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07 転機-1

 診察室のドアを開けると、いつもと同じように電子カルテを操作している医師の姿があった。 「水澤さん、こんにちは」 「……こんにちは」  会社からそのままクリニックを訪れた水澤は、スーツ姿のまま、肘掛けのついた椅子に腰かける。こんなに体が沈み込む柔らかさだったのかと、今更ながら気がついた。 「調子はどうですか」  医師は水澤のほうに顔を向けながら、しかし目は合わさずに訊ねる。 「悪くはないです」 「眠れますか?」 「以前よりは熟睡した感じがある気がします」  キーボードを叩く音がしばらく響いた。 「初診の頃に話していた上司とは遭わなくて済んでますか?上司が異動したとか」 「それはありません。社内ではどうしても顔を合わせてしまいます」 「そうですか」  医師は残念そうな顔をした。  この医師はもともと水澤が山崎と離れるために休職を勧めていたのだ。休職は水澤は拒絶して結局は異動になったのだが、同じ建物内に居るのもあまりよろしくないと言う。しかし水澤にも意地があったから、這ってでも出社してきたのである。それについて医師は肯定も否定もしなかった。彼が腹の内でどう思っているのか知らないが、半年以上毎月の受診で変わりばえのない会話を交わしてきた。そこまで信頼しているわけでもないが、水澤にとっては月にいちどしか顔を合わせないがゆえに、本音を言っても後悔しない相手であった。 「……離婚することになりました」  キーボードを叩く音が止まり、医師は水澤の顔をまともに見つめた。虹彩の色が薄いのだなと水澤は思った。 「それは……大きな決断ですね」 「逆にすっきりしたかもしれません」 「確かに、中途半端な状態というのもストレスになる場合がありますから」 「離婚そのものより、家の売却手続きや引っ越し先を探すのに時間を取られてますね」 「お仕事しながらだと大変でしょう」 「まあ、気が紛れていいですよ。眠れるのもそのせいかもしれません」  後半は家の買い手がつきそうだとかどの地域に引っ越すか悩んでいるかとか世間話に近かったが、それでもいつもの診察時間をだいぶオーバーしていた。医師は積極的に薬の量を減らそうとはせず、調子が良ければ自分でコントロールしてくださいと言った。どこかで揺り戻しがあるかもしれないと考えているようだった。それは水澤も薄々恐れていて、だからお守り代わりに薬は持っておきたかった。  この日のクリニックは何故か空いていて、診察室を出るなり会計から呼ばれた。医師との会話を反芻しながら薬局に行き、処方箋を渡してソファに座り、夕方の情報番組を垂れ流しているモニターに目を向ける。  小野塚のことはさすがに話せなかった。いくら精神科医とはいえ、どんな目で見られるかわからない。来月は、何を話せばいいのだろう。  あの晩から1週間が経っていた。例の開発データにつては特に騒ぎにはなっていないようだったから、小野塚はUSBメモリを無事に担当者に返すことができたのだろう。そのうちに林原がわざわざやってきて、「小野塚さんと飲みに行くことになりました」と報告した。これは少しばかり水澤の心をざわつかせた。雰囲気によっては、小野塚は林原への想いを再燃させるかもしれない。それは個人の感情なのだから仕方がないとわかっていたが、あんなことを自分にしておきながら、結局林原に未練があるんじゃないかと妙な怒りが湧いてくるのだった。そのくせ、小野塚と顔を合わせるのは怖くて、水澤はなるべく残業はせずそそくさと帰るようにしていた。 「水澤くん、ちょっといいかな」  その日も手早く片付けを終えて帰ろうとする水澤を、珍しく日比野が呼び止めた。 「はい」 「話があるんだけど……」  日比野はオフィスを見回したが、まだ多くの社員が残っている。 「会議室、どこか空いてるかな」  水澤はキーボックスを確認したが、小さい部屋はすべて使われている。業務時間外なのに仕事熱心な社員ばかりだ。 「第1会議室しか空いてません」 「まあいいか。広くても別に支障はないさ」  日比野は自ら鍵を手にしてオフィスを出た。水澤も慌てて後を追うが、第1会議室というだけで気が重い。