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09 逡巡

埼玉支社での仕事が始まった。広報係は水澤を含め3人のみで、敷地内にある工場で生産している介護食のの広告作成や取材対応を行っている。医療や介護の知識が必要となり戸惑うこともあるが、インターネットで専門書をいくつか買って少しずつ勉強している。通勤時間が短いし残業も減ったから、本を読む時間はかなり取れた。  広報係のメンバーは、40代後半の人の良さそうな、しかし食事介助やリハビリについて専門家と議論できるほどの知識を持つ係長と、まだ学生の雰囲気を残している女の子である。ほっとできる職場だけれど、隣の営業部で長年アルバイトをしている年配女性があの杉本そっくりの噂好きで、異動初日からまるで何年も前からの知り合いかのような態度で水澤に近づき、年齢から出身大学、好きな芸能人の名前まで聞き出していった。さすがに結婚しているのかという問い(実際はもっと巧妙な訊き方だった)ははぐらかしたが。彼女は社内の噂好き連中に本社から異動した妙な男の話題を提供してるのだろう。本社よりも牧歌的で時間がゆっくりと流れているような気がするが、井戸端会議も盛んなのか。   異動から1ヶ月ほど経つと、水澤はすっかり慣れて他の社員と冗談を言い合ったり、係長の森と広告のデザインについて意見を戦わせることができるようになっていた。 「水澤さん、『訪問ケア』の7月号の広告なんだけど、この画像どうかな」  渡された写真入りの原稿を水澤はしばらく凝視して、もう少し明るめに色を調節した方がよいとか、タイトルのフォントを太くしたらどうかとか、意見を述べた。森はふんふんと相槌を打ちながら、パソコンの画像処理ソフトを操作している。 「こんにちは~」  聞き慣れた男の声が部屋に響き、水澤は思わず顔を上げた。小野塚がにこにこしながら立っている。 「小野塚……」  水澤は席を立って小野塚の傍に行くと、素早く囁いた。 「何しにきたんだ」  小声でも強い口調のつもりだったが、小野塚は全く動じない。 「水澤さんの忘れ物があったから届けに来たんです」  小野塚は傘を差し出した。確かに水澤がロッカー室の傘立てに置いていたもので、他にも似たような傘ばかりだったから目立たない部分に名前シールをつけていたのだ。しかし、スーパーで購入した安物で急な雨のときには助かるが、ここ2年ほどは全く使っていなかった。そんな傘があったことすら水澤はすっかり忘れていた。とはいえ、親切心(下心はありそうだが)で持ってきてくれたものを拒絶もできず、水澤はおざなりに聞こえないように気をつけながら礼を言って受け取った。 「あと、これ。皆さんでどうぞ」  小野塚は四角形を組み合わせたロゴマークが印刷された紙袋をちょっと持ち上げた。 「アトリエニーナじゃないですかっ!」  女子社員の角田が目ざとく見つけて声を上げた。 「もしかして、ショコラフィナンシェですかっ?」  初対面の若い女子に食いつかれて、小野塚はたじろいでいるようだ。と言っても、彼と幾つも変わらないはずだが。 「ああ、うん。そうじゃないかな?」 「うっそお!マジ嬉しい」 「角田さん……声大きい」  たしなめた水澤に角田は真剣な表情で熱弁を振るった。 「だって、全国のチョコ好き垂涎の商品ですよ。あたしも狙ってるんですけど、店舗限定で通販では買えないし、この前雑誌にも載っちゃっていつもすんごい行列なんです。しかも3箱!並ぶの大変だったでしょう?」  機関銃トークに小野塚は苦笑を浮かべる。 「俺が買ったんじゃないんです。水澤さんの前の上司が……」 「ええ、日比野さんが?」  パソコンから顔を上げた森が珍しく驚いたような声を出した。 「相変わらず、マメなひとだなあ……以前彼が本社の営業課長だったときに仕事で関わってね。数ヶ月くらいだったんだが、そのあとも会社に手紙をくれたり僕が本社に出てきたときには昼飯に誘ってくれたり……」  日比野は自ら洋菓子店の行列に並んだのだろうか。いや、セレブのコネでもあるのかもしれない。 「それじゃ、僕はこれで」  小野塚は軽く会釈して立ち去ろうとした。本当にこれだけのために来たのだろうか。 「あ、ちょっと」  森は素早く化粧箱の包装を外すと、中から菓子を1袋取り出した。 