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第16話誘い
四月二十五日月曜日。
昼休み、俺はいつものように医学部のカフェテリアに向かう。
奏さんに会える。
そう思うとドキドキして、歩くのも早くなってしまう。
昨日俺、あの人にキスされたんだよな……やばい、どんな顔して会えばいいんだ。
カフェテリアに着くと、奏さんがすでに席を確保していた。
彼は俺の気が付くと、にこっと笑い手を振る。
その笑顔を見て俺はぎこちなく笑い、手を振り返した。
俺の手には今日も手袋がはめられている。この人の前では手袋、いらないんだろうけれど、していないと不安で仕方ないから結局外せない。
俺は、奏さんの前に腰かけ、今朝買ってきたおにぎりと水筒をリュックから取り出した。
昨日の事もあり正直食欲は余りないが、少しでも食べないと、と思いおにぎりをひとつだけ買ってきた。
「食欲、そんなにないの?」
心配そうな奏さんの声に、俺は頷く。
食に余り興味がなく、ひとり暮らしになってからろくに食べない日もある。
おかげでだいぶ痩せたけれど、だからと言って困ってはいないし、食費もそこまでかからないので自分としては助かってるんだけど。
結局昨日、夕飯抜いちゃったしな……
「昨日の事もあってちょっと……」
と答えながら、俺はおにぎりのフィルムをはがす。
「帰り送っていこうか?」
その申し出に、俺は首を横に振った。
「今日はバイトありますし……時間遅くなるし自転車、ありますから」
正直、送ってもらえるならその方がいいかもしれない、とは思う。
俺はあの家に帰らないわけにはいかないし、蒼也が来たとき俺は、ちゃんと力を使えるのか未だ不安がある。
俺は手袋をした手を見つめる。
今度蒼也がうちにきたらこの手袋を外す。
昨日そう決意したけれど、本当に外せるかと聞かれたら……自信はない。
風呂以外で手袋を外そうとすると、どうしても思い出してしまう、母の声。
『素手でさわらないで!』
耳の奥で声が響き、俺はおにぎりをテーブルに置いて口を押えた。
母と最後に会ったのはいつだろうか……
引っ越してから全然会っていないから、三年以上になるはずだ。
連絡が来ても、蒼也に関わるな、というものばかりで俺を気遣う様なものは何もない。
俺がベータで、母がどれだけ失望したのか俺は知ってる。
俺がアルファだったら、蒼也もあんなことしてこなかっただろうし、母との関係も変わっていたかもしれない。
でも俺はベータだ。それはもう変えられない。
「緋彩? ねえ、緋彩」
奏さんの声がすぐそばにで聞こえてきて、俺は顔を上げる。
すぐ目の前に彼の心配げな顔があり、俺は驚きのあまり身体を引こうとする。
……この人は大丈夫なんだとわかっているのに、人に近づかれると逃げてしまうのはもう条件反射だ。
こればかりはなかなか変えられない。
「大丈夫じゃなさそうだけど?」
「あ……す、すみません、あの……ちょっと色々思い出しちゃって」
親に大事にされていた時期は確実にあるのに、不遇の時代が長すぎてそんな記憶はすでに水底に沈みきって思い出せなくなっている。
すぐにどうにかなるものじゃあないけど、でもこのままじゃ俺は、蒼也につけ入るすきを与えてしまうから早く何とかしねえと。
「そう。それ、苦しい話かな」
奏さんの言葉に、俺は黙って頷く。
「その苦しさを、話せるようになるといいけど」
確かに、話せたら楽なんだろうけど、俺はまだそこまで至れていない。
「す、すみません……俺……」
震える声で言うと、手がそっと、俺の頭に触れる。
「謝る事じゃないよ。今はまだ吐きだせなくても、いつか話せるようになる時は、来ると思うよ」
そんな日が来たら……きっと俺、変われるだろうな。
蒼也に怯えず、他人を怖がらずに済むようになれたら……
俺は目の前にいる奏さんの顔を見る。明るい茶色の瞳と目が合い、おもわず俺は顔が紅くなるのを感じて目を背けた。
やばい。何恥ずかしがっているんだ俺。
「……緋彩、どうしたの?」
「だ、だ、大丈夫です」
俺は俯いたまま、ちらり、とだけ奏さんの方を見る。
彼は椅子へと戻り、心配げな顔をして俺を見ていた。
人を怖くならなくなったら俺……この人を好きになっても大丈夫だろうか?
他人は怖い。
でも、奏さんなら大丈夫だって思えるから。
あ、それなら逆でもいいのか。奏さんが大丈夫になれば他の人も怖くなくなる?
小学生の頃からずっと、俺は人を避け続けてきた。
でもそんな生活を終わりにできたら俺は……下を向かずに生きていけるかもしれない。
俺は顔を上げて、じっと奏さんを見つめた。
「あの、奏、さん」
「何?」
「あ、明日なら……バイト、ないから……帰り……」
消え入る声で言うと、彼は優しく微笑み、
「いいよ」
と言ってくれた。よかった、断られたらどうしようかと思った。
「明日は実習あるから帰り少し遅くなるけど……それでも大丈夫かな?」
「だ、大丈夫です。いくらでも、待ちますから」
どちらにしろ、明日は五限まで授業があるから、そんなに待つことはないと思う。
「そんなに待たせることはないと思うよ。じゃあ、夕飯、一緒に食べようか?」
その申し出に、俺は大きく頷いた。
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