そういえば小野塚と林原が飲みに行くと言っていた日ではないか。今度はドタキャンなどしていないだろうな。またどこかの小洒落た店を予約しているのだろうか……そんなことを考えているうちに、会議室の前に立っていた。日比野が鍵を開け、中へと促す。 「まあ、座って」  日比野は入ってすぐの机から椅子を2脚引き出して、自らも腰を降ろした。ポケットから煙草を出して、間違えたという表情をし、照れたような笑みを向けた。つられて水澤もほほえむ。 「最近、調子はどう」 「ええ、まあ」  まだ届を出していないからと、離婚のことは日比野に伝えていない。往生際が悪いけれど、万が一のどんでん返しを期待している自覚はあった。 「少し疲れているようだけど」 「いえ、そんなことは……」  日比野はわかっているよとでも言いたげに頷いた。 「実は君に相談があってね。まだ内密の話なので、誰にも話さないで欲しい」  だからこんな場所を選んだのか。 「君の異動の話だ……埼玉支社に行ってもらえないか」  水澤は唾を飲み込んだ。支社というが正しくはグループ会社で、介護食品の開発から販売までを行っている。水澤も入社するまであまり知らなかった部門だが、堅実な売り上げを維持している。 「最近は新規参入が増えてきてね。すこしテコ入れをしたいと上は考えているんだ。君がよければ企画部門に異動してもらいたい。あそこの部長は穏やかだけど自分からアイディアを出したり、ましてや部下に持論を押しつけるタイプじゃない。ある程度自由にやらせてくれると思うよ」  本社に比べれば華やかさには欠けるだろうなと水澤は思った。都落ち感は否めず、多少不本意でもある。しかし日比野も誰彼構わず声をかけているわけでもあるまい。自分の才能を認めてくれているのだとも思える。それに、総務課に異動した時点で、すでに都落ちしているのだ。 「君の家からだと今よりだいぶ通勤時間がかかるし、いちど支社に異動したら3年は居てもらうルールだから、よく考えて返事をしてほしい」  水澤はもう手放すはずのマンションと埼玉支社との経路を、頭の中でシミュレーションしてみた。直線距離が短い割に鉄道を使うとだいぶ迂回するような感じで、乗り換えも多い。しかし異動の打診なんて、余程の理由がない限り断れるものではないだろう。水澤には、断るだけの事情はもう無い。 「埼玉支社に行きます」  日比野は目を大きくした。 「すぐ答えなくていいんだ。奥さんとも相談して……君なら会社の建前も本音もわかっているだろうけど、家族にも影響があることだからね」 「いえ、大丈夫です……近々離婚届を出しますので」  断言してしまったが、逆に吹っ切れるような気がしてきた。日比野の方は珍しく感情が顔に出ている。図らずもプライベートに立ち入ってしまい、狼狽しているようだった。 「すまない……そんなことを言わせてしまって」  上司に頭を下げられて、水澤も慌ててしまう。 「やめてください。夫婦で決めたことですから。円満解決なんですよ。それに、どうせ引っ越ししなければならないので、転勤するのも構わないんです」  そうだ、どうせ賃貸生活なのだから、支社の近くに引っ越してしまえば良い。県内では大きな市のひとつなのだから、物件もあるだろう。 「それなら、人事課に話を進めていいと答えるけど、構わないね」 「はい」  隣県とはいえ東京を離れると聞いたら、佐希子はどんな反応をするのだろうかと水澤は考えた。寂しがってくれるといいけれど、あっさりとしているのかもしれない。  水澤と日比野は会議室を後にした。 「辞令はいつからになるんですか?」 「再来月かな。とはいえ、もう1ヶ月ちょっとしかないから、準備は始めてくれよ」 「わかりました」  並んで階段を降りていくうちに、日比野が上司でなくなるのかと実感が湧いてきて、水澤はちょっと惜しい気持ちになって、あまり歳の違わない上司の肩のあたりに目をやった。 「課長、いつか俺を呼び戻してくださいね。出世してからでいいので。絶対ですよ」  冗談のつもりで言ったのだが、日比野は意味ありげな笑みを浮かべた。

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