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08 寂しいだけでもいい-3
インターホンのチャイムが鳴ったような気がするが、まどろみの中にいた水澤は聞かなかったことにした。誰かに頭を撫でられている。半分眠りかけていてよくわからないけれど、隣にひとの気配がある。もう長いことひとりだったのに、不思議だな……
けたたましい電子音が鳴り響き、水澤は跳ね起きた。サイドテーブルに乗ったスマートフォンが、着信メロディを発しながら激しく揺れている。
「もしもし」
「カサイ引越センターですが、水澤さんですか?作業に伺いました」
「──あ、はい。よろしくお願いします」
「先ほどエントランスのチャイム鳴らしたんですが応答なくて……開けていただけますか?」
「あっ……すみません」
電話を切ってから、水澤は自分がはだかであることに気がついて頭の中が真っ白になった。
「どうしました?」
傍らにいたのは小野塚だった。さっき自分の頭を撫でたのはこいつなのかと思うとまたくらくらと目が回ってくる。小野塚は暢気にあくびをして、また眠ってしまいそうだ。
水澤は倒れ込みたい衝動を必死に堪えた。
「起きろ!これから引越業者が来る」
「え?」
小野塚はきょとんとしている。
「いいから早く服着ろ」
インターホンが鳴っている。水澤はシャツを羽織り早足でリビングに行き、エントランスのドアを解錠した。
「ほら、もう上がってくるから」
小野塚はソファに置かれた自分の服を、煙草臭いなと呟きながら身につけている。水澤は寝室に取って返し、ベッドのシーツを剥がした。まだ温もりが残っていて、かすかに体液のにおいがする。途端に生々しい記憶が蘇り、穴があったら入りたい気分になった。
玄関のチャイムが鳴った。急いでドアを開けると、作業着姿の男がふたり入ってきた。
「それじゃ、段ボール箱から搬出しますので」
リビングや寝室に積み上げてある箱がどんどん運び出されていく。慌てて履いたジーンズのファスナーが開いたままなのに気づいて、水澤は素知らぬ顔をしてこっそり上げた。
「次、テーブル出しますね」
「あ、はい」
ダイニングテーブルと椅子、ソファがなくなると、リビングはガランとした。数日後にはリフォーム業者が入るから放って置けば良いのだが、つい掃除機をかけてしまう。帰るかと思っていたのに、小野塚はリビングで荷物が運ばれるのを眺めている。水澤にとっては知り合いがいるのは心強くはあったが、一晩中肌を合わせたあとで、何を話してよいのかわからない。
「男ふたりが待ち構えていて、業者のひと変な風に思わなかったかな?」
「なんですか、それ」
「ゲイのカップルとかさ……」
小野塚は笑った。
「友達でも引っ越しの手伝いくらいするでしょ」
確かにそうだ、考え過ぎらしい。
電化製品も運び出され、キッチンも埃が残るだけとなった。
「水澤さんひとりで大変でしょ。なんか手伝えることないですか?」
「え、ああ……」
小野塚に言われて、水澤は考え込んでしまった。
「俺、今日は予定ないんで、何でもできますよ」
とはいえひとりで引っ越しのもろもろを済ませるつもりだったから、急には出てこない。
「終わりましたー」
二人組のうち年上らしいほうが声をかけてきた。
「それじゃ、お引っ越し先に向かいます」
嵐が去り、家具が根こそぎ無くなった部屋に水澤と小野塚だけが残った。
「水澤さん、新居に行かなくていいんですか?」
小野塚が訊ねる。
「ガスを止めに来るから、立ち会わないといけないんだ」
「なら、俺立ち会いますよ。来るの待ってればいいんでしょ」
「え?」
「水澤さんが早く新居に行った方が、引っ越し業者も助かりますから」
「確かにそうだけど……」
ここから新しい住まいまで電車を乗り継いで1時間半ほどかかる。道路も混んでいることが多いので、引っ越しのトラックがとても早く着いてしまうということはないが、多少待たせてしまう可能性はある。水澤は残った荷物をまとめ、小野塚に鍵を渡した。
「じゃあ、よろしく」
「任せてください」
駅に着くと、これから向かう方角の電車がまさに発車しようとしていて、水澤は慌てて飛び乗った。
見慣れた景色が早回しのように去っていく。もう何駅も過ぎてから、小野塚に鍵を預けたことを後悔し始めた。鍵のやり取りのために、もう一度連絡を取り合わなければならないではないか。どうにかして郵送してもらおうと水澤は決意した。
小野塚に嫌悪感があるわけではない。むしろ、寂しいから小野塚に体を許した自分自身を嫌悪している。小野塚は寂しいだけでもいいと言ったが、そんな理由で肌を合わせるのはたとえ異性同士でも良くないのではないか。久しぶりゆえかあまりの快感だったのがむしろ、水澤の理性では受け入れがたいことになっているようだった。
ターミナル駅で別の路線に乗り換え30分ほど揺られたあと、もうすこし小さな駅で乗り換える。しばらくは畑と小さな町並みが交互に流れていたが、突然地方のオフィス街といった感じの、低層ビル群が現れた。そのビルのひとつが、水澤が勤務することになった埼玉支社なのだ。
この街にはヒビノが出資しているリハビリテーションに特化した病院があり、埼玉支社と共同で商品開発を行っている。米作より畑作が盛んな土地柄で、食品関係の企業が有名どころから中小まで20社以上あるらしい。
