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第2話 どうしても手に入れたいものーsideカイルー

 私は王座にあまり興味はなかった。  どうしても王になって権力を手に入れたい腹違いの兄と、我が子可愛さに息子を王位に就けたいと思うその母親。  それならどうぞ勝手にしてくれ、と思った。王様なんて面倒で厄介なものはやりたい奴がやればいい。兄上が王になりたいのならなれば良い。  そんなものよりも私には欲しいものがあった。  私がどうしても手に入れたいものはあの人だけだ。  ある日、薔薇が咲く庭園で彼女は言った。 「アタシにとっては婚約破棄されるのはものすごーく嬉しい。でもみんなにあたしが人を虐めるような低俗で狭量な人間だと思われるのは矜持(プライド)が許さないの。それにあたしの協力がないウィルフレッド殿下なんかが王になったら絶対に国が滅びるわ。滅びちゃったらゆっくりイチャイチャもできないじゃない!」  いたずらっ子のようにニッと笑ったアリシア嬢は、私にある条件付きで手伝いを求めた。 「カイル殿下が王になったらやってもらいたいこともあるし。あなたにとって悪い話じゃないわ。その代わりにあなたが一番欲しいものをあげる」    玉座になど興味はなかったはずだった。  だが、あの人が私のものになるのならば喜んで兄上から王位継承権を奪い取ろう。  自分が一番偉いと信じて疑わない傲慢な兄上の腕には、周りに祝福されていると信じて疑わない、派手な衣装(ドレス)を身に纏った女が縋りついている。大きな胸を押しつけられて鼻の下を伸ばしている姿は浅ましいとしか言いようがない。  少し高い場所に(しつら)えられた豪華な椅子にぐったりと座り込む正妃は蒼白な顔をして今にも気を失いそうで。  隣に座る陛下(ちちうえ)は怒りで顔を真っ赤にして手を震わせている。蒼と赤。対称的な二人の顔色だ。  それなのに、二人の後ろに毅然として立つ男は、娘が婚約破棄されたのにも関わらず顔色を全く変えていない。僅かに開いた口元はやんわりと弧を描いている。彼はアリシア嬢の父親で、やり手の宰相でもあるグランティア公爵だ。    老獪な彼は私に目配せをして軽く頷いた。  私が今からすることは簡単だ。  女を断罪し、兄上を追い落とし、王位継承順位の第一位になる。  幸いにもここは王立の学園。卒業パーティーには当然陛下と正妃が揃い、学園に通う高位貴族の生徒たちとその親たちが一堂に会す場所だ。ここで起きた出来事は、この場にいない貴族たちにもすぐに伝わるだろう。  兄が一方的に公爵令嬢との婚約を破棄し、平民を自分の隣に立たせていることを。  イリーナ嬢がアリシア嬢にされたと証言する嫌がらせは全てイリーナ嬢の自作自演だったという事実を。  そう、アリシア嬢に渡された『防犯カメラ』には、教科書を自分で汚し、自分のノートを破り捨て、自分のペンを自らの足で踏み潰し、自分の靴をゴミ箱に捨て、自分の宝飾品を自らの手でアリシア嬢の机に入れ、自ら水をかぶったのにも関わらず誰かに水を掛けられたと叫び、階段下で何もされていないのにいきなり悲鳴を上げて階段から落とされたと言い募るイリーナ嬢の姿が確かに映し出されていた。    これだけでも偽証罪であるし、ただの平民が公爵令嬢を貶めたという侮辱罪にも当たる。これはすぐに手打ちにされてもおかしくない。  そしてこの映像を見れば、常に公平な立場を取らなければならない上に立つ立場であるはずの兄上が、詳細な調査もせずに好きな女の言うことを全面的に信じた挙げ句、瑕疵のないアリシア嬢に冤罪を押し付けたということが分かり、兄上には王位を継ぐ素質がないということが皆に露見するだろう。  そこで駄目押しのように、王位継承権のある私がグランティア公爵家の後ろ盾を受け、アリシア嬢を婚約者に据えることを皆に伝えれば、簡単に私の手の中に玉座が転がってくるだろう。  私は皆の目線を集めるように態とカツカツと靴音を立てて歩き、兄とイリーナ嬢の前で立ち止まった。    ーーーさあ、アリシア公爵令嬢の言う『ざまあ』とやらを始めよう。    欲しいものを手に入れるために。  ====================  兄の婚約者に決まった公爵令嬢が王妃教育のため王宮に上がった日。  私は好きになってはいけない人に恋心を抱いた。  十を少し越えたくらいか。