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第2話
そういう日常の翌日もまた、ひと続きの日常だ。
前日の夜に、これでもかと佐和紀を悦ばせたくちびるから、吹けば飛ぶようなため息がこぼれ出る。
イヤホンマイクを耳からはずし、ベスト姿の周平はビジネスチェアへ背中を預けた。
目を伏せると、吐息が笑いに変わる。
黒縁の眼鏡を指先で押しあげ、呼び出しのスピーカーボタンを押した。
支倉(はせくら)を呼ぶように指示を出すと、まもなくしてオフィスの扉が開いた。秘書業務を担当している支倉は、周平と同じく三つ揃えのスーツを愛用している。周平好みのイタリアンスタイルと違い、かっちりとしたブリティッシュスタイルだ。
髪は乱れなく撫でつけられ、冷静沈着を絵に描いたような美形が映える。
「いかがされましたか」
笑っている周平を見ても、眉ひとつ動かさない。
「いや……、俺はいったい『誰』と結婚したのか。そう考えると笑える。顔がいいだけの乱暴者をもらったつもりだった」
こみあげる笑いをしかめ面で噛み殺し、引き出しから細巻きの葉巻(シガー)を取り出す。支倉がすかさずライターを取り出した。火が差し向けられる。
「野放しにするから、こういうことになるんです。きっちり型にはめておけばよろしかったものを」
「パンドラの箱を開けるのは罪か」
「最後に残ったものが『希望』でも、押し込められているものは『悪と災い』です。脅威に違いありません」
「『好奇心は身を滅ぼす』だろう。俺の場合には、あてはまらない。これは『愛』だ」
周平のまっすぐな言葉に、生真面目な男は、ひくりと頬を震わせた。
「『愛』と『好奇心』に違いがあるとは思えません。それに」
言葉が途切れ、周平は静かに微笑む。
がらんと広いオフィスの窓は、一面のガラス張りだ。港町の向こうに広がる海は、春先の日差しを受けて明るくかすんでいる。
「支倉。箱の中に入っていた『悪と災い』を出し切って残るのが、本当の佐和紀なら、俺はそれでいい。人は誰でも、自分が何者か、それを知りたいんだ。おまえだってそうだろう。自己肯定のために、俺を選んだはずだ。違うか」
「返す言葉もありません」
「まだ佐和紀に不満があるんだな」
「強いて言うならば、『不安』を感じます」
「おまえが、喉から手が出るほど欲しかった『切り札』じゃないのか」
ビジネスチェアにもたれた周平は、深い息遣いを繰り返す。ネクタイをゆるめて、支倉が置いたアッシュトレイにシガーを休ませた。
「必要としていたのは『切り札』であって『核弾頭』ではありません。一歩間違えれば、命取りになります。ここまで来ては、もう、連れていく、いかないの話では済みません」
わかっているのかと、言外に問い詰める声は厳しい。
周平は浅く息を吸い込んで吐き出した。ビデオ通話をしていた悠護(ゆうご)にも同じことを言われたばかりだ。アメリカ西海岸は日付が変わる三十分前で、ビデオ電話の向こうにいる悠護は、どことなく思い詰めているように見えた。
事態はまだ、大きく動いていない。
横浜で匿うことになった伊藤(いとう)真幸(まさき)は、にわかに信じがたい佐和紀の過去を話した。いまから十年ほど前、彼自身が十四歳ぐらいだった頃のことで、信憑性は低い。佐和紀の記憶を引き出すほどのインパクトもなかった。
それでも、支倉の『不満』は『不安』に変わり、悠護が隠していた情報も開示されることになった。真幸の記憶は正しかったのだ。一歩前進には違いない。
佐和紀と真幸は同じ場所で暮らしていた。まだ幼かった子どもと佐和紀の顔が一致したのは、『母親らしき人間』と似ていたからだ。『サーシャ』と呼ばれていた佐和紀は三歳ぐらいに見えたらしい。
本来なら、その頃の佐和紀は五歳のはずだから辻褄が合わない。発育が遅れていたのか、それとも佐和紀の戸籍が間違っているのか。
悠護は、後者だと言った。
周平も初めて知ったことだが、佐和紀の戸籍が作られたのは十四歳のときだ。佐和紀が母と祖母から教えられていた『生まれてすぐに性別を偽った』という話は作り話だということになる。
性別は女に、年齢は二歳増して、現在に至っている。
