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10 溢れるもの-1
地下鉄駅の階段を昇りきると、陽の光が頬を突き刺した。天気予報では今年初めての真夏日になるという。水澤はジャケットを腕に掛け、ワイシャツの袖をまくった。昼過ぎで人のまばらなオフィス街を少し歩き、少し古めかしいビルの自動ドアをくぐる。その脇には黒御影石の地につや消しの金文字で「株式会社ヒビノ 東京本社」と記された看板があった。
数ヶ月前まで毎日通っていた建物なのに、エントランスがよそよそしく感じる。エレベーターから降りてきた社員も、見知った顔がいない。単なる偶然なのだろうが、水澤はすこし不安になった。
それでも気力を振り絞ってエレベーターに乗り込む。運良く誰も同乗せずに、7階まで上がることができた。
「あら、水澤くん!」
総務課のオフィスに一歩踏み入れた途端、杉本が気がついて声を上げた。覚悟はしていたもののあまりの勢いに、水澤は面喰って曖昧な笑みを浮かべた。
「久しぶりねえ。元気そうじゃない!」
「ええ、まあ」
「今日はどうしたの?」
「こっちの出版社で打ち合わせがあったもので、ついでに」
「あらあ、バリバリやってるじゃない」
本社にいたときほどではないが……と水澤は思ったが、杉本は皮肉を言ったわけではなく、素直に再会を喜んでいるようだ。
「あの、これ……」
水澤は持っていた紙袋を杉本に渡した。
「扇年堂の最中だ~ありがとう」
なにか手土産を用意しなければと悩んでいた水澤は、まだ総務課にいた頃よく配られていた菓子を思い出し、寄り道して買ってきたのだ。
「これ、日比野課長も大好きなのよね。課長には2個残しておこう」
水澤は課長席の方にちらと視線を向けた。コーヒーの缶が置いてあるが、ノートパソコンの蓋は閉じられている。
「あの、課長は……」
「さっき出張に行っちゃったのよ」
「そうですか」
挨拶したかったが連絡もせず立ち寄ったのだから、会えなくても仕方がない。
「最近社内が慌ただしくってさ、課長も忙しそうなんだよね」
杉本は社員の机に最中を配っている。
「1個余っちゃった。水澤くん持っていきなさいよ」
「ありがとうございます」
「自分が買ってきたんだから、恐縮しなくていいのよ~」
最中を受け取った水澤の手を、杉本はまじまじと見つめた。
「指輪、どうしたの?」
水澤は背中がつめたくなるのを感じた。朝陽の扶養を外す必要があったので人事課に届け出はしたものの、同僚にはほぼ告げずに会社を去ってしまった。
「落としちゃったの?」
杉本の言葉に探るような響きはない。単純に心配しているようだ。
「まあ、そんなもんです……」
「駄目よ~。些細なことだと思ってるかもしれないけど、そういうことから夫婦関係が綻びるんだから」
「はい……」
水澤はどうにか笑おうとした。
さっさと社屋から出てしまおうと水澤はエレベーターに乗ったが、数人の社員と台車が入ってきて混み合ってしまった。
「あれっ、水澤」
声をかけられ振り向くと、よく知った顔があった。
「中村……」
階段を使えばよかったと水澤はすこし後悔した。
「元気そうじゃん」
「うん、まあ」
「ちょっと太ったんじゃね?」
「ははは……」
気にしているところを突かれてしまった。
「まあ、俺たちもそろそろ気をつけなくちゃいけない歳だよなあ」
4階の表示が光る。扉が開き、段ボール箱を山のように積んだ台車がそろそろと出て行く。
「ちょっといいか?」
中村に促され、水澤はエレベーターを降りてしまった。日比野に挨拶はしたかったが、この階には立ち寄りたくなかった。
「なんだ、そっちの課には行かないからな」
「行かなくていいよ。それより、お前には大ニュースだと思うよ」