「小野塚さんもひとつ」 「これはどうも」  小野塚はにっこりして部屋を出て行った。 「お知り合いですか?」  角田が興味津々で水澤に訊ねる。 「うん、本社にいたときの……後輩」 「けっこうタイプかも~」  後輩という表現は“one of them”に過ぎない感じがする。まあ表向きそうだし、水澤はそれを貫くつもりで連絡を取らずにいたのだが、こうやって押し掛けられてしまうとなんとも面倒臭い。  角田は上機嫌でフィナンシェを配って回っている。忘れ物とか差し入れは口実で、小野塚は日比野に依頼されて水澤の様子を窺いに来たのかもしれない。日比野はどうして自分と小野塚が知り合いなのを知っているのだろうと水澤は思った。どこかでふたりでいるのを見られたのだろうか。  仕事の切りが良かったので、水澤は18時過ぎにはオフィスを後にした。階段を降り、本社よりふたまわりは小さいエントランスに出る。受付嬢はもうおらず、自社製品を中心に扱う小さな売店もシャッターを降ろしている。  早く退社できたから、今夜は自炊しようと水澤は考えていた。異動してから次第に食欲が戻ってきて、むしろ少し制限しないと体重が増えすぎてしまいそうだ。  簡単に野菜炒めを作ろうなどと思いながら自動ドアをくぐろうとしたところで、水澤はその脇に佇む人影に気がついた。 「小野塚……」  小野塚はさっきオフィス内で見せていた営業スマイルとは少し違う、はにかんだ笑みを浮かべている。 「出待ちしちゃました」  うんざりしているはずが安堵のような感情もあって、水澤は自分がわからなくなってきた。 「帰るんですよね?」 「ああ」  水澤は肯定の言葉だけ返して外に出た。本社の周辺と違って交通量は半分ほどだが、まだ時間が早いせいか人通りはそれなりに多い。食事にでも誘われるのかと思っていたが(もちろん断るつもりだった)、小野塚は何も言わずについてくるだけだった。当然誘ってくるだろうと決めつけていた自分がうぬぼれているような気がして、自炊するつもりだったくせにと水澤は恥ずかしくなってしまった。 「……君、久しぶりだな」 「そうですね」 「近所なのに、会わないものだな」 「休日出勤とか友達に会ったりで、あんまり居つかなかったもので」  新しい職場から自宅までの風景はもう違和感がないが、小野塚がいるとなんだか落ち着かない。 「さっきのお菓子だけど……」 「俺まで貰っちゃって良かったんですかね。あの女の子カワイイですね」  ゲイの癖に何言ってるのかと突っ込みそうになったが、小野塚にしてみれば恋愛や性欲抜きの感想なのだろう。 「本当に日比野課長が持たせたのか」 「当たり前じゃないですか。俺もちょっと驚きましたよ。ATELIER Nina は早朝から並んで整理券貰わないと買えないらしいです……日比野さん、そちらの係長ともお知り合いみたいだから奮発したんですかね」 「そうかもな」  取り留めのないお喋りをしているうちに、水澤が行くつもりのスーパーマーケットの店舗が見えてきた。 「あ、ここ俺もよく買い物に行きます」 「そうなの?」 「野菜が安いですよね。惣菜も美味いし」 「君の家、近所なのか」  小野塚は頷いた。  水澤はそれ以上住所については触れなかった。同じ市内であることはもう割り切っていたけれど、水澤の自宅から思いのほか近いらしい。無断で押し掛けるようなタイプではないことは分かっているが、まだ住所を教えたくはなかった。  スーパーマーケットの敷地内に脚を踏み入れると、小野塚も当然のようについてくる。 「君も買い物か?」 「久々に早く帰ってこれたので」 「……忙しいんだな」  小野塚は困ったような笑みを浮かべた。夕闇のせいかもしれないが、顔色が良くない気がする。疲労が溜まっているのだろうか。  店内には多くの客がいたが、いちばん盛り上がるタイムセールが終わり落ち着いている時間帯のためか、戦闘的なBGMだけが高らかに響いている。 「俺も久々に料理しようかな」  籠を手にした小野塚が呟いた。その言葉に、水澤は何故か素直な気持ちになった。 「君は玄人はだしの料理を作るか、全然しないかのどちらかに見えるな」 「なんですか、それ」 「見たままの感想だよ」 「残念ながら外れです。自炊はしますが、得意じゃないですよ。まあ以前より手際はよくなったかな」  雑談しながらスーパーマーケットの店内を歩き回っていると、佐希子と肩を並べて買い物をしていたことを水澤はぼんやりと思い出した。