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 着信画面を見たら、北井の名があった。  どうしたんだろう、いったい。  郁見は一瞬、とるのをためらう。  最近、北井と一対一で話すことはあまりない。避けられているような気もするし、避けているような気もする。正面から向き合うにはまだ、少し胸が痛い。 「もしもし」 「あ、俺」 「うん」  北井の声だ。  電話になると普段より少し、低くなる。間近で聞くその声は、耳の奥深くまで響いて郁見を切なくさせる。 「何? どうしたの」 「今、おまえんちの前なんだけど」 「……え?」  階段を駆け下りて、玄関ドアを開ける。確かにそこに、北井がいた。 「よう」 「ようじゃねえし。何、いきなり」 「なんだ、元気そうじゃん」 「うん、まあ。寝こんでたの一昨日の夜だから。もう全然なんだけど、一応休めって母さんが言うから」 「おまえ、寝るときパジャマなんだな」 「え」  北井が郁見の着ているパジャマをしげしげと眺めている。最近母親が買ってきて、昨夜下ろしたばかりだった。ターコイズブルーのコットン生地で、とても着心地がいい。しかし、指摘されると恥ずかしい。 「悪いかよ」 「別に悪かねえけど。……おまえ、一人なのか?」 「そうだけど」 「ふうん。ちょっと話あんだけど、上がっていい?」  軽く訊かれて、郁見は息をのむ。  上がる? 家の中に? なんで。何、話って。  でも断るのもなんだか、変だし。なんか意識してるみたいだし。  一瞬でそんなことを考えて、でも何食わぬ顔で郁見は答えた。 「ああ、どうぞ」  郁見の部屋は二階の南側だ。招き入れると、北井はぐるりと全体を見渡した。見られてまずいものはないし、もともと物は少ないほうだったが、郁見はなんだか落ち着かなかった。  自分の部屋に、北井がいる。  変な感じだった。テレビからアニメの登場人物が飛び出してきたみたいだ。  郁見がベッドに腰をおろすと、北井は勉強机のイスをひいて座った。頬杖をつき、窓の外に目をやりながら、なんでもないことのように言う。 「竹本に聞いたんだけどさ」  ドキ、と郁見はする。  竹本が、北井に話すこと。  思い当たることは一つしかない。  もう、つき合うことはできないと告げたとき、竹本は一つだけ訊ねた。 「北井を選ぶのか?」 「……選べない。北井は降りたから」 「でも、あいつなんだな。俺じゃなくて」  沈黙は、肯定になる。あえて口にする度胸が、郁見にはなかった。ただ、言い添える。 「もういいんだ、北井のことは。だいたい、俺が最初からちゃんと決められなかったからいけなかったんだ。二人とつき合うなんて都合のいい状況、北井が嫌になるのもしょうがない」 「でも、好きなんだろ?」 「……いいんだ、本当に、もう」  そんな話をした。竹本には一応口止めをしたのだが、その約束は破られたようだ。  窓の外へと向けられた北井の横顔が、険しく見える。  どうして来たのだろう、と郁見は不安になる。  以前、北井は郁見に対して、竹本のことがまだ好きなのかと訊いてきたことがある。一度フラれているのにまだ好きなのか、と責められたように、郁見は思った。未練がましい。そういうのに対して北井が苛立っているように感じた。  もしかして今も、すでに北井はこのゲームから降りているというのに、郁見が想い続けていることを非難しにきたのだろうか。  郁見は、何も言えなかった。何を言えばいいのかわからない。いっそ、何か言ってくれればいいものを、北井も何も言わずにいる。  不意に、どこへとなく視線を向けていた北井が、郁見を見た。  何かを言おうとして、視線をそらす。また、視線を戻す。口を開けては閉じる。  何を言うべきなのかわからない、といった雰囲気だった。  ただその表情は、郁見が思ったものと少し違っている。けして険しくはなかった。  眉根を寄せているのは、困っているからだった。 「そういや、俺さ」  ようやく、北井が口を開く。 「返事、聞いてねえんだけど」 「……返事?」 「そう。俺、ほら、前に、告白したじゃん。おまえに。ブックセンターの近くの公園の、池のとこで。その返事、まだ聞いてねえし」  郁見はぽかんとする。北井はいったい、何を言っているのだろう。 「何黙ってんだよ。返事だよ、返事」 「え、だって。