陽に透けると黄金色(きんいろ)のように見える飴色の髪を紐で一つに纏めたその人は、薔薇の葉のような深緑色の瞳を大きく見開いてその眼に私を映した。  庭園に咲き誇る薔薇のような紅い唇に、愛嬌のある微笑ましい顔立ち。子供特有のすらりとした身体はきらめくようで、私は大きく息を呑んだ。  私が意識をしないうちに唇が勝手に動いて、目の前の子供に声をかけていた。 「そこの君、直答を許す。名前を教えてくれないか?」  その人は私に名前を告げたあと、誰にも真似できないほどの美しい所作で一礼した。 「勝手に庭園に入り込んでしまい申し訳ありません。あまりにも美しい薔薇で、近くで拝見したくてつい……」 「……あ、いや。構わない」  顔を上げたその人と私の視線が交差した。その瞬間、その人は恥ずかしそうに顔を赤らめ、少し首を傾げておずおずと口を開いた。 「ーー…あの…、失礼ですがもしかしてあなたはカイル殿下ですか…?」  直答を許した時点で私の立場が王族ということには気付いたのだろうが、まさか私の顔と名を知っているとは思わなくて少し驚いた。私は父上の側室の子で、正妃に疎まれていることもあり、父上と共に数少ない公務に出る以外は人前に出ることがほとんどないため、顔があまり知られていない。いつも側室宮の隅に与えられた一室で過ごし、正妃とその息子である腹違いの兄ウィルフレッドになるべく会うことがないようにしており、天気のいい日に偶にこうして庭園に出て散歩するくらいだった。  それなのに、目の前のこの人は私のことを知っていた。  嬉しい。素直にそう思った。  でもどうして私の名前を知っているのだろうか? どこかで会ったことがあっただろうか。 「ああ。そうだがーー、なぜ私のことを?」 「王妃教育の資料の中に、王族の皆様の絵姿がありました」 「ああ。あれか。私の顔を覚えてくれていたんだね」  答えに納得した私は手を上げ、目立たず立っていた私付きの侍従に今すぐ二人分のお茶とお茶菓子を用意するように促した。母が生きていた頃から私に付いてくれている侍従はもの言いたげな目を私に向けたが、すぐに目を逸らしてその場を静かに立ち去った。  確かにこの人と私は話してはならない立場の人だ。だが、私はもう少しこの小さな友だちと一緒にいて言葉を交わしたかった。 「まだ時間はあるだろうか。お茶も用意させたし、少しの間でいいから私の話し相手になってはくれまいか」  最初は遠慮していたが、余りにも私がしつこく言い募ったからだろう。少し考えた後でこくりと頷いてくれた。  思えば私は同い年くらいの子と話したことがなかった。兄上は母から何か言われているのか、私と顔を合わせても嫌そうな顔をするだけでまったく言葉を交わさなかったし、彼のように学友候補の側近も付けてもらっていなかった。私の周りにいるのは勉学や行儀作法の先生などの大人と、たった一人の侍従だけだ。  頷いてくれたことをいいことに、その子の手を取って少し歩いた場所にあるガゼボまで案内し、椅子に座らせた。私は微笑みを浮かべながら、どうせ今は侍従も近くにおらず誰も咎める人はいないので、相手が話し易いように砕けた口調で話しかけた。 「ごめんね、ここまで連れてきてしまって。同じくらいの歳の子とあまり話したことがないから話がしたくって。これからも君は王妃教育の時に王宮に来るだろう? 時間が空いた時でいいから私の話し相手になってくれると嬉しいな」  手をぎゅっと握って上目遣いでお願いをすると、その人はふたたび顔を真っ赤に染めた。握った手は朝露のようにしっとりとして温かく、このままずっと握っていたいと思った。 「お友達がいない私を助けると思って。ね?」 「……分かりました。私でよろしければお相手いたします」  その答えに私は満足し、嬉しくて走り回りたいような気分になった。人と話すことはあまり得意ではないはずなのに自分から誘うなんて、私はそんな積極的な性格ではなかったはずだ。 「カイル殿下は剣術も勉学も優秀だと聞き及んでおります」 「え? あ、ありがとう」  意識が逸れていたせいで返事が少し遅れてしまった。優秀だなどという話は公爵にでも聞いたのだろうか。  私を褒めてくれた母はもう居らず、父は正妃に遠慮して表立って私を褒めることはない。だからたとえだとしても褒められて悪い気はしなかった。 「先ほど触れたカイル殿下の手のひらは剣だこで固くなっておりました。指にもペンだこがありますし、とても努力されている方の手だとすぐに分かります。