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帰路の電車は空いていた。
乗客もまばらで、窓を背にしたシートの端っこに座り、過ぎてゆく景色を見るともなしに眺めながら、郁見は混乱している。パニックといってよい。
悪ふざけにもほどがある。好きだ、なんて。言うにことかいて。
でも、この短いつき合いの中でも郁見は半ば確信を持って、知っている。
北井は単純で粗野なところがあるが、そんなふうに人を貶 めたりしない。だからあれはきっと、どう考えたって、冗談などではない。
でもじゃあ、冗談でなければ何だというのか。
好きだ、なんて。
北井の言ったことを思い出すと、顔が熱くなる。
動悸がする。
頭の中がぱんぱんになって、思考がうまく働かない。風船みたいにふくらんで、はじけそうだ。
なんだそれ。なんだそれ。なんだそれ。
好きだ、なんて。
思い出すたび、息が止まる。
そんなこと、初めて言われた。
しかも、男に。
北井はゲイではない。それは確かだ。好きだと口走ったとき、明らかに動揺していた。だからきっとたぶん、思わず飛び出した本心ではあるはずだ。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
嬉しい。
とっさに出た感情に、郁見は戸惑う。
体がふわふわとする。どうしよう。嬉しい。
でもそれは、何だろう。
初めて告白されたことが、だろうか。それとも相手が北井だからか?
わからない。
よくわからない。ただ、嬉しいのは事実だ。完全に浮き立っている。
北井のことを恋愛対象になんて考えたことはなかった。けれど実際、今こうして嬉しい気持ちだけしかないってことは、北井のことがアリってことではないだろうか、と郁見は思う。
でも、アリだとどうなるんだ?
郁見はそういった経験がないから何もわからない。アリなら、好きなら、その先にはいったい何があるんだ?
とりとめなくそんなことを考えていると、ポケットの中で振動がした。電車の中で電話をするのはマナー違反だ。着信画面を見ると、竹本だった。近くに人がいないのを確認して、窓に額をくっつける。
「……もしもし」
『郁見? 今大丈夫か?』
「今、電車なんだけど」
『あ、悪い。でも元気なんだな。良かった。休んでただろ、昨日も今日も』
北井と同じことを言う。二人からこんなふうに気にかけられるとは予想もしていなくて、郁見は恐縮したような気持ちになる。
「うん、なんかごめん。心配かけて。あの、電車降りたらかけ直すよ」
『どこで降りんの?』
「え?」
変な質問だ、と郁見は思ったが、いつも利用している自宅から最寄りの駅の名を言うと、竹本はまたおかしなことを言った。
『ちょうど良かった。俺今、その駅に来てるんだ。改札出たところで待ってるから』
「え? あ、うん。わかった」
電車の中であることだし、それ以上話して長びくのも憚 られて、郁見は電話を切った。でもなんで竹本が、そこに?
