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爪 6
爪というものは性感帯であっただろうか。
小さな筆が指先の表皮をかすめるたびに、何とも言えないむずがゆさに駆られる。
仰向けに拘束された状態ではヒカルの手元は見えづらい。自然と不安が募る。
頭上のヒカルはフンフンと鼻歌を奏でながら、一本ずつ時間をかけて塗装していく。
右手の指五本すべてにシルバーネイルを塗り終えると、いったんマニキュアの瓶を置き、代わりに先の細いピンセットを取り出した。
「見える? ラインストーン」
焦点がぼやけるまでに近づけられたそれは、ヒカルの言葉を信じるのならばピンク色のラインストーンだ。
これをどうしようというのか。
戸惑いの表情を読み取ったヒカルはニンマリと口の端を吊り上げる。
「綺麗でしょ? これ右手にいっぱいつけてあげる。ギラギラしてかっこいいでしょう?」
「悪趣味だ」
「価値観の違いだね」
「俺に似合うわけがない」
「似合うよ。この僕を誰だと思っているの?」
自称カリスマネイリストは鼻高々に自らを指す。
「僕の手にかかれば、ナルミさんの爪はさらに美しくなる。僕は最高のネイリストだからね。そしてナルミさんは最高のギタリストだ」
最高のギタリストだとは笑わせる。
もちろん自身のテクニックに不満があるわけではないが、実際には売れていないのだから最高という呼称はおかしい。
「ナルミさんのギター、僕大好きなんだ。格好良くてセクシーで、他のメンバーがかすんで見えるもん。いっそのことソロデビューを目指したほうがいいんじゃない? そうだ、僕の知り合いにレコード会社の上役がいるから、掛け合ってみようか? そうだよ、そのほうがきっといい。ナルミさんはあんな小汚い下品なステージで演奏するようなミュージシャンじゃない。ナルミさんは――」
「俺の仲間を悪く言うな」
「へ?」
脳裏に浮かぶのはエネルギッシュなステージをこなしてきたメンバーの姿。
何も知らないこの男に悪く言われる筋合いはない。
「お前みたいなやつに音楽の何がわかる。知ったような口を利くな」
「たしかに僕は音楽のことはわからないし、畑違いだけど、僕だってアーティストだよ。ナルミさんのギターが普通のレベルじゃないことくらいわかる。今のバンドを離れられない理由でもあるの?」
ヒカルにそう問われ、真っ先に思い浮かんだのはユージの顔だ。
しかし、それだけである。
ユージに抱いているのは同じミュージシャンとしての尊敬の念であって、恋愛感情などはいっさいない。
「ナルミさん、聞いてる?」
「お前には関係のないことだ」
「……そうだね、僕は部外者だから」
それきり、ヒカルは黙ってしまった。しかし爪を装飾する手を止めることはなかった。爪の上を筆が往復し、何かを張り付けられる――ヒカルのいうラインストーンだろう。その上からさらに何かの液体でコーティングされ、それらの作業を左右十本すべての指に施される。
ヒカルの声が聞こえなくなってから三十分は経っただろうか。
「できたよ、ナルミさん」
ビビッドな容姿の男が再び視界に現れた。
「見たい?」
「別に」
「ええー。見てよ」
「俺は見たくない」
「暴れないって約束するなら手錠外してあげるからさあ」
そうだ。この男の異様な言動のせいですっかり忘れていたのだが、この数日間監禁された身であることに思い至る。
「俺はいつ解放されるんだ?」
「本当は手放したくないんだけど、僕、ナルミさんが好きだから、ナルミさんのギターを聴きたいから――」
ヒカルは自分自身を納得させているように思えた。
「――ナルミさんを解放する。だけど、最後に僕のお願い聞いてくれる?」
「内容にもよる」
ヒカルには悪いが、早くここから逃げ出して、存分にギターを弾きたかった。
「ねえ、ナルミさん。僕を抱いてくれない?」
「――は?」
この男は、今、何と言ったのか。
「僕を抱いてよ、ナルミさん」
「馬鹿なこと言うなよ」
「ダメ?」
「駄目じゃない。無理だ。男相手に勃つはずがない」
自分の性癖は至って普通である。そもそも男相手など一度も考えたことがない。
ヒカルはゲイなのか。それならばそれでもいい。たしかにヒカルは中性的な美貌をもっている。
だが、性的対象になるはずもなかった。
