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08 寂しいだけでもいい-1

「すっかり片付いちゃってますね」  リビングに入るなり小野塚は呟いた。 「買い手は見つかったんですか」 「ああ、これからリフォームするらしいよ」 「こんなにキレイなのに?」 「潔癖症なんじゃないか」  小野塚はふーんと言いながら壁を見回している。 「それより、君ずいぶん早く来たな」  メッセージを送ってから小野塚が到着するまでに40分ほどしかかかっていない。 「友達と会ってたんですよ」 「友達に悪いだろう」 「いいんです」  友達というより「お仲間」なのではと思ったが、口にするのはやめた。いきなり来いなどと無理を言っているのは水澤のほうなのだ。 「……で、どうしたんですか」  訊かれるとわかっていたのに、説得力のある答えを水澤は用意していなかった。ただ、正直に話すだけしかできない。 「離婚届にサインしてきた」  小野塚は感嘆詞すら発せずただ目を見開いた。 「……バツイチになっちゃったよ」  急に胸がいっぱいになって、情けないことに涙ぐんでしまった。小野塚に背中をさすられて鼻の奥が痛くなった。もうずっとひとりで暮らしていたのに、なんで今さらこんな気分になるのか、自分でもよくわからなかった。法律的に婚姻状態にあることが、そこまで拠り所になっていたのだろうか。しかしそれも紙きれひとつにサインしたら、簡単に砕け散ってしまう。それにショックを受けてしまったのは確かである。 「まあまあ……普通なら飲みましょうって言うんですけどね」 「酒はないよ」 「わかってますって」  水澤はやんわりと小野塚から体を離した。 「ごめん、急に泣いたりして」 「別にいいですよ」 「あの……」 「はい」 「どうして君を呼んだのか、よくわからないんだ」 「……」  苦笑されて水澤は顔が熱くなりうつむいてしまった。 「寂しいからそばにいてほしいくらい言ってほしかったな」 「そんな……君に悪いだろう……だって……」 「なんですか」 「君の好意を利用しているみたいじゃないか」  腕を掴まれ水澤はまた逃げようとしたが、小野塚は離してくれなかった。 「それなら俺だって、水澤さんの心の隙間を利用しているわけですし」  ああそうか、と水澤は自分の感情が少し理解できた気がした。 「君は……ここまで来て何がしたいんだ?」 「何でもいいですよ。水澤さんが一緒にテレビを見ようというなら、付き合います」 「ボランティア精神だけでこんなところまで来たのが?」 「そりゃあ、下心ありますよ」  下心とは何なのか。訊いてしまったら取り返しがつかなくなりそうなので、水澤は話題を変えた。 「えっと、君、夕飯は?」 「“友人”と昼からダラダラ飲んでたので……気にしないで食べてください」  弁当を放っておいても仕方が無いので、水澤は食べてしまうことにした。小野塚はダイニングテーブルに背を向けて、ソファに座っている。薄味の「ヘルシー弁当」なんていうものを選んでしまったせいか、とにかく味を感じられず食事に集中できないためか、小野塚の背中が気になってしまう。 「……麦茶飲む?」 「いただきます」  嗜好品も全部箱詰めしてしまい、冷蔵庫の中も空にしたから、ペットボトルのぬるい麦茶しかない。 「氷なくてごめんね」 「全然」  小振りなグラスに注いだ麦茶を半分ほど飲んで、小野塚は息を吐いた。 「なんだか緊張しますね」 「そうは見えないけど」  本当に思えなかったから水澤はそう返したのだが、小野塚は苦笑した。 「いやあ、心臓バクバクですよ……高校生のとき以来だな、こんな気分」 「青春だね」 「好きな同級生の家に行ったことがあって。その頃にはもうゲイだと自覚していたのですが、もちろん誰にも話していなかった頃です。告白するつもりもなかったのですが、誘われるまま行っちゃったんですよ」  あまり食欲はないが、残して生ゴミを出すのも面倒なので、水澤はやたらとソースの甘い豆腐ハンバーグと五穀米を詰め込み、麦茶で流し込んだ。 「進展はあったの?」 「あるわけないでしょう。