 「そうです、いいひとなんですけど、抜けてるんですよね……会議で説明するときも、スクリーンに映すファイルを丸ごと間違えたままずーっと話してましたよ。今度一緒に仕事するときは、持ち物チェックと指さし確認必須だな」  鮮やかな色のスティックをジャケットのポケットに収めて、小野塚は少し斜めになった机の向きを整えた。  水澤は途端に息苦しくなるのを感じた。林原に頼まれたことを伝えるべきではないか。しかし何を言えば良いのだろう。頭ではわかっていても上手く言語化できない。 「じゃ、戻りますか」  すっきりした表情で、小野塚が近づいてくる。 「どうしました?」  よほど変な顔をしていたのだろう、しげしげと見つめられ、脇の下を汗が流れるのを感じた。 「えっと……林原くんのことなんだけど」 「ああ……」  小野塚は苦笑した。 「もうやめてくださいよ」 「でも、林原くんが気にしてるんだよ。君が前よりよそよそしくなったって」  言葉を選んでやんわり言ったつもりだったが、小野塚の態度はあまり触れられたくないように冷淡だった。 「普通に接してるつもりだけどなあ」 「まあ、君も色々思いがあるだろうから、前のようにはいかないだろうけど、あからさまに態度を変えるなよ」  水澤が話している間、小野塚は床を見つめながら癖っ毛をしきりにいじっていた。 「……林原くんのことはもういいんですよ」 「いいって、どういうことだよ?」 「もう俺にそういう気はないんで」  林原は諦めたということか。 「まあそれは君の勝手だけど、林原くんは心配してるよ。君の機嫌を損ねたと思ってる」 「それは悪かったですね。そのうち声かけますよ」  感情を露わにしない小野塚に、水澤は次第に苛々してきた。

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