中村はあたりをうかがっている。エレベーターホールには誰も居なかった。
「勿体ぶるなよ」
「わかったって……あのさ、小野塚っているだろ。去年中途採用で入った奴」
まさかその名前が出てくるとは思わず、水澤は自分が変な表情をしているのではないかと不安になった。
「水澤、知り合いだったろ?」
「うん、まあ」
「あいつ、山崎部長を殴っちゃった」
水澤は息を呑んだ。肌寒いくらいに空調が効いているのに、背中に汗が伝っていく。
「なんで……」
「お前ならわかるだろ?例の無茶振りだよ。だいぶ無理難題吹っ掛けてたからな。キレちゃったんだろ」
「……で、どうなったんだ?」
「殴ったっても平手だからさ。ちょっと手の痕がついただけなんだよ……でもまあ大騒ぎになってさ、小野塚はしばらく謹慎。出勤止められてる」
「マズいじゃないか」
「確かにな」
深刻な内容のはずだが、中村の表情は妙に明るい。
「でもさ、俺たちとしては清々するじゃないか」
「それはそうだけど……」
言葉にすべきかすこし悩んでから、水澤は口を開いた。
「小野塚がクビになるかもしれないじゃないか」
中村は頷いた。
「お前の言うとおりだよ。確かにこのままだと小野塚はクビになっちまう。それは俺たちも本意じゃないからさ……人事課に掛け合ったんだ」
中村は声をひそめた。
「誰がやったのかわからないんだけど、部長室に録音機が仕掛けてあってさ、役員プレゼンの前後に電源入れてたんだよね。だから、殴られる前の部長の台詞がしっかり録れてて……暴言も酷いけど、先に部長が手を出してたみたいなんだよ」
水澤は唾を飲み込んだ。
「だから、小野塚だけを一方的に処分するわけにいかなくなっちゃったわけ。揉み消そうとしたらこっちも労基署に訴えなきゃいけないかなあと思ってるたけど、人事も認めたんだよね……部長はグランドデザイン顧問とやらになって、今のところ在宅勤務になった。めでたいんだけど、そのあとの部長が決まらないで、ちょっとバタバタしてるかな」
「そんなことが……」
録音されていた内容は水澤には容易に想像できてすこし息苦しくなったが、山崎がもうここにはいないと思うと、すぐに収まってきた。
「しかし、人事課も思い切ったな」
「証拠があるし、発言力があるひとが交渉してくれてさ」
「誰?」
「お前の元上司……日比野課長」
中村は上機嫌に語ったが、水澤は痛快ながらも胸の奥がモヤモヤとして変な気分になった。日比野がそんな思い切ったことをしたなんて。ただの良いひとなのだろうか。社内の敵を排除するのに商品企画課の連中をうまく利用したのではないか。
録音機を仕掛けたのも日比野かもしれない、と水澤は思ったが、中村に言うつもりはなかった。
「小野塚はどうなるんだ」
「うーん、もう1週間くらい出勤してないんだよね。俺たちも奴がどんな処分になるかはわからない」
「そうか……」
余計なことは口にせず、水澤は中村と別れた。もうこれ以上知り合いに遭遇したくなかったので、非常階段を使って足早に社屋を脱出した。このまま直帰する旨を職場に連絡すると、まだ帰宅ラッシュの始まっていない電車に飛び乗った。
オレンジ色に染まるビル群を眺めながら、水澤は迷っていた。決断できないまま電車を乗り換え、しばらく車窓を眺めているうちに駅に着いてしまった。薄暗くなってきた住宅街をぼんやりと歩き、もう二度と足を踏み入れまいと思っている公園のある方角へ進んでいた。
ほとんどが戸建てで、アパートは一軒しかなかった。軒先に並ぶ郵便受けの表札を目を凝らして確認すると、202号室に「小野塚」の文字があった。
水澤は意を決して階段を昇った。
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