あんとき、言った」 「あんときって、いつだよ」 「講堂の裏で話してるとき」 「はあ? あんなどさくさにまぎれたやつじゃなくて、ちゃんとしたやつだよ」 「ちゃんとしたやつ?」  ちゃんとした答えを、なぜ今欲しがるのだろう。なんのために?   郁見は混乱する。返事を聞かないと、終わらないからだろうか。それはもしかして、北井の告白がまだ、終わっていないということだろうか。 「俺は言っただろ? おまえも言えよ」 「……おまえ、何て言ったっけ」  嘘だ。ちゃんと覚えている。北井の言ったことは何一つ、忘れていない。 「なんだよ、もっかい言えってのかよ」 「……うん」  もし、まだ終わっていないというのなら、もう一度聞きたかった。それが今の北井の、本心だというのなら。  北井は口元をもごもごさせた。口先を尖らせ、さらに眉間にしわを寄せる。  ちきしょう、クソ恥ずいな。  つぶやくようにそう言って、大きく一つ、呼吸をする。  それから、郁見を見た。 「俺、おまえが好きだ」  まっすぐだった。  言葉も、まなざしも。  どうしてこう、まっすぐなんだろう。  郁見は思う。  性格はずいぶんひねくれているのに、こういうときはやけにまっすぐだ。  そういうところが、郁見を強く惹きつける。  ああ。  胸が、しめつけられる。北井はどうしていつも、郁見をこんな気持ちにさせるのだろう。  想いがあふれて、こぼれる。 「俺だって、おまえが好きだよ」  どうしよう。  どうしよう。どうしよう。  こんなことがあっていいんだろうか。  心が震えている。歓喜に、震えている。 「なんて顔してんだよ」  北井が笑う。 「え、どんな顔?」 「すっげえ、……嬉しそう」  かっ、と顔が熱くなる。思わず、見られないようにそらす。 「だから、そんな顔すんなって」 「だっ、だから、どんな顔、」  言い終わらないうちに、自分とは違う体温と感触が、した。  北井が隣に来ていた。横から強く、抱きしめられる。耳元に息がかかる。 「やっと、おまえに(さわ)れる」 「……え」 「もうがまんしなくていいんだよな」 「なんで、がまんなんか」 「だって、俺だけのじゃなかったし」 「……うん」  よりそいながら、郁見も同じだと思った。  ずっと前から郁見も、こうしたかったのだと気づく。  北井に、触れたかった。触れられたかった。 「な」 「ん?」 「……キスとかしていい?」  問われて、郁見はまた顔が火照る。 「おまえ、いつもそうやって訊いてんの?」 「いつもは訊かねえ」 「じゃなんで」 「わかんねえ。緊張してんのかな」  本当はまだ、きまりが悪くて目を合わせたくないのだけれど、しかたなく郁見は北井のほうへ顔を向けた。待っていたように、唇が重なってくる。  軽く触れて、離れる。もう一度触れて、また離れる。今度はゆっくりと深く、合わせる。してこなかったキスを、いっぺんにしているみたいだった。 「……ン」  甘い。  ひどく、甘かった。  緩く開いた唇の中に、温かいものが侵入してくる。戸惑う舌を絡めとられて、頭の芯が痺れ、とろけそうになる。  北井って、キス、上手いんだな。  消え入りそうな思考の端で、郁見は思う。こんなキスをされたら、もうダメになる。  顔を話すと、息が乱れていた。 「……だから、そんな顔すんなって」  北井が無茶なことを言う。そうさせたのはいったい誰だ。もちろんそんなことを口には出さない。郁見は無言で睨むだけだ。 「おまえ自覚ないだろ。その顔やばいからな」 「知るかよ」  そうは言ったものの、郁見だってやばかった。気持ちよすぎて、本当はもっとずっとしていたかった。  北井が、思案げな顔をしている。 「……な、おまえんち、昼間って誰もいねえの?」 「ん? まあ、仕事行ってるし」 「ふうん」  郁見ははっとする。 「あ、今おまえ、変なこと考えてるだろ」 「おまえね、俺を何歳(いくつ)だと思ってんの。変なこと考えない日はねえよ」  そう言ってやにわに、郁見を押し倒す。おりよくそこはベッドの上だ。 「が、がっつきすぎだって!」 「男なんてさ、性欲の固まりだぜ。やれるときにやっとかねえと」 「や、野蛮」 「野蛮でけっこう。覚悟を決めやがれ」  北井がのしかかってくる。覚悟なんて、必要なかった。郁見はただ、急な展開についてゆけないだけだった。

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