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秋晴れの、高い空が頭上に広がっている。空気が冴えて気持ちのいい日曜だった。
迎えに行く、と北井が言うので、郁見は自宅の住所を教えた。約束の時間に家の前で待っていると、ライダースジャケットを着た北井がやってきた。もちろん、歩いてではない。
住宅地に、低いエンジン音が響く。フルフェイスのメットを外すまでそれが北井だとわからなくて、郁見はかなりびびった。
「……なにこれ。おまえの?」
北井のまたがったバイクは大型だけれどスリムで、ボディが黒光りしていた。そばに立つと、ドッドッドッという排気音が心臓に直接届いてくる。
「俺んじゃねえ。兄貴の。俺も欲しくてバイトしてんだけど、もうちょっとかかるな」
あたりまえのようにヘルメットを渡されて、郁見はとりあえずかぶる。どこへ行くのか訊ねると、郁見の知らない山の名を言った。
「ちょっと遠いけど、山頂の辺りはもう紅葉してるらしいから行ってみようぜ」
「厚着してこいって言ったのは?」
「山の上は気温低いんだぜ。そんなことも知らねえのかよ」
ムッとした顔をする郁見を無視して、北井はハンドルに手をかける。
「ほら、さっさと乗れよ。着くのが昼になっちまう」
「安全運転しろよ」
「おまえこそ、振り落とされないようにちゃんと掴まってろよ」
郁見が北井の後ろにまたがるなり、バイクが発進した。急にGがかかって後方へ引っ張られそうになり、郁見はあわてて北井にしがみつく。かすかにジャケットの革の匂いがする。
北井がバイクに乗るなんて、意外だった。でも、似合わないこともない。ライダースジャケットだって、悪くない。悪くないというか、けっこう似合っている。なんというか、いつもと違って、かっこいいと、いうか。
バイクの後ろに乗るのが初めてだからか、スピードが出るにつれて体がふわふわと浮くようだからか、それとも北井とこんなに密着するのが初めてだからか、郁見の心臓はバクバクと強く鳴ってうるさかった。バイクが弓なりのカーブを回り、体がゆっくり斜めに傾ぐ。郁見はさらに強く、北井にしがみつく。
間に一度休憩を挟み、国道を走り続けて山道に入った。だんだん狭くなる道路を北井は危なげなく上る。うまいもんだな、と郁見は感心する。車の免許も持っていない郁見に、バイクの操作に関する知識は皆無だ。何をしているかさっぱりわからない。
身一つでどこかへ連れていかれる感覚は、郁見の気を高ぶらせた。徐々に空気が薄くなっているせいかもしれない。到着してようやくひと息つくと、吸いこむ空気は冷たく清々しかった。
「気持ちいいだろ」
まるで自分の手柄のように北井が言う。でも確かにその通りだ。山頂は公園になっていて、必要最低限に整備された緑が美しく広がっている。
バイクから降りると、郁見は足元がふらついた。ずっと力が入っていたからか、体中が強ばっている。
「大丈夫か? ずっと掴まってたから疲れただろ」
「別に、これくらい」
「じゃ、メシでも食うか」
「メシって、何を」
駐車場から展望台まで歩いてきたけれど、小さな売店すらなかった。あるのはせいぜい自動販売機くらいだ。北井は四阿 にある木製のテーブルセットへ腰を下ろし、荷物の中から弁当を取り出した。ちゃんと二つある。
「え、まさかおまえ作ったの?」
「なわけあるか。母ちゃんだよ。山に行くっつったら作ってくれてた」
「へえ」
見晴らしのよい四阿だった。左右に尾根が伸び、眼下には遠くまで街並が続いている。
山の上では、めずらしく北井は言葉少なだった。いつもと違っているように、郁見は感じる。かといって、ちょっと前のようにイラついたり不機嫌だったりしているのではない。一歩引いている、という感じ。距離を、置かれているような気がする。なぜだろう。なせだか、郁見にはわからない。
弁当は、おいしかった。おにぎりと卵焼きとウインナーの、素朴な弁当だった。
「うまいな。こういうのいいよな」
素直に感想を言うと、北井はふうんとだけ答えてばくばく食べた。気恥ずかしそうで、幼く見えた。
かっこよかったり、かわいかったり。北井のことをもっと知りたい、と思う。けれども北井はなぜか、普段よりよそよそしい。大学で会っているときのほうが、平日に友だちでいるときのほうがよほど、近しい。
「思い出した」
食べ終えた弁当箱をカバンにしまった北井が、そう言っていきなり立ち上がる。
「何を」
四阿の裏へまわり、遊歩道から外れて茂みへ分け入る北井に郁見もついてゆく。
「ここ、子どもんとき家族でよく来ててさ、そのとき兄貴と探検してたら面白い場所見つけたんだよ。ちょっと隠れ家っぽくてさ、兄貴と二人で秘密基地だっつって、親にも内緒にしてた。確かここらへんだったはずだ」
