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フロントの前で、竹本が誰かと話している。支配人だとかなんとか言っていた。
旅館というわりに内装は洋風で、和洋折衷というのだろうか、ロビーには光沢のあるベルベットの座面のソファが置かれていて、郁見はそこに座って竹本を待っていた。
ガラスの向こうには降り注ぐような緑の洪水。ただあいにくの雨模様で、すぐ下には川が流れているそうだがせせらぎは聞こえない。ガラスごしに濡れそぼった山の緑を見やりながら、郁見は気づかれないようにため息をつく。もう幾度目だかわからない。
北井は、降りてしまった。
だってそれは自由だ。嫌になったらやめる。そういう約束だった。
北井は嫌になったのだろう。でもそれは、何にだろうか。
この状況に? それとも、郁見のことに?
「お待たせ。行くか」
ルームキーを手に、竹本がやってきた。
「今日は空きがあるからって、いい部屋に変えてくれた。ここ全室、内風呂なんだけどさ、俺、岩風呂が好きなんだよな」
「来たことあるんだ」
「うん。家族でな」
「仲のいい家族なんだな」
「普通だよ」
郁見の家族だって、仲は悪くない。ただ両親は共働きで、家族旅行などしたことはなかった。竹本はそんな家族だから、こんなふうになったのだろう、と郁見は思う。天真爛漫で、明朗闊達で。ときどき、まぶしくなる。その強い光に、郁見も憧れたのだろうか。
変えてもらったいい部屋というのは、確かに良かった。郁見が今まで泊まったどのホテルの部屋より広かった。ダブルサイズのベッドが二つ並んでいて、奥のガラス戸を抜けるとウッドデッキに出られる。内風呂は竹本の期待どおり岩風呂で、そこからも緑豊かな景観が楽しめた。
「先、風呂入る? 晩飯はもうちょっと後みたいだし」
「そうだな。竹本、先入りなよ」
「違うだろ」
「え?」
「和人、だろ」
「あ」
何度も注意されるのだが、未だ呼び慣れない。郁見は竹本ほど器用ではないのだ。
「まあいいや。ちょっとずつでいいから、慣れてくれよ」
「うん」
「俺は有の後でいい。あ、なんなら一緒に入るか?」
「い、いやそれは、あの、一人で、入るよ」
そそくさと風呂場へ向かう郁見の背中に、竹本の笑い声が届く。脱衣所に浴衣あるからな、とつけ加えてくる。
冗談とも本気ともつかない竹本の言動に、郁見はいつも惑わされる。どうしてよいかわからなくなる。
風呂上がり、竹本が入っている間に郁見はウッドデッキに出た。この部屋専用の、独立したウッドデッキだ。まだ雨は降り続いているが、大きく張り出した庇のおかげで濡れることはない。陽が落ちるのが早くなって、夕刻だというのに景色は宵闇に沈んでいる。霧のように細い雨が室内からの明かりに浮かび上がって、さぁっ、という川の流れだけが遠くから聞こえてくる。
手すりにもたれて、郁見はそのかすかな水の気配に耳をすませる。普段とはまるで別世界だった。自然に包まれてとても気持ちがいいはずなのに、気持ちは晴れない。
こんな気持ちで竹本といるのは申しわけない気がした。今は竹本といるのだから、竹本のことを考えなくてはいけないのに。
そこに、ガラス戸の開閉する音がする。
「寒くないか?」
「ああ、うん。少し」
浴衣の上に半纏 をはおっていたが、少し肌寒かった。風呂上がりの火照った頬がすっかり冷えている。
「風邪ひくぞ」
声が真後ろでしたかと思うと、いきなり大きな腕に包まれた。いわゆる、バックハグである。
「ちょ、竹本」
驚いて、郁見はもがく。
「照れんなって」
「ちが、人に見られたら」
「ん? 大丈夫だって。隣のデッキに人いないし」
「で、でも」
ぎゅう、と抱きしめられて、郁見はあきらめる。
人がいるとかいないとか、ではなかった。こんなふうに人に見られるような場所でいちゃつくカップルが、郁見は苦手だった。
でもまあ、竹本がそうしたいのなら、嫌がるのもなんだか悪いし。
そう思った矢先、竹本の指先が顎に触れたかと思うと、くい、と持ち上げられて唇が重なった。
「ちょ、だめだって!」
今度は力をこめてふりほどく。その勢いのまま、郁見は室内へ飛びこんだ。竹本がのんびりと追いかけてくる。
「なんだよ、キスしちゃだめなの?」
「誰かに見られたらどうすんだよッ」
「そんなの、気にしなきゃいいじゃん」
「するよ、するに決まってるだろ!」
「なんで。男どうしだからってこそこそする必要ないんじゃねえの? もっと堂々としてりゃいいんだよ。悪いことしてるわけじゃないんだし」
「できないよ、堂々となんて! 悪いことじゃないって、普通だって思いたいよ。でも違うだろ。普通じゃないよ。普通のことだって、見た人は思ってくれないよ。絶対変な目で見る。俺、そういうの嫌なんだよ」
郁見の、いつにない激情の言葉に竹本は口をつぐんだ。
郁見が落ち着くのを待って近づき、肩を抱く。
「ごめん。悪かった。おまえの気持ちも考えずに。もう外じゃあんなことしねえから」