私は努力されているカイル殿下を尊敬します」  私を冷淡な目で見る正妃、私を邪険にする兄、腫れ物を扱うように接する父。そんな毎日の生活の中で私の心は冷え切っていた。その筈なのに目の前の人の言葉に心が温かくなった。努力を初めて人に認めてもらえた。まるで自分自身の存在を認めてもらえたかのようだった。  おずおずと私に向かって手が伸ばされた。  気が付くと、私は涙を流していた。  小さくて細い指が私の涙を拭った。もう泣かなくてもいいと宥めるようにその手が静かに動いて私の髪に触れ、そしてゆっくりと頭を撫でた。  王族に許しもなく触れることは、不敬罪で今すぐ斬られてもおかしくないのに、優しい人は何も言わずに私が泣き止むまで頭を撫で続けた。  どれくらいそうしていただろう。お茶を運ぶ侍従の気配に気付いたのか、さっと温かい手が離れてしまった。私はその手を名残惜しそうに見つめた。もっとその手を感じていたかった。その代わりにちょうど暖かな風が二人の間に優しく吹きつけ、撫でられ少し乱れていた私の銀の髪を揺らした。今日はとてもいい天気だ。暖かい風に誘われて薔薇園に来て正解だった。  私たちの間に流れる微妙な空気を感じたのか、わずかに微笑みを浮かべた侍従の手によってカップに紅茶が注がれ、焼き菓子(クッキー)と共に私たちの前に置かれた。そしてすぐに私たちの姿が見え、尚且つ声が聞こえない絶妙な位置に侍従は音もなく移動した。  感心して侍従を見つめていたが、はっと気づいてカップを手に取り、薔薇の香りがする紅茶を飲んで焼き菓子に手を付けた。私が先に口を付けて許可を出さないと、私より身分の低い者は食べることができない。 「美味しいよ、どうぞ」  私のその声に、ようやく焼き菓子に手を伸ばして一口齧った。その瞬間ぱあっと相好を崩し、指につまんでいた残りを一気に口に入れ頬張った。美味しいお菓子のおかげで緊張が解けたようだ。美味しそうに食べる子供らしい姿を微笑ましく見ていたら、急に慌てた様子でカップを手に取って紅茶をごくごくと飲んだ。どうやら菓子を飲み込んだ時に、喉に詰まったらしい。    お茶を飲み込むたび上下に動く滑らかな白い喉元と、襟元から覗く鎖骨のくぼみに目が吸い寄せられる。その場所を唇で()めば、きっと甘い味がするだろう。そう思ったら、なぜか私の中にむくむくといたずら心が湧いてきた。  私は別の焼き菓子を一つつまんで、相手の口元へ差し出した。 「こっちも美味しいよ。ナッツが入ってるんだ。はい、あ〜ん」 「え」  一瞬の空白の後、三度(みたび)頬がじわじわと薔薇色に染まるところを、私は瞬きもせず見つめた。 「ほら、あ〜んして?」 「あ、え、う、えぇ…?」  狼狽えて、大きな目をパシパシ(しばた)いている相手の唇に向け、焼き菓子を尚もグイグイと押しつけた。私が引かないことが分かると、困ったような、それでいて恥ずかしそうな微妙な顔をして身体を前に出した。そして顔にかかった髪を耳に掛けた後でようやく口を開き、私が持つ焼き菓子を口に入れた。サクッという軽い音が聞こえるほど至近距離に顔がある。 「……美味しい?」  探るように聞くと目を細めて顔を綻ばせたので、どうやら気に入ってもらえたようだ。 「このクッキーとても美味しいです。ありがとうございます殿下。公爵家で出されるお菓子も美味しいんですよ。お菓子作りが上手なシェフがいて、毎回手作りしてくれるんです」 「それは良いね」  食べさせた焼き菓子の残りを口に入れた。甘い味が口の中に拡がる。 「間接キスだね」  私がからかうように言ったら耳たぶまで顔が真っ赤に染まった。赤面は四度目か。クスクス笑うと、顔を赤らめたまま可愛らしく頬を膨らませた。  私は今まで何にも執着することがなかった。欲しかった愛情も母が亡くなってから与えられたことはなかった。手を伸ばしてもどうせ手に入らないのならば最初から期待しない方がいい。そう思ってずっと諦めていた。  それなのに目の前にいる愛らしいこの小鳥だけは、手に入れて私だけのものにしたくなった。心の中にとぐろを巻く黒いもの。これが欲望という感情か。    しかし私はこの人と結ばれることは絶対に許されないーー。それは分かっていた。 「あの……そろそろ失礼させて頂きます」  カタリ…と椅子を後ろに引いてその人は立ち上がった。いつまでも一緒にいたかったが、どうやら時間切れのようだ。私と一緒にいるところを誰かに見られて迷惑をかけるわけにもいかない。名残惜しいが仕方がない。 「戻り方は分かる?」 「はい、大丈夫です。