ゲームして、ちょっと宿題を一緒にして、それで終わり。夏休みのうちに何回かそんなことしましたけど、いつの間にか自然消滅しちゃいました」  10代の恋愛だからそんなこともあるだろう。水澤も淡い恋心のまま消えていった経験がある。佐希子と付き合っていた頃だって、ほかの女性に惹かれてしまった……いや、これはなんだか違う、浮気性だと小野塚に勘違いされても困るから、黙っていようと水澤は思った。  どうにか弁当を食べ終えて容器を洗いながら、水澤はこれからどうしようと困惑していた。もういいから帰れとも言えないが、面と向かって泊まってくれと言うのもなにか変だし、泊まるにしてもリビングのソファしかない。いや、小野塚にベッドに寝てもらい、自分がソファで寝るという手もあるか。これなら話しやすい。  さすがに間が持たなくなってきたのか、小野塚はテレビをつけてクイズ番組を見ている。その傍らに立つと、小野塚はすぐに気がついて水澤の方を向いた。 「あの……」 「はい」 「君……ベッドに寝ていいよ」 「一緒にですか?」  明後日の方向から質問が飛んできて、水澤は竦んでしまった。 「いや、そんなつもりじゃ」 「そう言われるのも寂しいなあ」  小野塚は腕を伸ばして、水澤の両手を握った。簡単には振りほどけそうにもない強さだ。 「えっと……」  水澤は目をそらしてどうにか言葉を絞り出した。 「林原とは飲みに行ったんだろ?」 「ええ、まあ」 「どうだった?」 「楽しかったですよ。彼、けっこう多趣味なんですね。婚約者の愚痴を聴かされたのには閉口したけど」 「……婚約したんだ」 「来年挙式らしいです。お互いに演出のこだわりがあるみたいで、しょっちゅう喧嘩してるとぼやいてましたよ」  あまり興味が無さそうに小野塚は淡々と答えてから、水澤の顔をまじまじと見つめた。 「水澤さん、もしかして林原くんに恋愛感情があるんですか?」 「えっ、ない。それはない」  いきなりの問いに面喰らった水澤は慌てて否定した。林原のことを気にはしていたが、それはあくまでも小野塚との関係性においてのことだ。小野塚が彼に好意を持っていると言わなければ、ただの同僚だったのに。 「あんまり林原くんのことを言うから、ちょっと妬けちゃいました」  なに言ってるんだと喉元まで出たところで、嫉妬しているのは自分ではないかと思えてきた。どうしてそんな感情を持っているのだろう。  すこし考えればわかることだった。水澤は愕然として、泣きたくなってきた。 「水澤さん」  気持ちが崩れてしまいそうなのをこらえて、水澤は顔を上げた。 「キスしたいです」  腕を強く引かれて、あやうく小野塚に抱きつきそうになる。ソファの縁に手をつくが、顔が近い。小野塚の手がうなじに触れた。 「あのさ、君はその気かもしれないけど」 「はい、その気です」 「俺……なんだかよくわからなくて」 「嫌ならやめますよ」  それすらもよくわからない。頬と頬がほとんど触れていて、アルコールと煙草のにおいがする。小野塚の言うとおり誰かと飲んでいたのだろう。本当に“友達”なのか。  水澤は覚悟を決めて目を閉じた。脣にすこし濡れた柔らかなものが触れる。触れるだけのキスを何度かしただけで、脳が痺れるようにぼうっとなった。いつの間にか、小野塚に体を預けている。 「もっとしていいですか?」  小野塚の言葉に、水澤は頷いた。何をされるかだいたい予想がついていた。舌が脣をなぞり、腔内に侵入する。呼吸がうまくできず溺れそうになりながら、水澤は促されるまま舌を絡める。 「あっ……ん」  激しく舌を吸われて窒息しそうになり、水澤は思わず小野塚の二の腕を強く掴んでいた。小野塚が体を離す。 「ちょっと休みましょう」  水澤は顔を背けて何度も深呼吸した。 「すみません、つい夢中になってしまいました。臭いでしょ」 「大丈夫……」 「シャワー借りてもいいですか?」  そうだ、泊めるならばシャワーくらい貸してやらなと。パジャマもいるかと思い、水澤は立ち上がった。  今更帰れとは言えない。

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