離婚してからやはり孤独を感じるのか、たまに佐希子と生活の記憶がよみがえる。それには楽しい感情だけが伴っていて、水澤は佐希子と朝陽に会いたいと思った。行動に移すことはなかったが。  キャベツ1/4カットともやしを籠に入れて、ふと小野塚の籠の中を見ると、人参と玉葱とじゃが芋が入っている。カレーでも作るのか、いやこの時間から作るなら肉じゃがかもしれない。 「俺、お菓子売り場行くんですけど、水澤さんどうします?」  菓子は好きな方なのだが、休日に買い物に行くとお菓子売り場は子供が何人もいるので気が引けてあまり覗いていなかった。小野塚についていくと、ファミリー層が多い街なだけあって広めのスペースが割かれているのがわかった。小野塚はひとつ数十円の駄菓子を幾つも籠に放り込んでいる。 「子供の頃からこういうのが好きで……でも小遣い少なかったからあまり食べられなくって。その反動ですかね。酒のツマミについ買っちゃうんですよ。めちゃくちゃ美味いってわけでもないのに」 「それはわかるよ」  水澤は酒こそ飲まないが、たまに小さな菓子の袋を買ってつまんでいる。有名洋菓子店の焼き菓子もいいが、その1/30程の値段の甘じょっぱい駄菓子が嫌いではないのだ。  小野塚はチョコレートの箱を眺めていたが、急に水澤の顔を覗き込むと、 「この間はすみません」 と小さな声で言った。 「何のこと?」  見当がつかなかった水澤はそう返したが、言葉にしたとたん小野塚に痴態を見せてしまったことを思い出して、居たたまれなくなった。 「あの、引っ越し作業の後で定食屋に行ったでしょう?そのとき俺の前の会社の同期に会ったじゃないですか。久しぶりだったんでつい話し込んで、水澤さんをほったらかしにしちゃった」  すっかり忘れていたが確かにその通りだ。内輪話で盛り上がっていて入る隙もなくつまらないので、水澤は豚カツ定食を食べ終えると、ひとりで会計してさっさと帰ってしまったのだ。その後は荷ほどきをするのに夢中で、不快感はすっかり忘れてしまっていた。 「別に気にしてないよ。君も懐かしかったんだろ」 「市内の寮に住んでる連中もいるんですけど、あまり会う機会がなくて」 「それならむしろ良かったじゃないか」  肉や飲料も籠に収め、会計を済ませる。小野塚は慣れた様子でポイントカードを出していた。手続きが面倒臭くて作っていなかったが、キャッシュレス決済ができるようだし、便利そうだなと水澤は思った。 「本当にすみません」  こんなに気にする奴なのかと不思議な感じがしたが、小野塚から見れば水澤は先輩なのだから気を遣うのも当然だろう。ましてや好意の対象なのである。それでも、昔の仲間に遭遇してついそちらに夢中になってしまう小野塚の姿は、むしろ微笑ましくもあった。 「君が思っているほど失礼というわけじゃないよ」  その前の晩の方が余程……と言いかけて、水澤は言葉を飲み込んだ。なんと弁解しようと、誘ったのは自分の方だ。寂しい気分を紛らわせるために、小野塚の気持ちにつけこんだのだから、卑怯ではないか。  店を出ると、空は大分暗くなっていた。買いすぎて重くなったエコバッグを抱えて、水澤は帰路についた。小野塚も袋を持って隣を歩いている。どこまでついてくるのかが気掛かりだった。お互いの自宅がとても近くだったらどうしようかと不安になるが、よく考えると近所でもどうということはないはずで、水澤が勝手にあれこれ考えているだけである。 「俺の家こっちなんで」  水澤ははっと顔を上げ、小野塚の指さした先に目を向けた。市内でいちばん大きな公園のある方角だ。水澤はいちどその公園に行ったことがあるが、夫婦と小さな子供の組み合わせがやたらと目についてしまい、落ち込んでそれ以来近づいていない。 「それじゃ」  小野塚はちょっと頭を下げ、すこしスピードをあげて歩きだした。背中が遠ざかるのを水澤はしばらく見送っていたが、やがて背を向けた。1か月前まで住んでいた街よりも、街灯が少ないせいか夜道が暗く、なんとなく心細かった。  小野塚があっさり帰っていったことに、水澤は拍子抜けしていた。何だかんだで会話を引き延ばして、もっと自分の相手をしてくれることを期待していたのかもしれない。