駅を出た水澤は、オフィス街を抜けた先にある新居を目指した。手放した分譲マンションより築年数は経っているが、きれいな外観である。まだ引っ越し業者のトラックは到着していなかったので、水澤はほっとした。
部屋に入った水澤は窓を全て開け放ち、澱んだ空気を入れ換えた。程なくしてトラックが到着し、家具が次々に運び込まれる。内見のときには広く感じたダイニングが、テーブルと戸棚が置かれると狭くなってしまった。寝室も、ダブルベッドは処分してシングルサイズにすべきだったと思うほどの圧迫感である。
業者を返すと急に疲れが溢れてきた。水澤はどうにか洗濯機の電源を入れ、脱水が終わるまでと思いながら、スマートフォンのアラームをセットして適当にシーツを敷いたベッドに横たわった。眠気のせいか昨夜の記憶はぼんやりしたままで、すぐに意識が遠のいた。
アラームの音で目が覚める。1時間熟睡したおかげで、頭がだいぶすっきりした。洗濯物をさっそく干してスマートフォンを見ると、小野塚からメッセージが来ている。
〈ガスの立ち会い終わりました〉
〈ありがとう〉
〈鍵を返したいんですけど〉
あとで郵送してくれればいいと返信しようとして、それでは小野塚に切手代をかけてしまうことに気づいた水澤が迷っているうちに、さらにメッセージが来た。
〈今、K**駅につきました〉
新居の最寄り駅じゃないかと水澤は目を疑った。わざわざ来たのか……というより、なぜ最寄り駅を知っているのか。とりあえず駅に行くと返信し、水澤は家を出た。
駅までは10分もかからない。まだ慣れない景色を見回すと、ロータリーの端に小野塚が立っていて、小さく手を振った。駆け寄った水澤の掌に、鍵を乗せる。もう不動産会社に渡すだけなので、キーホルダーも外してしまって、無機質な金属の塊に過ぎない。
「君……どうしてこんなところまで来たんだ」
小野塚はにっこりすると、手帳型のスマホケースのポケットからカードを取り出した。IC 定期である。そこには、ヒビノ本社の最寄り駅とふたりの背後にある駅の名前が印字されていた。
「俺のアパート、すぐ近くなんです」
通勤が大変だと言っていたが、こんなところに住んでいたのか。どうして……と考えたところで、水澤ははたと気がついた。
「ハル食品……」
「そうそう、ハル食品の本社、この街にあるんですよ」
路線バスがロータリーを回って近づいてきた。車体のモニターに表示された経由地にはしっかり「ハル食品本社前」の文字がある。K**市といえばハル食品というのは業界としては有名で、水澤も転勤の話が出たときに思いつかなかったわけではない。しかし、小野塚のことまでは、何度か会話に出てきた割にはまったく浮かばなかった。
「なんだ、水澤さん俺のこと意識してくれたのかと思ったのに」
「それは全く……偶然だよ。会社の命令だ」
「ま、そうでしょうね」
バスは数人の客を乗せて発車した。若草色の車体がしだいに遠ざかる。
「通勤に時間がかかるから引っ越そうと思っているんですけど、なかなか住みやすい土地だし、前の会社の同期も住んでて仲良くしてるので、離れがたいんですよ……これで水澤さんが引っ越してきちゃったからますます出て行く理由がなくなるな」
これではまるで小野塚の腕の中に飛び込んだようなものではないか。ばつが悪くなり水澤はうつむいたが、こんなことをしていても大人げないし腹をくくるしかない。
「……昼飯奢るよ」
「嬉しいなあ。最近、水澤さんとメシに行ってなかったから」
避けてた癖にと水澤は内心で毒づいたが、よく考えると避けていたのは自分の方だった。意地を張っていたということか。
「じゃ、美味い店教えて」
「色々ありますよ……何がいいですか?」
「朝食べてないから、ガッツリしたものかな」
「そうですね。じゃあ、豚カツとかどうでしょう……あれ、土曜日やってたかな」
ふたりは商店街を目指して歩き始めた。昨日まで住んでいた街のような喧騒はなく、のんびりと人が行き交っている。小野塚のような要領よく仕事をこなしてしっかり遊んでいるタイプの人間が住むような感じではないのだが、それでも気に入っているのは、よほど良い街なのか、それとも小野塚が求めているものが刺激だけではなく、もっと地に足のついた何かなのか。
「水澤さん、配属は?」
「広報だよ」
「いいですね。もしかしたら一緒に仕事できるかもしれないな」
「いきなり派手なことはやらせてもらえないと思うけどね」
「俺、地に足着いたことしたくなってきたし」
水澤は呆れてしまった。
「そこまで俺と仕事したいかねえ」
「そりゃあ、好きなひととは一緒に居たいでしょ?」
「ただの暗いおじさんだけど……君も物好きだな」
「……そうですね」
小野塚は困ったような微笑を浮かべた。
広い通りから一本入ると、数人の行列が店につながっている。看板には「定食・ラーメン」の文字。
「普通の定食屋なんですけど、肉が美味くて昼時は並ぶんですよ」
列の中にいるスマートフォンをいじっていたひとりが顔を上げ、目を丸くした。
「小野塚じゃん」
「平田か、元気?」
平田と呼ばれた若い男は、前に並んでいた若者の背中を突く。彼もこちらを見て、久しぶりと手を上げる。
「前の会社の同期です」
小野塚は囁くと、水澤を置いてふたりの傍へ行き、お喋りを始めたが内容はききとれなかった。水澤は途端に孤独感をおぼえた。
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