「こんなとこ、入ってって大丈夫なのか」
遊歩道の付近はきちんと整備されていたが、少しでも逸れると雑草が丈高く生い茂っている。入りこみすぎると、もと来た方向もわからなくなりそうだ。
「こっちで間違いねえと思うんだけど」
灌木や木の枝を避け、草むらをかきわけて北井はどんどん進んでいく。
「ちょっと待てって。危ないんじゃねえの」
不安になり始めたころ、急に視界がひらけた。先程の眺望とは真逆の方角で、山並みが奥に向かって幾重にも連なっている。郁見は思わず息をのむ。北井の言ったとおり、すでに紅葉が始まっていた。木々が赤や黄のグラデーションに染まって優美な景観を作りあげている。
「すげ……」
「郁見、こっちだ」
見ると、岩盤になったところへ北井が足をかけている。かと思うと向こう側へ姿を消した。郁見はあわてる。
「おい、危ねえって」
岩盤は斜めに下っており、一歩でも足を踏み外せばそのまま谷へ落下しかねない。恐る恐る近づくと、北井が消えた辺りで岩盤が大きく削れ、壁面に対して半円状の窪みができていた。その入り口で、北井が待っている。郁見が近づくと、手を差し出してくる。つかんだその手は、力強かった。郁見をひきよせ、抱きとめるようにして狭い空間に入りこむ。
細長く空いた窪みは、腰をかがめなくてはならないが、大人二人が並べないこともなかった。腰を落ちつけると、背中にあたる岩肌の感触が心地よい。
「ガキんときはもっと広いと思ってたんだけどな。今だとちょっと狭いな」
「でもなんか、すごいとこだな。よくこんなとこ見つけたな」
目の前の景色が、まるで絵画のようだった。
奥へ奥へ、どこまでも連なる紅葉と、遠く青い空。とても静かだ。
「ここさ、子どもんとき俺すっげえ怖くてさ、今もまあ怖えんだけど、兄ちゃんが下覗いてみろって言うの。足押さえててやっからって。そんで俺、ここにこう腹ばいになってさ、顔だけそっから出すんだよ。すんげえ下まで見えてさ、なんつうの、腹の下あたりがムズムズしてさ、マジ、タマがちぢみあがった」
「兄貴って何コ上?」
「三コ」
「いいな、兄弟って」
「おまえ、兄弟は?」
「いない。俺一人」
「そっか」
狭いところに体を寄せ合っているせいで、気温は低いはずなのに、温かかった。ここへ来て、北井がいつものようによくしゃべる。それが郁見は嬉しい。
「おまえも覗いてみるか?」
「いいよ」
「いいから覗いてみろって。ほら」
北井が郁見の腕をつかんで前へ乗り出させようとする。
「ばか、おまえ。ふざけんなよ」
「押さえててやっから」
「やめろって」
本気じゃないことはわかっていたが、反射的に郁見は両手で北井にしがみついた。冗談でも危険すぎる。文句を言ってやろうと振り返ると、北井の顔がすぐそばにあった。郁見がしがみついていたせいだ。
北井が、動きを止める。
郁見も、動きを止める。
視線がぶつかって、離せない。
北井は、こんな目をしていただろうか。郁見は思う。こんな真っすぐで、少し悲しげな。
北井の顔が、近づいてきた。
あ。
郁見は思う。
キス、すんのかな。
誘われるように、郁見の顔も、近づいてゆく。
したいな、と思った。だから、自然な動きだった。自然な流れだと思った。
なのに。
郁見が伏せた瞼を閉じようとする寸前、つい、と、北井の顔が逸らされた。
え。
逸らされたまま、項垂れている。
北井のジャケットをつかんでいた郁見の手が、力なく落ちる。
なんで。
上空に特有の強い風が吹きぬけて、波うった梢が騒々しい音をたてた。それに混じって、苦しげなつぶやきが聞こえてくる。
「こんなんしたら、諦めらんねえよ」
ああ。
郁見は胸がしめつけられる。
そうだった。
忘れていたわけではない。忘れたフリをしていた。なんてズルい。自分が情けなくなる。
ずっとこのままで、いたいなんて。
いられるわけがない。
郁見は必ず、竹本と北井の、どちらかを選ばなくてはならないのだ。
「もう行こうぜ」
「……そうだな」
窪みから抜け出すと、来たときと同じように北井が先に立って茂みをかきわけた。後ろを郁見がついてきているか、確かめもせずに北井はぐんぐん進んでいった。
山を下り、郁見を家まで送って降ろすまで、北井はほとんどしゃべらなかった。別に怒っているわけでも不機嫌なのでもなかった。しゃべると何かが壊れそうな、不確かなものを抱えているような心許なさがあった。
「じゃあまた明日な」
「……うん」
北井はためらいなくバイクを発進させる。ライダースジャケットが、宵闇の中へと遠ざかる。郁見はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
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