真幸が身を寄せていたのは、ある思想を持って武装準備を行う政治組織で、農業団体『ツキボシ会』を隠れ蓑にしていた。自給自足を目指す『ツキボシ会』は、いまも同じ場所を本拠地としているカルト教団だが、大きく世間を騒がせることもない。入信勧誘に煩わされたこともなければ、名前を聞いてもピンとこないような団体だった。
ツキボシ会とサーシャについての情報を悠護から引き出そうとしたが、ガードは固く、はぐらかされた。仕事仲間で友人だからこそ、互いの利害には慎重だ。知っていること、伝えたことが、害になる可能性もある。
情報というモノは諸刃の剣だ。足りなければ道が開けず、溢れていても収拾がつかなくなる。周平も承知しているので、手持ちの情報を渡すこともしなかった。
ツキボシ会の過去は、支倉から個人的に報告があがってきている。優秀な側仕えだ。周平に雑音を聞かせないため、必要とあれば自分がアンテナとなり、情報を精査してくれる。
ツキボシ会を隠れ蓑にしていた政治組織は、日本最後のフィクサーと称される『大磯(おおいそ)の御前』が、かつて秘密裏に支持した左派団体だ。しかし、御前が左派なのではない。
彼は常に中道を行き、左派にも右派にも顔が利く。政治も経済も外交でさえ、彼の指示で動いていた時代がある。
多種多様な組織を作り、それぞれを絡ませることで国内のバランスを取っていたのだ。まさしく手駒だ。戦後の日本社会は、彼の目前に置かれた将棋盤だった。
「そろそろ、みなさんにご紹介なさっては」
支倉の声は、小さいけれど通りがいい。
「……決め手に欠ける」
周平はいつものように物憂く答えて、眼鏡のズレを正した。
「あんな魑魅魍魎たちにさらしたくない」
「あなたの奥様は、その魑魅魍魎を、片っ端からかじってしまいそうな方ですが」
「俺があえて黙ってることを、口にするな」
思わず笑ってしまい、周平は眼鏡をはずした。『みなさん』という名の魑魅魍魎は、周平の『友人』だ。
表向きは学生時代からの付き合いということになっているが、実際は悠護とツルむようになってから知り合った人間ばかりだ。
周平と同じように『大磯の御前』の息がかりで、それぞれの仕事をこなしている。
結婚して数年。彼らからも、自慢の嫁を紹介しろとせっつかれてきた。しかし、周平にその気はない。
美人でどぎつい異色のチンピラを自慢したい気持ちはあったが、一度でも面通しをすれば、有事の際に佐和紀を守ってくれという意思表示になってしまう。
そうなると厄介なのが、一癖も二癖もある連中からの接触だ。あの手この手で、近づこうとするに決まっている。想像するだけで周平の気持ちは休まらない。
「……支倉。おまえ、いつから佐和紀を認めたんだ」
「不安材料だと申し上げたばかりですが」
冷たく答えたが、本心ではないだろう。少し前なら、友人たちの中へ佐和紀を放り込み、いっそ誰かとあやまちの関係を持たせてしまいたいと、とんでもないことを口に出していたぐらいだ。
小姑でも、もう少し言葉を選ぶと言いたいほどの辛辣さが、いつのまにか和らいでいる。
ただし、ちくちくと飛び出た小言のトゲはそのままだ。
「悠護に持っていかれる、ぐらいなら……か……」
口にした途端に、周平は疲労した。うんざりして、目元を手のひらで覆い隠す。
真幸の愛人である石橋組(いしばしぐみ)の美園(みその)のように、佐和紀が『純然たるヤクザ』ならよかった。それとも、初めから、佐和紀の過去になど手を出さなければよかったのだろうか。
あちらとこちら。異なる価値観の板挟みになって失敗を続けた美園と真幸の二の舞だけは避けようと、夫婦間においては完全な信頼関係を構築してきたつもりだ。なのに、『予定』はいつだって『未定』で『決定』ではなかった。
人生に『絶対』はありえないのだ。
どんな過去もたかが知れていると封印を解いてみれば、ヤクザにもなりきれないチンピラの佐和紀は、真幸以上に真っ黒な生い立ちを持ち、彼とは比べものにならないほどの秘密を抱えていた。
このままいけば、悠護も痺れを切らす。かつて心を傾けた相手だ。危険にさらされると知れば、佐和紀の気持ちを無視してでも保護しようとするだろう。
愛される人間はいつも不自由だ。身勝手な優しさに束縛されて、身動きが取れなくなる。