以前、聞いたことのある竹本の住まいは、郁見の居住地とは大学を挟んで反対方向だ。何かの用事でこっち方面へ来ていたということだろうか。
改札を出ると確かに、竹本の姿があった。
「どうしたの」
「うん、まあ、ちょっと。近くまで来たから。家、このへんって聞いてたし。あ、これさ、旅行土産」
そう言って、デューティーフリーのロゴの入った袋を差し出してくる。
「え、ありがとう。明日でも良かったのに。明日は大学行くから」
「うん、まあ、ついでだから」
どこに旅行行ってたとか土産って何だろうとか、話すことはあったけれど、電車が着いたばかりで改札口は混雑していた。竹本もたぶんこのまま、電車に乗って帰るのだろうと郁見は思っていた。なのに、竹本は思わぬことを言った。
「郁見、時間ある?」
「え? あ、うん。あるけど」
「俺、こっち方面来たの初めてなんだ。向こうに川があるんだろ。ちょっと行ってみないか?」
突然の提案を不思議には思ったが、郁見が断る理由もない。
駅から国道の上を横切る連絡通路があって、そこから出ると土手まではさほどかからなかった。川べりまでは路地を抜けてゆく。
こんなふうに竹本と二人になっても、郁見は以前ほど緊張しなくなった。そりゃあまだ少し、胸が高鳴ることはあるけれど、友だちとしてこうして一緒にいられるだけで充分だ。
平日の真っ昼間だからか、土手の上の歩道にはジョギングする人も散歩する人も散歩する犬もいなかった。川向うからの風を受けて、竹本が心地よさげな顔をする。
「いいな、こういうとこ」
「あんまり来ることもないけどな」
郁見も並んで立つが、自転車がスピードを出して行き過ぎてゆくのを避けて斜面へ下りた。残暑はまだ厳しく、陽が眩しかった。竹本は風の吹いてくるほうをじっと眺めている。その横顔を窺い見ていると、おもむろに竹本は言った。
「あのさ、前に郁見が言ったこと、まだ有効かな」
「……え?」
「俺、一回断ったから、今さらかもしんないけど。心変わりとかしてたら、あれだけど」
郁見は、竹本が何を言っているのかすぐには理解できなかった。その間にも、竹本は川向うに視線を向けたまま話し続ける。
「俺さ、よく考えたんだよ。俺の親戚にさ、その、ゲイの人がいて。だからなんていうか、そういうのだって普通だって思って。別に恋愛対象が女だけじゃなくたって、男だっていいんじゃないかって思って、よく考えたんだよ。それで、その、郁見がもしまだ、あれだったら、俺、だめかな?」
いまだ、理解が追いつかずに、ぼんやりとしている郁見へようやく竹本が顔を向ける。
「……聞いてるか?」
「え、あ、え? あの、ちょっとよくわかんない。どういうこと?」
「だから」
咳払いを一つ、竹本はした。
「郁見さえ良かったら、俺とつき合わない? ってこと」
どこからか、金属バットが軽快にボールを打ち返す音が響いてきた。そういえば近くにグラウンドがあった、と郁見は思い出す。今、竹本はなんて言った?
俺と、つき合わない?
ちょっと待って。わけがわからない。いったい何がどうなってるんだか。
「郁見?」
「あ、ごめん。ちょっと、混乱して」
「そうだよな。急にごめんな。今さらだしな」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。その、それって、北井は知ってんの?」
「北井?」
竹本は首を傾げる。
「あいつには言ってないけど。なんで?」
「あ、うん。いや、単に、どうなのかなって思っただけで」
「ふうん」
竹本が、横を向いて照れたように鼻の頭をかく。
「それで、どう? その、返事とか」
「えっと」
郁見の頭の中は、とにかくいろんなものがぐるんぐるんに絡まってしまって何をどう処理すればいいのかさっぱりだった。冷静に正しい受け答えなどできようはずもない。
「あの、俺今ちょっと、気が動転しちゃって、ちょっと落ち着いて考えてからで、いいかな」
「ああ、もちろん。ゆっくりでいいよ。ほんと、急にごめんな」
「ううん、全然。あ、これありがと。土産」
「うん。じゃ、俺もう帰るな。明日は来るんだよな。また明日な」
「うん、また明日」
郁見は軽く手を振りながら、もと来た路地へと入ってゆく竹本を見送る。
はて、今いったい、何が起きたのだろう。
整理してみよう。ついさっき、北井に告白めいたことを言われた。そしてたった今、竹本に告白めいたことをされた。
そんな初めてのことが続けて二回も、同じ日に起こり得るだろうか。
全部、嘘だろうか。
いや、あの二人を知る限り、嘘だとは思えない。
明らかに突発的だった北井と、北井には言っていないという竹本。もしこれが本当に偶然なのだとしたら、相変わらず仲の良い二人だと郁見は感心する。いや、そうじゃない。
ゲイでもない二人が二人して、告白してくるなんていったい、どうなってるんだ。
呆然としている郁見の首筋を、ぬるい風が吹き抜けてゆく。
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