「……うん」
竹本に抱き寄せられて、郁見はその胸に頭をつける。
竹本に、悪気がないのはわかっている。カミングアウトしているゲイだってたくさんいる。郁見がそうじゃないというだけだ。竹本を非難するのは酷だ。
夕食は併設のレストランの個室に案内され、海と山の幸がコースになって次々供された。見るからに豪華で、だいたいの予想がついていた郁見は、もう値段など気にせずありがたくいただくことにした。
半分ほど過ぎたあたりで、竹本が飲み物のメニューをもらった。
「な、ちょっと飲まない?」
「酒?」
「俺、こないだ二十歳になったし。有は?」
「俺も、もうなってるけど」
「じゃ、ちょっとだけ」
そう言って、竹本はワインを注文した。
「ちょっと待って。俺ワインって飲んだことない」
「大丈夫だよ。ロゼだから飲みやすい。それにここのはすっげえおいしいから」
「もう前から飲んでんじゃん」
「まあ、ちょっとだけな」
ちょっとだけ、と言いながら、竹本はグラスに三杯も飲んだ。郁見は一杯だけだったが、部屋へ戻るころには頭がぼうっとなっていた。アルコールを飲んだことがないわけではなかったし、弱いと思ったこともない。でも飲みなれない酒だからか、あるいは旅行先だからか、酔うのが早い。竹本もすっかり上機嫌になって、鼻歌なんか歌いながら半纏を脱いでドレッサー前のイスに放り投げている。
「なんか眠いな。もう寝る?」
郁見が言うと、そうだな、と返事がして、室内灯が消えた。ベッドサイドと足元の、間接照明だけになる。
「明日何時に起きる? チェックアウトって何時だっけ」
アラームをセットしようとした郁見は、竹本に横から抱きしめられた。首の後ろに熱い手の平を感じて、口づけられる。
「う、……ん」
突然だったのと、酔いのせいで、無防備だった。
絡まった舌から、電気みたいな刺激が背中に走る。腰をしっかり抱えられていて、体が動かない。
竹本の舌が、口内を隈なく探ってゆく。その感覚に、ますます頭がぼうっとしてくる。ぼうっとしているうちに、郁見はベッドに押し倒された。竹本の唇が、今度は首筋に落ちてくる。手の平が、浴衣の胸元に入りこんでくる。
仰向けになって、仄かな明かりに照らされた天井が目に入った。
知らない場所の、知らない天井。
俺、もしかして今から、セックスするんだろうか。
ぼんやりした頭で郁見は思う。
竹本、と?
そうだよな。だって、つき合ってるんだし。
竹本の唇が、鎖骨をたどってすでに開かれた胸元へとたどりつく。手の平は、脇腹をなでて腰へ下りてくる。
いいのかな。
ぼうっとしながら、郁見は思う。
竹本の舌先が郁見の胸の突起をとらえ、体がぴくりと跳ねる。反射的に持ち上げた手の先に竹本の髪の毛が絡み、その近さにはっとする。
いいのかな。
動悸がする。
この動悸が、酔いのためなのか、竹本の行為によるものなのか、あるいはまた別の理由のせいなのか、わからない。
これで、いいのかな。
本当に、これで。
――こんなんしたら、諦めらんねえよ。
遠く、苦し気な声だった。
思わず、郁見は竹本の肩を強く押していた。
「ちょ、ちょっと待って、竹本」
「んー?」
竹本は動きを止めない。起き上がろうとした郁見に抱きついて、押さえこもうとする。
「待ってってば、竹本!」
「何だよ、どうした」
ようやく竹本が、郁見と目を合わせる。
「ごめん、やっぱ俺、だめだ」
「は?」
「できない。ごめん」
「……嫌ってこと?」
「嫌、ってことじゃ、……ないけど。でもちょっと、早いっていうか」
「でも今は、嫌なんだよな?」
郁見はうまく答えられず、竹本が体を離したのを機に浴衣の前を合わせた。
「ごめん、今更」
「いや、別に無理強いするつもりないし」
「……ほんと、ごめん」
「謝れるとよけい、ショックなんだけど」
軽い口ぶりだったが、竹本が作った笑顔はひどく哀しげに見えた。
「俺、あっちで寝るな」
「……うん」
本当はもっと、謝りたかった。でもそれが竹本をよけいに傷つけるということは、さすがに郁見にもわかった。
竹本は隣のベッドに移動して、ベッドサイドの明かりを消した。酔いが深かったのか、そう間を置かず寝息をたて始める。郁見も明かりを消し、薄い毛布の中にもぐりこんで丸くなる。
何してんだ、俺。
自己嫌悪で泣きたくなる。
本当に、何してんだろう。
どうしてあの時、あの声が蘇ったのだろう。
どうして、消しても消しても、ただ一人の顔が浮かんでくるのだろう。
けれども、そのたった一人はすでに、降りてしまった。
このゲームから。
毛布の中で小さく体を丸め、声を殺して郁見は少しだけ泣いた。
同じ日に奇蹟が二つも起きて、きっと幸福になれると思っていた。
でも誰も、幸福にはなれなかった。
全部、自分のせいだ。
自分が、欲張ったからだ。
雨の音が、静かな室内に忍びこんでくる。郁見の嗚咽が、その音にまぎれて消える。
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