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脚 1

 井橋直隆(いはし なおたか)にとって吉村龍之介(よしむら りゅうのすけ)という男は、まさに完璧な存在だった。  文武両道。眉目秀麗。清潔感もあるが漢気もある。  男女ともに好かれる容姿と性格であり、自信家で挫折を知らない男だ。  井橋よりふたつ年上で、近所でも有名な野球少年だった吉村は、幼少期からその才能の片鱗を見せ、中学を卒業する頃には次の甲子園での活躍が楽しみだと周りの人間からもてはやされていた。  高校は硬式野球の名門校に推薦で合格し、一年生にもかかわらず早々レギュラー入りをした。  吉村の噂は中学生だった井橋の耳にも届き、いつかは同じマウンドに立ちたいという小さな夢の後押しにもなった。  井橋は吉村を敬愛していた。  小学生のとき、同じ少年野球チームに入っていたころから、井橋は吉村に憧れていた。  二歳しか変わらないのに、吉村はチームメイトの誰よりも綺麗なフォームで投球していたのだ。  整った顔立ちで運動神経もいい吉村に対し、井橋は平凡そのもので同じチームに在籍していたことすら忘れられているだろう。  井橋はただ遠くから眺めているだけで、積極的に吉村と関わることはしなかったのだ。  唯一勉強だけが人並み以上にできた井橋は吉村と同じ高校へ進学すべく、野球部と平行して受験勉強にいそしんだ。  努力の結果、井橋は見事吉村と同じ高校へ進学することになり、吉村と同じ野球部に入部したが、現実はやはり甘くはなかった。  井橋と同じ新入部員は約二十名。その中でも井橋はこれまで同様平凡そのもので、野球帽をかぶってしまえば井橋の存在など簡単に消えてしまった。  それでも井橋は幸せだった。当然のごとく主将になった吉村の下で、同じ部員として毎日を過ごせるだけで幸せだった。  だが、井橋の吉村を思う日常は入部してから、三ヶ月にも満たない期間で破綻した。他の誰でもない。井橋自らの過ちで、敬愛していた吉村そのものを失ってしまったのだ。  甲子園への出場を翌日に控えたある日。井橋は偶然にも帰宅途中の吉村とはち合わせた。  共に自転車通学である吉村とは駐輪場で何度か姿を見たことはあったが、信号待ちの交差点で一緒になることはこの日が初めてだった。  社交的な吉村は緊張のあまり何も話せないでいる井橋に対しても気を使って、青信号になるまでの短い間を持たせてくれた。  だが井橋は長年敬愛していた相手と突然ふたりきりになった驚きと恥ずかしさで、吉村の顔すら見れない。  数分ほどの時間ですら井橋にとってはひどく気まずく、早く信号が変わってほしいと強く願った。  その思いに身体が反応したのだろう。無意識のうちに井橋はペダルをこぎ出していた。  横に並んだ吉村もまた井橋につられるようにしてペダルをこぐ。  歩行者用の信号は、赤く点ったままだった。  無常にも信号無視に気づいたのは井橋のほうが早かった。  急ブレーキをかけすんでのところで止まるが、吉村のほうは何もかもが遅すぎた。  井橋はあの事故の瞬間を忘れることができない。  驚愕の表情で振り返る吉村。車が衝突し、自転車ごと飛ばされる吉村。  井橋はショックのあまり何もできなかった。  吉村はすぐに搬送され手術を受けた。  一命は取り留めたものの、右大腿部と膝関節に深手を負い、野球界への復帰は絶望的だった。  将来有望株であった高校球児の事故はまたたくまに広がり、その原因を作った井橋へのバッシングは強烈なものであった。  吉村との面会は許可されず、井橋は彼の容態を知ることもなく、やがて不登校へと自分を追いこむことになる。  世間体を優先した両親の意向により、井橋は一年の終わりに中退した。  それからはひたすら地獄の日々だった。外出はおろか、自室からも出ることができない。  幼少期から敬愛していた吉村の人生を狂わせてしまった後悔は井橋を休むことなく責め続け、井橋の精神を病ませていった。  十八で近場の工場に就職するまでの三年弱、井橋は引きこもり、廃人のような生活を送っていたのだ。

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