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07 転機-3
緑色の用紙は佐希子の几帳面な筆跡でほとんどの欄がすでに埋められていた。証人欄には佐希子の両親の名前が記されている。夫婦一方の両親が証人であっても違法ではないし、戸籍係の職員は何の疑問も持たずに受け取るだろうが、水澤はすこし嫌な気分になった。とはいえ、水澤の実家は新幹線の距離だから仕方がない。婚姻届ならともかく離婚届に双方の親がサインするというのもなんだか奇妙だ。
結局のところ、自分はあら探しをしたいだけなのたろう。そんなことをしても佐希子の意志が変わるわけではないし虚しいだけなのはわかっているから、余計なことを言わないようにぐっと堪えているのだ。
毎月のように限定メニューが出て女性客の絶えないチェーンのコーヒーショップは、平日でも混雑している。ホイップクリームがうずたかく盛られた大きなカップを手にしている客が多い中、水澤と佐希子はいちばん小さなマグカップにブラックコーヒーである。
水澤が届出人欄に署名し印鑑を捺すと、佐希子は紙を手に取ってしばらく眺め、畳んで封筒にしまった。
「じゃあ、私これから出しに行くからね」
「今日土曜だけど」
「宿直で受け取ってくれるのよ」
「俺も行こうか」
「やだあ、婚姻届出しに行くんじゃないから」
佐希子は笑って、封筒を鞄の中に収める。その手に指輪は無かった。
「もうじき引っ越し?」
「ああ、明日業者が来る。家具はある程度持っていきたいから」
テーブルやソファは結婚のときに買った小さめのものだから、ひとり暮らしの賃貸マンションでも使えると思い、運ぶことにした。決して未練なのではない。強いて言えば、使い慣れたものを捨てるに忍びないだけだ。ベッドだって、ダブルである必要は全くないのだが、たまたま部屋に入ることがわかったから処分と購入に、金をかけるより運送代の方が安いから持っていくのだ。
「けっこう広いんだ、新居」
「東京と家賃が全然違うからさ。2DKあっても全然安い」
「やっぱりそうなんだ」
「そのかわり、物件数は少ないから選り好みはできないけと……築50年のアパートと選べって言われたら、ひとり暮らしには広すぎるけどマンション選んじゃうよ」
「そうねえ」
佐希子は左腕につけた銀色のバングルをいじっている。
「朝陽は保育園?」
「今日はじぃじの家。一緒に暮らしてるときはいつ出て行くの?って感じだったのに、今は数日おきくらいに電話してくる」
「じゃあ今日も大歓迎か」
「まあね……あ、そうだ。保育園移るのよ。ウチの近所。これで小学校まで安心」
「心配の種がひとつ減ったな」
「ホント」
コーヒーを飲み干し、佐希子は鞄を膝に載せてスマートフォンやハンカチを入れた。
「生活発表会とか運動会があるみたいだから、予定が合えばヒロくんも来てよ」
「行ってもいいの?」
「当たり前じゃない」
佐希子は席を立って小さく手を振った。まだ交際しているだけで結婚なんて考えてもいなかった大学生のときのようだった。
マンションのエントランスにはお喋りをしている数人の主婦や小型犬を抱えた中年男性が行き交っている。エレベーターも混雑していて、週末の夕方としてはいつもの風景である。
ドアを開けると、もう生活感はない。リビングには段ボールが積まれ、棚は空っぽになっている。駅ビルで買った弁当を袋から出しながら、新居のまわりではこのような弁当が買えるのだろうかと水澤はふと思った。コンビニやスーパーマーケットがあるのは確認しているが、惣菜売場までは覗いていない。とはいえ住宅はそれなりにあるので、ある程度のものは並んでいるはずだ……揚げ物ばかりでないとよいが。
テレビをつけてみるが、再放送だったり子供向けのアニメだったりと碌な番組が無い。辛うじてニュース番組が始まったので流しているが、そもそも自分が何を見たいのかもよくわからない。
急に寒気のような感覚をおぼえ、水澤は狼狽えた。テレビを消すと、部屋はとても静かだった。水澤はスマートフォンを取り出し、画面をあれこれといじくった挙げ句、メッセージアプリを起動させた。文章を入力しては消し、さんざん迷ってからようやく送信ボタンを押す。
〈これから来れるか?〉
驚くほど早く返信があった。
〈行きます〉
水澤はメッセージを送ったことを少しだけ後悔した。あんなに迷ったのに、結局のところ後悔してしまうのなら、どうするべきだったのだろう。しかしもうやってしまったことだ。本当に嫌ならば、今すぐ外出してどこかのファミレスで数時間息を潜めていればよいが、さすがにそれは良心が痛む。
寒気は無くなったが今度は落ち着かなくなり、水澤はまたテレビをつけたり消したり、リビングをうろうろ歩き回ったりした。やっぱり逃げ出そうかとまで考え始めたところで、エントランスのインターホンが鳴った。
水澤は覚悟を決めて、解錠ボタンを押した。
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