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07 転機-2

 土日をはさんだ週明けには、総務課のなかで水澤の異動話は広まっていた。何月に異動しようと特に珍しいわけでもないが、大きな支社ではないし総務課の連中は水澤が商品企画課を逐われた理由を知っているから、何かと憶測をしてしまうらしい。別に課長に呼ばれて話をしただけですよと答えたのだが、杉本などは根掘り葉掘り訊ねてくる。離婚するなどと口走ったら最後、瞬く間に噂が社屋を駆けめぐるだろう。日比野の部下でなくなるのは寂しいが、杉本と離れるのは正直なところホッとする。  同期の何人かには惜しまれたが、海外に赴任するわけでも飛行機の距離でもない。気軽に飲みに行けるわけではないが、今だって家庭を持つ者もいるし数日前から日程調整をしているのだから、その辺はあまり変わらないだろう。昼休みにたまたま顔を合わせてランチに行くことがなくなるくらいか。  引き継ぎの準備をしながら、小野塚と林原は飲みに行けたのだろうかと、水澤は何度か考えた。小野塚は強がっているようだが、ふたりだけでじっくり話せば気持ちが和らぐのではないだろうか。恋愛関係になれなくても、「いいお友達」でいるという選択肢もあるのだから、小野塚はあからさまに林原を避けるべきではない。  転勤したら、このふたりとはたぶん疎遠になりそうだなと水澤は思った。仕事の繋がりがあったから親しくしていたが、離れてみないとわからないとはいえ、そこまで関係を続けたいと思うような存在だろうか。もしかしたら、水澤の方が少しずつ距離を置きたいと考えているのかもしれない。  小野塚との会議室の一件については、意識に昇りそうになると水澤は席を立ったりメールをチェックしたりして、なんとか思い出さないようにしていた。それでも、思い詰めたような小野塚のまなざしがふと蘇って、胸が疼く瞬間がある。良心というのはこうも痛むものなのか。自分はむしろ被害者だというのに。考え始めるとそもそも自分は何に悩んでいるのかすらわからず、ただ小野塚に抱き締められた感触ばかりが思い出されてしまうので、結論が出ないまま思考停止して気を紛らわせるほかなかった。  マンションの買い手は見つかり、新居の候補もほぼ絞れて、あとは機械的に手続きと引っ越しの準備を進めればよかった。あまり考え過ぎないように、たまに薬で意識を麻痺させながら、水澤は残された日々を黙々と過ごした。  エントランスの自動ドアが開閉するたびに異音を出すため、修理業者を呼んで部品交換を行った。昼休みは肌寒い季節にもかかわらずドアを開けっ放しにしておくしかなかったが、どうにか終業時間の前に修理を終えることができた。  書類にサインをして業者を帰すと、水澤はちょうどやってきたエレベーターに乗った。ドアが閉まりかけたところで人の気配を感じて開ボタンを押すと、スーツ姿が3人乗り込んできた。肥った体が脇に陣取り、水澤は余計なことをしたと後悔した。隣にいるのは、山崎だった。  エレベーターが動き出す。山崎の向こう側に立っているのは小野塚だったが、水澤と目を合わせないようにしているのか、うつむき加減のまま身じろぎもしない。すこし伸びてしまった髪が、表情を隠している。 「埼玉に行くんだって?」  突然、山崎の声が響いた。自分に話しかけているとはすぐには気づけず、変な間が空いてしまった。 「あ……はい」 「ふん、まあいいんじゃないか。田舎だから空気もキレイだし、転地療養には向いてるな」  水澤が商品企画課から総務課に異動するとき、山崎にはなんと知らされていたのだろう。そして彼はどう反応したのか。こんな嫌みを言うくらいだから、部下への態度を改めるように多少の指導が入ったのかもしれない(まったく改まっていないが)。  なんとか聞き流そうとしたが、心臓が激しく波打つのを止めることができない。もう大丈夫だと思っていたのに、過去の記憶の奔流に飲み込まれそうだ。自分はどんな顔をしているのだろう、山崎はそれを眺めて楽しんでいるのではないか。  エレベーターの上昇がいつもよりずっと遅く感じられる。 「まっ、頑張れよ」  肩を強く叩かれる。体を硬直させた水澤は息苦しくなって壁に手をついた。  チャイムが鳴り、ドアが開く。部下のひとりが降りて山崎も続いた。その瞬間、山崎の体がぐらりと前のめりに傾き、鈍い音をたてながら床に倒れ込んだ。  呆気に取られているうちに、手が伸びてきて閉ボタンを連打した。ドアがゆっくりと閉まっていく。唸りながら起き上がりかけた巨体が視界から消えた。  山崎と一緒に降りるはずの小野塚が、籠の中に残っていた。 「君……なんてことをしたんだ」  水澤は震える声を絞り出した。 