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爪 1
じゃりじゃりと小気味よいリズムが指先を滑る。
親指、人差し指、中指と進むにつれて、じゃりじゃりの間隔は短くなっていく。
まずは右手。五本の指すべてを奏で終えたら、つぎは左手。
じゃりじゃり、じゃりじゃり……。
左手の小指まで到達したら、摩擦でかすかに熱を帯びた指先に、ねっとりとした生ぬるいものが伝う。
人間の舌だ。それも、まだ若い男の。
男は甘い菓子をしゃぶるように、それはそれは美味しそうにじゅぷじゅぷと音を立てて、先ほどとは逆の順番で両手の指を自らの口で愛撫した。
この一連の行為はもう何日もの間繰り返されている。
はじめはその奇妙な行動に戸惑い、それから憤慨し、行為をやめるように抗議した。だが男は力で敵わないと悟ったのか、卑劣な手段をとったのだ。
「今日は大人しいんだね、ナルミさん」
右手の親指を舐め終えたその男は、満足げな笑みを浮かべてひょっこりと顔を出す。
男の奇抜な容姿にはもう慣れた。
ピンク色に染めた短い髪をツンツンと尖らせ、毎日違うカラーコンタクトを着用する。
男の顔が上下逆さまに映っているのは、仰向けに横たわった状態で、ベッドヘッドから身を乗り出す男を見ているからだ。
目が合うと、男はペロリと舌を出し、ごちそうさま、と言った。
「ナルミさんはやっぱりすごい。僕がスカウトしただけあるね。形も良いけど、味も良い。きっと僕に会う前からずっと手入れを欠かさなかったんだろうね。やっぱり職業柄? 最近多いもんね。僕も何人か担当した。みんな褒めてくれたよ。ヒカルの手にかかると、その日の演奏はいつもより上手くなるんだって。お客さんもノリノリなんだって。いいなぁ、僕もライヴに行ってみたいな。あ、そうだ。いつかナルミさんのライヴに招待してよ。僕、絶対に行くから」
男――ヒカルはいつもより多弁である。こちらの意思などお構いなしだ。
こういうときはヒカルが何を話しても聞かないように耳をふさぐのが一番手っ取り早い。
だが、それはできない。
なぜなら両手の自由が奪われているからだ。
無機質なパイプベッドに寝かされて、仰向けの状態でバンザイをするという無様な格好で、両手を柵にくくりつけられている。
手首を拘束するものはSMショップに売っていそうな赤いレザーの手錠だ。成人男性の力なら、いとも簡単に壊せそうな代物である。
だがそれを妨げるものがまたひとつある。
ヒカルから与えられる水や食料に、不定期で睡眠薬のような何かが混ぜられているのだ。
それに気づいたときにはすでに三日ほど経ち、その間ずっと縛りつけられていたために気力体力ともに落ち、手錠を外そうなどという意欲すらも消え始めていた。
脳裏にぼんやりと自分の現状がうつる。
正確な日時はもうわからないが、数日前からヒカルという男に監禁され、毎日両手をいじられている。
「あと少しだよ、ナルミさん。こんなに綺麗になってきた。ますます美味しそう。早く僕のものになって」
ヒカルは整えられていく左右の指先を見比べ、一部不揃いだった右手の中指に着目した。
「ここって少し巻き爪気味?」
ヒカルと口を聞きたくなくて、薬で朦朧としている風を装う。
口を聞いたところで、ヒカルから有益な答えが返ってくるとはとうてい思えない。今までの彼の言動を思い出したら、自然と眉間に皺が寄った。
「もしもーし。ナルミさん、聞こえてますか?」
「……」
「まあ、いいんだけどね。でも、そろそろナルミさんとお話ししたいな。だめかな?」
「……」
「はーあ、残念。僕のスカウトがそんなに嫌だったの? でもそれはナルミさんが魅力的すぎるのがいけないんだよ。そんなに綺麗な爪で毎日ギターを掻き鳴らしているだなんて興奮する。まるでセックスしているみたいだね」
爪。そうだ爪だ。
ヒカルの爪に対する異様なまでの執着心を、この身をもって体感することになるなんて、当時は思いもしなかった。
いっそすべての爪を剥ぎ取って、ヒカルの興味をなくしてしまいたい。
ヒカルにとって価値のあるものは、この十本の爪だけなのだから。
しかし自分の爪を剥ぐことはおろか、自力で逃げ出すことも不可能に近い。
悔し紛れに手首を拘束する手錠を鳴らす。
「痛い? ああ、赤くなってるね。ナルミさんが寝たら消毒しておくね」
硬く握りこんだ指を本来は曲がらない方向に折り曲げながら、ヒカルは改めて手入れされた十本の爪をまじまじと眺める。
「うん、やっぱり右手の中指だけ形が不揃いだね。もう一度やすりをかけておこう。楽しみだねえ。ナルミさんの爪、どんどん綺麗になっていくよ」
そう言うが早いか、ヒカルは使い慣れた様子で、右手の中指に丁寧にやすりをかけていく。
じゃりじゃり、じゃりじゃり……。
何日も聞いてきたせいで、身体にすら刻みこまれてしまったそのリズム。
薬の効果も相まって、しだいに目蓋が重くなってきた。
「眠たい? ゆっくり休んでいいよ。夜ご飯になったら、また起こすからね。今夜はビーフシチューだよ。一緒にワインもどう? ナルミさんの生まれ年のワインなんだ。気に入ってくれるといいな――」
ヒカルの話し声が聞こえなくなるまでに、そう時間はかからなかった。
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