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「先週ってさ、北井とどこ行った?」  ハンドルを操作しながら、不意に竹本が訊いた。  唐突だったので、郁見は反射的に隣へ顔を向ける。  竹本はまっすぐ道路の先を見つめていて、その横顔の向こうに窓を横切る水平線の煌めくのが見え、その眩しさに郁見は目を細めた。 「ええっと、映画とか、カラオケ、とか?」 「映画って何見た?」 「ゾンビ」 「あいつ、好きだからな」  竹本が笑い声をあげる。 「俺苦手なんだよな、ああいうの。どうだった?」 「結構面白かったよ」 「へえ。郁見、ああいうの見れんだ」 「うん、まあ」  竹本が車で郁見を迎えに来たときは、正直驚いた。真っ黒なSUV車で、圧倒されるほどでかい。親の車だけどな、と竹本は言うが、郁見は羨望のため息が出る。 「かっけー、いいな、俺もこんなの乗ってみてえな」 「あ、運転してみる?」  竹本のありがたい提案は、残念ながら断らざるを得ない。郁見はまだ運転免許を取得していないのである。  親の車と言いながら、竹本は慣れていた。手つきはよどみなく、発進も停止も滑らかだ。  かっけえなあ。郁見は思う。車のことではない。  なんか、かっけえよなあ。  市街地を出てからずっと、海岸線を走っていた。窓を開けるとすっかり涼しくなった風が吹きこんでくる。郁見は水平線の上に浮かぶ雲を眺めながら独り言のようにつぶやく。 「海とか久しぶりだな」 「この夏は行ってないのか?」 「この夏も、前の夏も。全然行ってない。そういえば竹本は、海外行ってたんだっけ」 「まあな。うちの親忙しくてあんま家いねえから、埋め合わせ的な?」 「竹本の親って、何の仕事してんの」 「んー、親父の兄貴が会社やってて、その手伝い。仕事の内容はよく知んねえな。そんな話しねえし」  そんな雑談をしていた最中だった。竹本が北井の名を出したのは。  突然で驚いたけれど、ああそうかと郁見は思う。やっぱ竹本と北井は、そういう話とかしないのか。デートの内容とか、感想とか。まあそうだよな。二股の当事者だもんな。  郁見だって、竹本といるときは北井に、北井といるときは竹本に、少なからず罪悪感はある。それと同じくらい、二人は互いのことが気にかかるだろう。だから郁見はなるべく、竹本といるときは北井の、北井といるときは竹本の名を出さないようにしていた。平日は日曜の話をしない。それがマナーのようにさえ思っていた。  でも北井は少し違う。  月曜に、北井は講義室で郁見に会うなり文庫本を差し出してきた。 「これ、昨日言ったやつ」 「なんだ、それ」  竹本が横から覗きこむ。 「ミステリー。面白いぜ。おまえも読むか」 「俺はいいよ。頭痛くなる。郁見もミステリーとか好きなのか?」 「うん、まあ」 「へえ」  そんな会話をした。いたって普通だった。友だちみたいだった。 「あのさ」  国道から脇道へ逸れながら、竹本が無理にとは言わねえけど、と前置きした。 「何?」 「郁見って、下の名前、(ゆう)っていうんだろ?」 「うん」 「二人のとき、有って呼んでいいか?」 「え」  郁見は鼓動が跳ね上がる。なんだそれ。 「つき合ってんだから、そっちのほうが良くね? 俺のことも、下の名前で呼んでよ」 「……和人(かずと)だっけ」 「そ。普段は呼ばねえから。こうやって会ってるときだけ。限定。いい?」 「……いい、けど」 「やった」  そう言って笑う。  突然そんなことを言われても。  郁見は気恥ずかしくて、なにやら竹本の顔が見られない。すげえな、と思う。つき合うって、こんななんだ。  竹本が駐車場に車を入れたところは、大きな施設だった。どこへ向かっているのか、郁見は聞いていなかった。 「ここ、何?」 「水族館」 「水族館? 竹本、魚好きなの?」 「いや、別にそんなに」 「じゃ、なんで」 「チケットもらったんだ。嘘じゃないぜ? それに、せっかくだから普段は行かないようなとこがいいかと思って。嫌だった?」 「嫌とかじゃ、ないけど。水族館に男二人で行くって、変じゃない?」 「別に変じゃないだろ。どこだって」  そうかな。  郁見がためらっている間にも、竹本はドアを開けて降りてゆく。  マンボウを見て、サメを見て、クロマグロを見て、ペンギンを見た。イルカショーとアシカショーも見た。竹本は幾度となく、郁見のことを有と呼んだ。そのたび、郁見は心臓がぎゅっとつかまれたような心地になった。友人から下の名前で呼ばれたことが、なかったわけではない。でも、この呼ばれ方は意味が違った。  まるで、恋人のそれだ。いや、まるででは、ないのか。  何度呼ばれても、郁見は竹本のことを和人とは呼べなかった。都合、無口になる。  海の見えるレストランで食事をした。会計はまた、竹本がした。カードで払うとポイントつくから。そんな理由で、郁見から現金を受け取らなかった。気になるから、と郁見がくいさがると、じゃあ後でコーヒーでも飲もうぜ、とはぐらかされた。  帰り道にカフェで休憩した後、堤防沿いの空いたスペースに車を停め、浜辺を歩いた。  陽の落ちるのが早くなって、空は紅く染まっている。あいにく張り出した岬の陰になって夕陽は見えなかった。  さして景色のいい浜でないせいか、他に人の姿も見えず、竹本がまた手をつないできた。道路からはずいぶん距離がある。見咎められる心配はなさそうなので、郁見もつながれるままにした。冷たくなってきた海風が、郁見の伸びすぎた髪をあおってゆく。 「気持ちいいな」  郁見の手を引きながら、竹本が風音にかき消されないよう声を張る。 「そうだな」 「有」  今日は何度となくそう呼ばれた。でもまだ、慣れない。 「……ん?」 「いいかげん、和人って呼べよ」  郁見は、呼吸が止まる。気づいていたのか、と思う。気づいていないわけ、ないか。 「ほら、呼べって」 「……か、和、和人」 「よし」  竹本はつないだ手を、さらに強く握る。かと思うと急に、引いた。 「えっ」  体勢を崩して、郁見は竹本のほうへ倒れこむ。力強い腕に支えられた拍子に、唇が重なった。完全に不意打ちだった。  風が一段と強く吹いて郁見の背を押した。つないでいたはずの竹本の手が、いつのまにか郁見の首の後ろにある。触れただけのはずの唇が、深くしっかりと合わさっている。 「……ん」  堪えかねて郁見が息を漏らすと、ようやく解放された。頭が真っ白だった。 「いただき」  竹本が、いたずらをした後のような無邪気な笑みを向けてくる。 「と、突然すぎる」 「ちゃんと言ったほうがよかったか? 今からキスしますって」  郁見は答えられない。あちこちが不具合を起こしていたからだ。心臓は落ち着かないし、思考は働かないし、足は少し震えている。 「さ、帰るか」  竹本はまた、郁見の手を引いてゆく。その強引さに、郁見は抗えないでいる。

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