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10 溢れるもの-2
呼鈴を押した瞬間、水澤は逃げ出したくなって、このまま居留守を使ってくれればいいと思った。しかし数秒後にインターホンから声が響いた。
「はい」
黙っていたらいたずらだと思われてしまう。水澤は意を決して声を出した。
「水澤だけど」
返事はないがバタバタと音が近づいてきて、ドアが開いた。
「どうしたんですか」
その体をぐっと押して水澤は玄関に入り込み、ドアを閉めた。
「山崎部長を殴ったんだって?」
小野塚は目を丸くし、そして笑った。
「情報が早いなあ。誰から聞いたんですか」
「誰だっていいだろ」
「日比野さんじゃないんですか」
「……違う」
「ならいいや」
小野塚の表情がすこし和らいだような気がした。
「あのひと水澤さんを贔屓にするような態度なんですよね。妬けちゃうだよな」
「そんなことはどうでもいい」
水澤はすこしイライラしてきた。
「部長を殴るなんて、どうしてそんな馬鹿なことしたんだよ。あんな奴のために将来を棒に振ることはないのに」
強い口調で言っているうちに目のまわりが熱くなった。自分が殴っておけばよかった、そうすればこんなことは起きなかったのにと、混乱した思考が脳を占拠していた。
「まあ、自分でもやっちまったなとは思いましたよ」
小野塚は顎のあたりを掻いた。髭はきれいに剃られていて、ひとりでいるのにきちんとしているんだなと水澤は思った。
「俺の作ったものだけをボロクソに言われるなら別に我慢するんですけどね……あんな奴でもたまには使える意見があるし……でも、水澤さんのアイディアまであれこれ言われるのは耐えられないんですよ」
「俺の?」
「ほら、共有フォルダに残してくれていたものです。前に、使っていいか訊いたでしょ」
「ああ……」
確かに使ってもいいとは言った。しかしそのせいでこんなことになってしまうとは。
「駄目だよ。部長は俺の作るものは全否定なんだ。多分、根本的に考えが合わないんだよ」
「合わないというより嫉妬だと思いますけどねえ。もう、自分じゃ新しいもの作れないから」
小野塚は肩をすくめた。
「それは仕方がないことだと思うんですよ。人間、老いれば脳は衰えていくものだし……でも、後進の足を引っ張っていいもんじゃない。組織のためにもならないでしょう」
それは水澤もわかってはいたが、山崎の暴言の前に言い返すこともせず、いつしか考えることをやめてしまっていた。
「……だから、俺言ってやったんですよ。あなたの業績は素晴らしいかもしれないけど、部下の提案をいちいち潰していたんじゃ、良い上司とは言えないでしょうって。そうしたら、拳骨で小突かれました」
この辺かな、と小野塚はこめかみを指で押さえた。
「ま、痛くも痒くもなかったんですけどね。でも腹がたって……バチーンとやってしまいました」
「……」
「最近、部長にネチネチ言われてばかりで、正直ストレス溜まってたんですよね。いつもならちょっと叩かれたくらい気にしないんですけど。ほら、駱駝の背を折る藁ってやつ……」
「……」
「泣きそうな顔しないでくださいよ」
そんな表情なのかと水澤はすこし恥ずかしくなった。
「でも、こんなことでクビになったら不本意だろうし、変な噂が流れたら転職だって難しくなるだろうし」
「ま、そこは気楽な独り身ですから。全然違う業界のバイトから始めますよ。本屋とかいいかな」
あまりに飄々とした態度に、鼻の奥がつんとした。
「大丈夫ですよ。さっきうちの課長から電話がありましてね。来週から出てきていいって」
「本当か?」
「君の肩身が狭くなければ、なんて脅かされましたけどね」
「ひどいこと言うな」
山崎が居なくなって肩身が狭いのはむしろ課長なのだろう。誰が部長になるのか知らないが、課長としてはさらに居心地が悪くなるかもしれない。
「月曜日から出社しますよ。何言われるかわかりませんけど、その時はその時」
「そうか……」
拍子抜けしてしまった水澤は、なぜ自分がここにいるのかわからなくなってしまった。後先考えずに押し掛けて、ばつが悪いだけである。
「良かったな……じゃあ、俺は帰るよ」
その言葉が終わらないうちに小野塚の腕が伸び、背中の後ろで金属音がした。
「せっかく来てくれたのに、ゆっくりしていけばいいじゃないですか」
鍵をかけられたことに気がつき、水澤は慌てた。
「いや、ちょっと寄っただけだし……」
「このあと予定あるんですか?」
「いや、ない……」
「ならいいでしょう」
腕をぎゅっと掴まれ、水澤は混乱してきた。そういえばなぜ小野塚の家に行ってしまったのだろう。電話とかメールとか、もっと簡易な方法があったのに。
「誰かに頼まれて様子を見に来たんですか?」
「いや……」
水澤は言い淀んだ。
「俺のこと心配して来てくれたんでしょう?」
もう取り繕っても仕方が無いと諦めた水澤が頷くと、小野塚はにっこりした。
「嬉しいなあ。想われてるっていい気分ですね」
「いや、あの」
そんなつもりじゃないと言いかけたが、小野塚の顔がぐいと近づいてきて声が出なくなった。
「連絡くれないから、どうしているかと思ってました」
「君こそ、メールのひとつも寄越さないから……」
もう俺への興味は無くなったのかと思った、と恨み言のような言葉が出かかったのを水澤は飲み込んだ。何を言おうとしているのだ。
「水澤さん新しい環境で大変だろうから、あんまりガツガツいったら嫌われるかな、と思って」
「……本当か?」
「結構、我慢してたんですよ」
水澤はにわかに緊張してきた。しかもその様子を小野塚にずっと見つめられているのだ。
「キスしてもいいですか?」
「……急だな」
「そんなことないですよ」
良いともダメとも言う前に脣を吸われていた。顔を背けようとしたが、首の後ろを押さえられて逃れられない。たっぷり数分は舌を貪られ、水澤は酸欠で頭の芯がくらくらしてしまい、不本意ながら小野塚に寄りかかった。
「君、謹慎中だろ」
「関係ないですよ」
脚の間をまさぐられる。
「……おい」
「したくなっちゃいました」
「……」
「水澤さんのも、大きくなってますよ」
硬いものが股間に押しつけられるのがわかった。何なのかは容易に想像できたが、目の当たりにするのは怖くてできない。じわりと快感がにじみ出てきた。
「駄目だ……スーツなんだからさ……」
「じゃ、脱ぎます?」
「ここで?」
「水澤さんがその気になら、ベッドに行ってもかまいませんよ」
「いや、それは……」
小野塚は水澤のシャツのボタンを外すと、うなじや鎖骨に脣を這わせた。
「汗臭いだろ」
「悪くないです……でも水澤さんが気になるなら、シャワー浴びますか?」
「いや、いい」
この期に及んで水澤はまだ逃げ出す方法を考えていたが、小野塚にはしっかり押さえつけられていたし、体の奥の温度はどんどん上昇していて、発散しないとおかしくなってしまいそうだ。
「わかったよ……ここじゃなくて、別のところに行こう」
寝室、などとは恥ずかしくて口に出せなかった。
「いいですよ」
小野塚の体が離れた。水澤は服に染みがついていないか、心配になった。
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