優しさもエゴの一種だと周平は思う。
愛することで満足する心と裏腹に、愛されることは制約を生む。
それを振り切って逃げ回っていたのが真幸だ。美園を愛するがゆえに、彼を守ろうとしながらも、目覚めてしまった自意識に逆らえなかった。
美園も知っていて許した節がある。手元に置いても、極道社会の荒波で傷つけられるだけだと思い、自由にしてやることで愛情を示そうとしたのだ。しかし、真幸の自由は自暴自棄と紙一重で、美園もずいぶんと精神的に追い込まれた。
生まれたときからヤクザだったような男を苦しめるのだから、真幸という男も得体が知れない。惚れてしまった友人の不幸を肴にして旨い酒を飲む代わり、周平は幾度となく裏へ手を回してやった。
美園も真幸も知らない話だ。しかし、はっきりさせておいたほうがよかったのかもしれない。首の皮一枚繋がるたびに美園のもとへ帰り、英気を養うとまた戦いへ出てしまう。
そのたびに事態は深刻になり、前回はもう周平でさえ真幸が誰に使われ、なにをしているのか見えなかった。
「美園が佐和紀を頼るとは、考えなかっただろうな」
悠護のことを考えて周平が笑うと、支倉は眉をひそめた。笑いを噛み殺す仕草だ。
美園に愛人探しを頼まれた佐和紀は、見事に真幸を見つけ出し、大阪まで送り届けた。そこへ現れた悠護の焦りもどれほどのものだっただろうか。
情報統制を図り、佐和紀を守るために来た、と予測したのは周平ではなく支倉だ。
真幸は見た目ほど平凡で純情な男ではない。自分の仕事と美園のためになら、いくらでも非道になれる。それを知っているからこそ、悠護は飛行機のトランジットだとうそぶいて駆けつけ、佐和紀に関する情報の取り扱いを保障させたのだ。
「やはり悠護さんは、御新造さんと伊藤真幸との接触を恐れたのではないかと思います」
「そこそこ仲良くしてるだろう」
約束通り真幸を横浜へ呼び寄せ、佐和紀は定期的に様子を見に行っている。
「そこが御新造さんの恐ろしいところです」
嫌悪するように頬を歪ませた支倉は、小さく息をついた。
「悠護さんの策が、功を奏したというべきかもしれません」
「感謝はしない」
そんな義理は、感じたくもない。
「結局のところ、真幸は、佐和紀を利用した。悠護も同罪だ」
美園のためを思った真幸は、しばらく活動から距離を置き、休みたかったのだ。
長く心配をかけ続け、これ以上は互いの関係を根本から壊しかねないと判断したのだろう。はたから見れば遅すぎるほど遅い決断だった。別れずにきたことが奇跡に近い。
そんな真幸にとって、佐和紀の過去を知っていたことも、周平の嫁だったことも渡りに船の好都合だった。おそらく、美園が佐和紀に泣きついたことも。
その上、悠護が自発的に現れ、真幸が取り引きをするまでもなく、すべてのお膳立てをして去った。そこには美園に対する悠護の優しさも含まれているのだが、周平には関係のない話だ。
「ですから、みなさんにご紹介を、と申し上げているんです。このままでは悠護さんだけが知る『特異点』となります」
支倉の言葉が引っかかり、眼鏡を顔に戻した周平は視線を鋭くした。
佐和紀の過去が、どこに作用するのか。まだ見えない。だからこそ、思いもしないところで利用されかねない。爆弾もいいところだ。
「特異点か。……あっちもこっちも謎ばっかりだな。おまえはなにを握ってる。その手を俺に見せてみろ」
「現状では『ただの点』に過ぎません」
さらりと言い逃れる支倉は、静かにまばたきをした。
「まだ必要ない情報か……」
火のついた細巻きのシガーを指に挟み、周平はゆったりとくちびるへ運んだ。
「俺を落胆させるなよ」
ふぅっと煙を吐き出すと、支倉はきりっと表情を引き締めた。いっそう背筋を伸ばす。
情報をわざと隠して、周平から無視された過去を思い出しているのだろう。よほどこたえたのか、顔色がうっすら青ざめる。情報を握っているのは支倉だが、立場はいつだって周平が上だ。
「紹介の件は考えておく。……決め手に欠けるんだ」
周平はいつもと同じセリフを繰り返して、物憂い表情でくちびるを歪めた。
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