今日はありがとうございました。お茶とお菓子、とても美味しかったです。それでは失礼します」  きびすを返して帰りそうになった所で、名を呼んで呼び止めた。 「次の王妃教育は金曜日だったね。今度は君ご自慢の公爵邸のシェフが作った菓子が食べたいな」  また会いたいということを暗に仄めかすと、薔薇の蕾が綻ぶような笑顔で頷いてくれた。その表情を私はきっと一生忘れないだろう。  それからというもの、私たちは王妃教育のたびに薔薇の庭園で会って話すようになった。その幸せな時間は王妃教育終了の日まで繰り返された。  ====================  卒業パーティーの会場は、阿鼻叫喚の嵐だった。  イリーナ嬢の自作自演の映像を見せると、彼女は膝から崩れ落ち、兄上の足に取り縋って泣いた。 「だって、だって! アリシアは悪役令嬢のはずなのにわたしに意地悪しないんだもん! ヒロインをいじめてくれないと物語の通りにならないじゃない! それにわたしたちは結ばれるんでしょう? わたし、王妃様になれるのよね? ねえ、なんとか言ってよウィル!!」  この状況から考えるに、どうやらイリーナ嬢もアリシア嬢と同じ転生者だったようだ。  ーーああ、見苦しい。  取り乱すイリーナ嬢と、毅然とした態度で会場を後にしたアリシア公爵令嬢。どちらが次の王の妃に相応しいのか、誰の目から見ても明らかだ。器が違いすぎる。兄上はこの女のどこが良かったのだろう。  ーーああ、今すぐにあの人に会いたい。 「今からでも遅くないわ。婚約破棄を撤回しなさい。ね?」  ようやく正気を取り戻したのか、正妃が媚びるように息子に婚約破棄を撤回するように言い募っている。それを見てアリシア嬢の父である公爵が口を開いた。 「婚約破棄の撤回は認めません。娘が侮辱されたのに、誰がその侮辱した相手との婚約を再び認めるとお思いですか。私は名誉毀損でウィルフレッド殿下とそこにいる女に謝罪と賠償を要求します」  くたり、と倒れる正妃と、慌てて駆け寄る侍女たちの姿を見ている公爵の口元が歪んでいるのに気が付いた。賠償金はいくらくらいになるだろう。宰相でもあるこの人はきっと適正金額をしっかりと搾り取るに違いない。金を出すことになるのはおそらく正妃の実家であるケンドール公爵家のはずなので、必然的にケンドール公爵家は権勢を落とすことになる。そこまで考えていたのか。この人は絶対に怒らせてはならないと肝に銘じた。  公爵のお膳立ては済んだ。後は私が、皆に王位を継ぐ意思があると伝えるために、アリシア嬢との婚約を発表するだけだ。 「陛下。アリシア・グランティア公爵令嬢はとても優秀で王妃教育も最短で終了しており、このまま兄上との婚約が破棄ということになりますと、王家の大きな損失となります。そこで私はアリシア嬢と婚約をしようと思っております。アリシア嬢も婚約を受け入れてくださいました。後で婚約に関する書類を後宮典礼課に提出いたしますので、皇室会議の招集を宜しくお願いいたします」  周りからどよめきが上がった。これで私がグランティア公爵家の後ろ盾を受けたことが周知された。さて、周りは私と兄上のどちらに付くだろうか。ケンドール公爵派の者たちが明らかに動揺しているのを見て、グランティア公爵の口角が再び上がっているのが目に入った。  自分の片腕でもあるグランティア公爵の顔を見て、父上が大きくため息を吐いた。 「仕方ない。ウィルフレッドを王位継承権者から外す」  父親から重々しく告げられた兄上は、信じられないとでも言うように呆然とその場に立ち尽くした。  兄上が身分差のある相手とどうしても結ばれたかったのなら、先に女をどこぞの貴族の養女にしたり、名目上の妻を持ちながらイリーナ嬢を愛人にして迎えたり、やり方はいくらでもあっただろうに。それに気付かないとは、やはり兄上は良く言えば直情的、悪く言うと頭が悪い。  ーーああ、早くこの茶番劇が終わらないかな。  私はここにいない愛しい人の姿を思い出す。  飴色の髪、深緑色の瞳。  相変わらず細いが、成長期を迎えて伸びた背に、程よく筋肉が付いた身体。  変声期を過ぎて低くなった聞こえの良い声。  薔薇園で会っていた時はまだ少年のように見えたけれど、近頃はずいぶんと大人っぽくなり立派な青年となった。  私が唯一欲しいと思った人。  ーーああ、エリク。早く君の顔を見て癒されたい。

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