「今、部長を蹴り倒しただろう」  視界の隅で小野塚は確かに脚を突き出していて、その直後に山崎が転んでいた。 「誰も見てませんよ」 「防犯カメラがある」  天井の隅に小さなドーム型のカメラがくっついていて、レンズをこちらに向けている。 「はは……こりゃマズいなあ」  まったく反省していない様子で、小野塚は笑い声を漏らした。 「これくらいで訴えるわけないでしょ、怪我するほどじゃない……かはわからないか。思ったより派手にコケたから」  7階についたが、降りてしまってよいのか水澤は迷った。このまま何食わぬ顔をして仕事をできるだろうか。それでも逃げるようにドアを越えると、案の定小野塚がついてきた。 「水澤さん、ちょっとだけいいですか」  小野塚に促されるまま、水澤はフロアの隅に置かれた背の高い観葉植物の陰に体を滑り込ませた。小野塚が退路を塞ぐように立ちはだかる。 「まだ顔色悪いですよ……薬飲みますか?」 「いや、そこまでじゃない」  服薬の心配など余計なお世話だ。水澤は呼吸を整えて、首筋の汗を拭った。 「さっき、部長が言ってましたけど……水澤さん、休職するんですか?」 「違う」  思わず強く否定したが、確かに山崎の匂わせるような表現だと何とも不本意な感じがして、それを小野塚は休職だと解釈したのだろう。 「異動だよ……埼玉支社、知らない?」 「あー……」  小野塚はちょっと考えているようだった。 「埼玉って言っても、けっこう群馬よりのところですよね。ここから意外に遠いけど」 「知ってるよ。そのうえで了解したことだから」 「ならいいですが」  水澤自身も心の奥底まで納得したのかと問われれば少しあやしくはある。 「通勤、大変じゃないですか」 「引っ越すつもりだからね」 「えっ、あのマンション持ち家ですよね?」 「売るんだ……離婚するから」  小野塚はぽかんとした表情で、しばらく言葉を失っていた。 「そんなに驚くなよ」 「すみません……奥さんとはそのうちまた一緒に住むものと思ってたので」 「そうはならなかったな」  話しすぎたと思って、水澤は小野塚を押しのけてオフィスに戻ろうとしたが、腕を掴まれるような感触をおぼえて振り向いた。小野塚が慌てて手を離す。 「……すみません」  触れられたところがすこし熱いような気がする。 「君も職場に戻れ」 「あの……」 「何」  早くいなくなってほしいのに、ウダウダしている小野塚が煩わしくて、水澤の言葉は邪険になった。まだ少しふらつくが、自席でやり過ごそうと歩き出した背中に、小野塚が呼び掛ける。 「俺、ちょっとは期待していいんですかね」 「え?」 「水澤さんのこと……」  思い詰めたような声。  チャイムが鳴ってエレベーターのドアが開き、数人の社員が出てきた。ちらとこちらに視線を向けたのは日比野だ。油を売っていると思われては堪らない。 「……社内でそんな話するなよ」 「すみません」 「それに、君は俺の不幸を喜んでるのか?」 「そんなつもりじゃないんです」  水澤は溜息をついた。 「わかった、その話はまた今度しよう。とにかく、今は業務中なんだから、私情は無しだ」 「はい」  小野塚はちょっと頭を下げ、階段室の扉を開けた。 「連絡してくださいね。待ってますから」  階段を降りる靴音が遠ざかっていく。ゆっくりと動いていた扉が完全に閉じると、その音も消えた。  軽い眩暈をおぼえながらなんとかオフィスにたどり着いた水澤は、自席について目を閉じた。 ──小野塚は本気なのか?  なぜ自分に好意を持っているのかすらよくわからない。なにか特別に親切にしたつもりはないし、くたびれたサラリーマンに過ぎない自分に魅力があるとも思えない。 「水澤くん、具合悪いの?」  ゆっくりと目を開けると、机の向こうから杉本が心配そうに見つめている。 「いえ、ちょっと寝不足なだけです」  詮索されたくないので、水澤は気力を振り絞ってパソコンを起動させた。引継ぎ資料は作ったし、残っている仕事もわずかである。あと数時間耐えれば今週は終わりだ。週明けに休暇を取ったので、土日と合わせて引っ越し準備や手続きを終わらせてしまうつもりである。帰ったら何も考えずにゆっくり寝よう。  水澤は立て続けに業務メールを作成し、送信していった。気を抜くと小野塚の姿が目に浮かんで、「その話はまた今度」と言ってしまったことが悔やまれた。なぜはっきりと断らなかったのか、何度も反芻したが、結局自分でもよくわからなかった。その場しのぎの台詞は呪縛のようで、いつか落とし前をつけなければならなくなってしまった。

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