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爪 8

     ◇  ビビッドなライティング。空間を漂うタバコの煙。蕩けそうなアルコールの匂い。人々が躍り狂う魅惑のダンスフロア。  クラブ、という場所は倦厭していた。そんなところで遊ぶのならば、金のためにアルバイトをするか、どこかのスタジオにこもって一晩中ギターを掻き鳴らすほうが性に合う。  ワンドリンク制だったのでコーラを頼んだ。  この狭く息苦しい場所で酒を飲む気にはならず、鬱陶しい周りの景色を紛らわせるためには炭酸の刺激が必要だった。 「ナル! 楽しんでいるか?」  ユージだ。彼は相当飲んだらしく、千鳥足のままフラフラと近づいてくる。 「メジャーデビューが決まったってのに、どうしてそんなシケたツラしてんだよ」 「俺がこういう場所嫌いなの知ってるだろう?」 「ハッ! 上品に着飾って高級ホテルのパーティーに出るわけじゃないだろ。この一帯は俺たちの庭だ。このクラブはビラも置いてくれるし、俺たちにとってはあのハコの次に大事な店さ」  メジャーデビューの話が決まったのは、 ヒカルの元から解放されて一年と少しが経とうとしている頃だった。  一週間近く連絡も取れずに心配をしていたユージと顔を合わせた日、盛大に頬を叩かれた。  それから憔悴した姿を見て病院へ行こうと強く言われたが、それを断り、寒々しい安アパートへ帰った。  表沙汰にはしたくなかったし、大事にする気もなかった。  ユージが警察へ連絡しないでいてくれたのが、何よりも救いだった。  アパートに戻って、真っ先にシャワーを浴びた。一週間分の疲れが洗い流されていくようだ。  シャンプーを手に取り、泡立てて、髪を洗っていく。その間、なぜだが頭皮に触れる自分の爪が気になった。  泡をすべて洗い流し、シャワーを止め、それからまじまじと両手の爪を見る。  爪は痩せていた。  不健康そのものだ。  ヒカルに施された華美な装飾を失った爪は、白みがかった醜い爪になっていた。  こんなに弱々しい姿でギターが弾けるのだろうか。  いや弾けるわけがない。  これが本当に自らの爪なのだろうか。  信じることができない。  信じたくない。  爪、爪、爪、爪爪爪爪爪爪爪――――。  衝動のままに妙に不揃いな右手の中指に歯を立てる。  呆気ないほどにじゃりりと噛み切れた。  そのまま欠片をごくりと飲みこむ。 「――俺の、爪が」  その夜は一晩中悪夢にうなされ、一睡もできなかった。 「てかさ、お前も結局塗ってるじゃん」 「何を?」 「爪」 「ああ……」  赤ら顔のユージに向かって、十本の爪を見せつける。 「これが無いと爪弾きできないから」  シルバーにコーティングされた爪を見て、ユージは何かを悟ったようだ。  去り際に小さく「お幸せに」と捨て台詞を残したユージ。  彼には事の顛末を多少ぼかしながらも、すべて話していた。 「――あいつ、誰?」  雑音の中でもよく通る声がする。  振り返った先にいたのは、魑魅魍魎が蠢くこの場所に引けを取らないほどの外見をした奇抜な男・ヒカルだった。 「誰って、俺の大切なメンバーだ」 「ふうん。まあ、いいけど」  初対面時にピンクに染められていた髪は、白く脱色されている。この髪色も不思議と彼には似合っているが、どういった心境の変化だろうか。 「色、変えたのか」 「似合わない?」 「そうは言っていない」 「よかった。本当は銀髪にしたかったんだけど、まずはブリーチしなきゃだし、ひとまずはこのままでいようと思ってね」  相変わらずこの男は饒舌だ。爪以外の話題でも楽しそうに話す。  ふと、ヒカルと目が合う。  スモークが焚かれ、カラフルなライトに照らされていても、ヒカルのもうひとつの変化に気づくことができた。 「その瞳は?」 「ん? これ?」  ヒカルの瞳は薄い青色だった。  初めは新しいカラーコンタクトかと思ったが、そうとは思えない自然な輝きが両目に宿っている。 「これはね、生まれつき。海外の血が混じっているわけじゃないよ。こう見えて純日本人。何だろうね、これ。みんなと違うの。何で僕だけこうなったのか、よくわからない。ふふふ。突然変異かな」 「……」 「どうかした?」 「いや――大変だったんだな」 「同情?」 「そうだ」 「ふぅん」  シニカルな表情をしたまま、ヒカルはその距離を一歩ずつ詰める。監禁時の記憶が蘇り、思わずたじろいだが、それは一瞬のことだった。  ヒカルの歩みが目の前で止まる。 「ナルミさんのまっすぐなところ、僕は好きだな」 「――俺はお前が嫌いだ」 「知ってる」  そのとき、ヒカルを呼ぶ別の男の声が聞こえる。業界の関係者だろうか。その筋にコネがあると聞いてはいたが、このデビューが彼の力であるのかどうかは怖くて聞き出せていない。  もっとも、ヒカルはそのような手を使う男ではないことはわかっている。 「じゃあねナルミさん。いつでもうち来てね。サービスするから」 「お前のサービスは期待できない」 「夜の話?」 「黙れ」 「ふふ。爪割ったら怒るよ。気をつけてね、聖司さん」 「下の名前で呼ぶな。早くどこかへ行け」  ヒカルとの会話を打ち切ろうとプラスチックのカップをあおるが、あいにく中身を飲み干しており、溶けかけた氷が歯茎に当たって痛みが走った。 「馬鹿だなあ、ナルミさん。おかわりが欲しいなら僕が買ってあげるよ」 「お前の施しは受けない」 「強がらなくてもいいのにね」 「うるせえ」 「爪、勝手に切っちゃダメだよ。僕が手入れするんだからね」 「――さっさと消えろ」 「バイバイ、ナルミさん」  ヒカルは丁寧に磨き上げられた爪を舐め、蠱惑的に笑った。  了

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