新しい部署の人たちは突然本社から流れてきたいわく付きの彼を快く受け入れてくれたけれど、むしろ水澤の方が変に気を回して勝手に疲れている。本社で起きたことを彼らがどのくらい知っているかもわからなかったし、彼が離婚していることはなおさら知らないだろう。その点で何もかも知っている小野塚に対しては、多少不本意ながらも遠慮をする必要もなかった。要するに、気が楽なのだ。  アパートの外階段を上がって部屋に入る。もうそろそろ慣れてきたが、玄関も廊下も何もかもが狭い。少し買いすぎたかなと思いながら、水澤は購入した食材を冷蔵庫に収めていった。  自炊を再開して思ったのは、ひとり分を作るのは意外に面倒くさいということだった。佐希子とは味付けの好みが合わず譲歩することもあったから、好きなものを気ままに食べられるのは良いが、どうしても作りすぎてしまう。冷蔵庫には半端な量の残り物の入った密閉容器が積み上がっている。本当はこれを食べなくてはいけないのだが、ついその日の気分で料理を作ってしまって、また余らせるのだ。  ひとりで残り物を食べるのが虚しいのかもしれないな、と水澤は思った。  片付けを終えた水澤は鞄からスマートフォンを取り出し、電話帳アプリを開いた。緊急連絡用として教えてもらって、今まで一度も使ったことのない番号を探し出し、通話ボタンを押した。  呼出音が耳にこだまする間、水澤は少しだけ躊躇して、このまま留守番電話に切り替わってくれれば良いと思った。しかし7コール目で機械音は途切れ、やわらかな声が鼓膜をくすぐった。 「はい、日比野です」  水澤は安堵しながら緊張するという不思議な感覚をおぼえた。 「お久しぶりです、水澤です……」 「元気そうじゃないか」  日比野の声は明るかった。 「こっちは君が抜けてから大変だよ。小さいトラブルが続いてね。君はなにかと気が回るから、安心して仕事を任せておけたと、今更ながら思うよ」 「いや、そんな」  謙遜してみたものの、前の職場に……日比野に少しでも必要とされているかと思うと、素直に嬉しかった。 「仕事はどう?だいぶ雰囲気が違うだろう」 「そうですね。だいぶのんびりしています。定時で帰れることも多いですよ」  商品企画課に居たときは終電間際はしょっちゅうだったし、総務課のときもそれなりに仕事はあったから、異動直後は拍子抜けしてしまった。そのうち、早く退社することが悪だとなんとなく刷り込まれてしまっていた自分に気がついた。長時間の残業は山崎の無茶な要求に応えるためであったが、知らず知らずのうちに時間をかけるのをよしとしていたのだ。それが心身を蝕んでいたのにもかかわらず。 「あの、お菓子ありがとうございます」  電話をかけた目的は、差し入れの礼を言うためだった。あまり雑談が長引かないうちに、切り出しておきたかった。 「ああ、つまらないものだけど」 「人気店で買うのが大変だって、うちの若い子が言ってましたよ。並んだんじゃないですか」 「ははは……俺は並んでないからね」 「奥様ですか」  日比野の妻は大手銀行の役員の令嬢……というのは杉本の受け売りである。母方も華族に繋がるとかなんとか、でもこざっぱりして嫌味のないひとなのよ、と杉本は見てきたかように語っていた(実際に見たのかもしれない)。しかしさっぱりしてようがなんだろうが、日比野が妻にそんなお使いをさせるとは思えない。 「いや、友人に行かせた」  日比野はすこし言いにくそうに答えると、埼玉支社の主力商品の話を始めた。しばらく当たり障りのない雑談をし、水澤は電話を切った。  自炊するつもりだったのになかなか気力が湧かず、水澤はぼんやりとソファに体を預けて、日比野が買い物に行かせたという友人は誰なのかと考えていた。  日比野のような人間が決して行かないようなチェーンのそば屋で、彼と一緒に蕎麦を啜っていた男が脳裏に浮かんだ。訳もなく、芳賀に頼んだのだろうと水澤は確信した。ふたりの間にあからさまな上下関係があるようには思えない。あのときの水澤は穏やかな顔をしていた。いや、その表現では足りない。くつろいでいるとでも言おうか、安心しきった表情だった。きっと、芳賀のことを信頼しているのだ。  配偶者だろうと友人だろうと、異性でも同性でも構わない、日比野にとっての芳賀のような存在が欲しいと思った。

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