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髪 3

 そしてある日。薫は膝下まであった美しい黒髪を切ってしまったのだ。当然刃物類は渡していない。薫は自分の歯で噛み切ったのである。  私は香織の美しい黒髪が好きだった。  それはそっくりそのまま息子である薫にも受け継がれた。その美しい黒髪をあろうことか薫は自ら切ってしまったのである。  床に無残に散らばる髪の残骸を見て、私の心はぼろぼろに砕け散った。  もうここに香織はいない。  私の愛する香織はいない。  私の愛した香織は、この世のどこにもいない。 「外に出ようか、薫」  私はそう声をかけ、薫の細い身体を抱き、蔵から出た。  雨が降っていたので日差しは抑えられたが、やはり外の眩しさがつらいらしい。薫は両手で目を覆い、しくしくと泣いた。 「これが緑の葉の匂い。これが雨の匂い。これが湿気った土の匂い」  私は目の見えない薫の代わりに、目に見える景色を彼の嗅覚を頼りに教えてあげた。 「そしてこれが古池の臭い。鼻を覆いたくなるような嫌な臭いだろう?」  私は薫を古池の端に立たせ、その背に片手を置いた。 「ご覧。君には見えないだろうが、私にははっきりと見える。この藻で濁ってしまった古臭い池でもね。何が見えると思う?」 「お魚でしょうか?」 「いいや違う。正解は――」  私は薫の背に置いた手に目一杯力を込め、彼を古池へ突き落とした。 「香織――だったものの成れの果てだ。君はもう香織じゃない。私の愛した香織は、とうの昔に死んでしまった。薫、お前が殺したのだ」  足元から水面を叩くばしゃばしゃとした音がひっきりなしに奏でられる。水深は膝上ほどしかないが、それでも彼にとっては一大事だろう。薫はいままで泳いだことがないのだから。 「でも安心してくれ薫。私もすぐに行くから。あの世で私と香織と家族三人で暮らそう」  私は懐から切れ味の良い小刀とひと房の髪束を取り出す。それは薫が自ら断ち切ってしまった髪だ。  私は髪束のうちの半分を口にし、口腔内で絡み合うそれらを咀嚼し、ごくりと飲み干す。  それから残りの髪束を水面に浮かぶ薫の溺死体の上に振り撒き、自らの首を切り裂いて、私も古池へ飛び込んだ。  薫の髪が水面を覆い、私の身体に纏わりつく。  絡み合う黒髪。  醜く濁っていく古池の水。  薄目を開けて見えた先には微動だにしない薫の屍。  それから――。  了

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