「たった一回セックスするだけじゃん。それで解放されるんだよ。悪い話じゃないでしょう?」
「俺にメリットはない」
「やれば解放するって言ってるじゃん」
「メリットがあるのはお前だけだろ」
「じゃあ挿れなくてもいい。ナルミさんのこの――」
ヒカルは自ら創り上げた作品をうっとりと眺める。
「――綺麗に伸ばしたこの爪で、僕の中を犯せばいいから」
「正気か?」
「僕が何のためにナルミさんを手入れしたと思っているの? 全部このときのためだったんだよ。ナルミさんの爪で、僕を犯して……」
そう言うとヒカルは大胆にも衣服を脱ぎ始め、たちまち素っ裸になる。そのままベッドへ上がり、膝上を陣取った。
「動かないでね」
ヒカルは手首を縛める革の手錠を解いていく。
右手、左手と順に圧迫感から解放されていく。
ヒカルの腰がわずかに浮く。
チャンスは今しかないと思った。
「ナルミさんっ!」
手錠が外れた瞬間、ヒカルの身体を押しのけてベッドからの脱出を図る。
ヒカルの華奢な身体は簡単に跳ね除けられたが、ベッドから降りて一歩足を踏み出した途端、ぐにゃりと視界が揺れ、気づいたときには床に倒れ伏せていた。
「逃げないって約束したじゃん! どうして逃げようとするの?」
ヒカルは金切り声を上げ、手近にあったあらゆるものを投げつける。
足は使い物にならないとわかり、這ってでも出口を目指そうとする。片手を前へ出したとき、初めてヒカルの作品の全容を見た。
正気の沙汰とは思えない。
ギラギラとしたラメ入りのシルバーの爪。
ラインストーンが派手に散りばめられた爪。
まるで水商売の女の爪のようだ。
忌々しき爪。
爪、爪、爪、爪爪爪爪爪爪爪。
――こんなもののために、俺は。
いっそのこと剥いでしまおうか。
そうだ。そのほうがきっといい。
コンクリートの床にギリギリと爪を喰いこませる。
黒板を引っ掻いたような耳障りな音がする。
このまま削り続ければ、いつかは無くなるのだろうか。
「だめ! ナルミさんやめて! 僕のアートを傷つけないで!」
ヒカルが勢いよく飛びかかり、右手首をぐっと掴む。
それならばと思い左の爪を傷つけようとすると、ぐるっと身体を反され、それから頬に重い一撃を見舞われた。
「馬鹿っ!」
じぃんと頬が熱を持つ。
皮膚を、筋組織を、骨を、衝撃が伝わっていく。
痛みを脳が理解したところで目をやると、ぽたりと雫が落ちてきた。ヒカルが泣いていたのだ。
「どうして……どうしてそんなひどいことするの……? ねえナルミさん、答えて? そうして自分を傷つけるようなことをするの……?」
傷つけているつもりはない。ヒカルに施された忌まわしい装飾を剥がそうとしただけだ。
それなのに、どうしてこの男は涙を流しているのだろう。
「痛いでしょ?」
ヒカルが右手をそっとすくい取り、指先を優しく撫でる。瞬間、びりりとした痛みが走った。商売女の爪が剥がれ、その下の本物の爪までも、割れていたのだ。
ぱっくりと、割れていたのだ。
「痛いでしょ?」
繰り返さなくてもわかる。痛い。爪が割れて、痛い。
「痛いのはナルミさんが自分を傷つけたからだよ? ナルミさんは僕のアートを傷つけただけじゃない。だってその爪はナルミさんのものだもん。僕がどれだけ欲しがったって、ナルミさんのものだもん。だからお願い、もう傷つけないで……」
「……この爪が剥がれたら、お前のものになるだろう?」
「ならないよ! 馬鹿にしないで!」
「お前は何が言いたいんだ」
「わからない? ナルミさんが好きって何度も言ってるじゃん……」
ヒカルは傷ついた指先を癒すように、その小さな口へ含む。じんわりとヒカルのぬくもりが伝わってきた。
「痛いでしょ?」
「……痛くない」
「ごめんねナルミさん。ここまでするつもりはなかった。僕はただ、ナルミさんに近づきたくて……ナルミさんに僕のこと知ってもらいたくて……ナルミさんに必要とされてくて……だから――」
「早く降りろ」
またがったままの男にそう声をかけると、ヒカルは動きを止め、顔をひしゃげた。
「俺を解放する約束じゃなかったのか?」
「――言ったでしょ、ナルミさん。僕を抱いてくれたら解放するって」
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