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6.破綻-4
「わかったよ。随分な掌返しだな」
「……なんで水澤さんが腹立ててるんですか」
確かにそうだ。自分でも訳がわからなくなってきて、水澤は言葉が出なくなった。林原に同情しているつもりはないし、小野塚が林原を避けたくなる気持ちもわからなくは無い。しかし理屈ではない何かが、胸の奥に渦巻いていて、心臓を締めつけるようだ。
「用事は済んだだろ、行こう」
小野塚に背中を向けようとした水澤は腕を掴まれ狼狽した。
「なんだよ」
怒らせてしまったのかと水澤は思ったが、腹を立てているのはむしろ自分のほうだ。それなのに怒りの原因がわからない。
小野塚はじっと水澤を見つめていたが、
「そんな顔されると、困っちゃいますね」
と、にわかに真剣な表情になった。
「なに言ってるんだ?」
言葉の意味がわからないまま、水澤は腕を振り切ろうとしたが小野塚は痛いくらいに力を込めてきた。そのまま引き寄せられ、脣を奪われていた。
「んっ……」
何が起こったのか瞬時には理解できず、水澤はされるがままになっていたが、小野塚の舌が侵入し口腔内を蹂躙するとようやく我に返って体をよじった。小野塚は水澤の体を押さえ込むように腕を回し、さらに深く口づける。息が止まるほどに舌を吸われ、頭がくらくらしながらも、水澤は抵抗をやめなかった。
数分に及ぶ無言の格闘の末、水澤はどうにか小野塚の腕から逃れた。怒りなのか何なのか、ただ頭のなかが真っ白でチラチラ光るような感じで、倒れそうなくらい息苦しい。
「なにするんだ」
動揺のあまり声が荒くなり、水澤は思わず小野塚の胸を押し退けた。小野塚の体格なら水澤を抑え込めるはずだが、彼はされるがままになっていた。
「やっぱり……嫌でしたよね、すみません」
小野塚はかすれた声で詫びた。水澤も我に返り、このまま感情をぶつけて良いのかわからなくなってしまった。
「いちど許したからって……次も許すわけじゃない」
「はい」
しおらしくするなら、はじめから馬鹿なことをしなければいいのにと水澤は思った。
「やっぱり林原くんに未練があるんだろ。だからこんなことするんだ。でも、俺なんかを代わりにしてもそのうち後悔するぞ」
絵に描いたように整った、しかしどこか壊れそうで守ってやりたくなる横顔を思い出す。
「いや、林原くんはもう諦めました」
小野塚はきっぱりと言った。
「諦めたというのはおかしいかもしれないな……たぶん最初から林原くんのことはなんとも思っていなかったんですよ」
「どういうこと……思い違いというわけか」
「まあ、そんなところです」
中学生でもあるまいし、世慣れた感じの小野塚がそんなことになるとはにわかに信じがたい。
「思い違いならなおさら、いきなり俺にキ……こんなことするなんて、おかしいじゃないか」
「ええ、だから……わからないですかね」
小野塚は変に言い淀んでいる。水澤はなんの見当もつかず、黙ってしまった。
薄暗い会議室は空調も止まっていて、本当に何の音も流れていなかった。
「俺……」
小野塚の声はとても小さいのに、耳につよく響いた。
「俺は水澤さんが好きなんです」
水澤は答えられなかった。いや、なんの反応もできなかった。先ほどまで渦巻いていた怒りのような感情はすっかり冷めたものの、脳味噌はまったく動かなくなって、小野塚の言葉の意味を理解しようとするのさえひどく時間がかかった。
「ちょっと待ってくれよ……」
ようやく言葉を口にできたものの、脣が震えて吃ってしまう。
「そんなこと、これまで何も言ってなかったじゃないか」
「そりゃあ、言ってませんから」
「林原くんが好きだったんだろ」
「そうです……いや、そう思おうとしていたというのが正しいかな」
林原への思いは、自らに無理矢理仕向けていたとでも言いたいのか。
「なんだかもう……わからないな」
「難しく考えないでくださいよ」
まっすぐ見つめられて、水澤は慌てて目をそらした。視線を合わせたら気が遠くなってしまいそうだった。
「いきなり同性に好きだなんて言われて、混乱しないほうがおかしいだろ」
小野塚がゲイなのはずっと前から知っていたのに、好意が自分に向くことは考えもしなかったのだ、と今になって水澤は気がついた。
「そうですよね……ごめんなさい。俺もそんなつもりじゃなかったんです」
小野塚は溜息をついた。肩を落とした姿を見ていると、水澤はつい、あまり頑なな態度を取ったらあとで良心が痛みそうだと思ってしまった。
「とにかく、夜とはいえ会社の中なんだから、おかしなことはするなよ。監視カメラ回ってたらアウトだぞ」
「はい」
「……まあ、この部屋には無いから……エントランスとエレベーターホールにはあるけど……カメラが無ければいいってわけじゃない」
「わかってます。本当にすみませんでした」
どんどん気まずい空気になっていくのがわかる。このまま並んで会議室を出て、廊下を歩くなんてとてもできない。どうにか小野塚を先に行かせようと、水澤は言い訳を探し出した。
「……えっと、USBメモリなんだけど、持って帰る訳にいかないだろ。ちゃんと金庫にでも入れておけよ」
小野塚はハッとしてポケットに手をやった。
「うちの課にあるんですか?」
「課長の席の脇……誰か残ってたら教えてくれるから」
「わかりました」
言葉の裏を察したのか、小野塚は足早に会議室を出て行った。彼もこの状況をどうにか脱したかったのだろう。USBメモリを片付けたら、そのまま油を売らずに帰ってほしい。水澤は整列している机の、普段なら気にしないような位置のズレを直しながら、小野塚が階段を降り、エントランスを抜け、夜の街に消えていく姿を想像した。先ほどの困惑したような情けない彼ではなく、いつもの颯爽とした小野塚であってほしかった。
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