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脚 8

     ◇  日曜日の朝。井橋は柔らかなぬくもりの中で目覚めた。  温かいと感じたのは衣服を身に着けていたからである。もちろん自分で着た覚えはない。  井橋はそっと隣に眠る吉村の顔を見る。  昨晩、右膝の痛みをうったえた吉村は、まるで人が変わったように優しくなった。  井橋の体温を奪った冷水のシャワーを温かい適温に変え、吉村自身がつけた暴行の痕を見て表情を曇らせ、大きな手のひらで患部を撫で、労った。  井橋は吉村の変化についていけず、大いに戸惑った。  だが、今の吉村に危害を加える気がないとわかると、井橋は張りつめていた緊張の糸が切れたのか、眠たくなった。  井橋の記憶はそこで一度途絶え、あとはおぼろげである。  途中、吉村に複数の薬を飲まされたことと、ゆったりとしたパジャマに着替えさせられたことは記憶に残っている。  まどろみの中の記憶は、井橋がかつて憧れていた吉村そのものであった。  井橋は吉村に向けていた視線をシーツの下の自らの脚に移す。  薬の効果で痛みは鎮静しているものの、見なくてもわかるほどに右脚は醜く腫れ上がり、処置をしないまま放っておけば吉村以上に後遺症が残るだろう。  吉村の狙いはそこなのか。  それならば最初に脚を折ったまま吉村は退散すればいいだろうし、井橋の自宅に居座る必要性はないだろう。  ましてや昨晩のように、甲斐甲斐しく世話を焼く必要もない。  井橋は今なお吉村の真意がわからない。井橋は同じベッドで眠る二歳年上の男をじっと見つめる。  眠っていても吉村は完璧な男だ。それにくらべ、熟睡している吉村の隣に横たわる自分は、なんて惨めなのだろう。  この男の将来を台無しにしてしまった罪は重すぎる。  結局井橋は十七年前の夏の日から、一歩も抜け出せてはいなかったのだ。  井橋はぎゅっと目蓋をつむり、目の前の肖像を消し去ろうと試みる。 「……直隆」  吉村の寝言は聞かなかったフリをした。  ふたりきりの空間は突如として破られた。第三者がインターフォンを鳴らしたのである。  音に反応したのは井橋よりも吉村のほうが早かった。  吉村は起きあがろうとした井橋に覆い被さり、手のひらで口を塞ぐ。  井橋は苦しさに身をよじったが、吉村は少しの抵抗も許さないとぐっと体重をかけ、井橋の意志をくじく。  インターフォンはしきりに鳴り続け、井橋は吉村の機嫌が急降下していくのをひりひりと肌で感じた。  吉村の怒りが自分に向けばまだいい。井橋は扉の向こう側の第三者の身を案じた。  井橋は彼の正体に心当たりがある。それは向こう側から発せられた声で確信に変わった。 「井橋! 起きているか? 大丈夫か?」  同僚の田所だ。井橋の返答がないとわかると、田所は諦めるどころか扉をガンガンと叩き、さらに声を張り上げる。 「井橋! 聞こえないのか!」 「……うるさい男だ」  吉村は顔見知り程度とはいえ田所と面識がある。  田所を巻き込むような真似はしたくなかった。  井橋は玄関へ向かおうとする吉村の腕をつかみ、必死にすがった。 「行かないでください……」 「離せ井橋。あの男を庇うつもりか?」 「……行かないでください。お願いですから」  吉村との攻防を続けているうちに、いつのまにか田所はいなくなっていた。  外を見てくる、と吉村が姿を消したので、井橋はまたひとりきりになった。  吉村がいなくなると、忘れていた脚の痛みがじわじわと井橋を襲う。  崩れるようにベッドへ沈むと、井橋はまた、自己嫌悪の波に囚われる。  ――行かないでください。  どうして吉村を引き留めたのだろう。田所に助けを求めるチャンスだってあった。  だが井橋は漠然とこれでよかったのだとも思う。  なぜそう思ってしまったのか、井橋は自分でも気づけなかった。 「お前とあの男、田所はどういう関係なんだ?」  寝室に戻ってきた吉村の機嫌は最悪だった。 「ただの同僚です」 「ただの同僚にしてはお前に執心しているらしい」  井橋は事実を口にするも、吉村は信じようとはしない。ベッドの上の井橋の前に立ち、スマートフォンを見せつける。  吉村のものではない。井橋のものだ。 「あの男からこの二日で十回も着信が入っている。メールも入っているが、これは仕事用じゃなくてプライベートだろう」 「中を見たんですか?」 「この男と寝ているのか?」 「寝……」  見当違いも甚だしい。井橋は呆れて物も言えなかったが、吉村はその沈黙を図星と取ったらしい。いきなり手にしたスマートフォンを壁に向かって投げつけた。 「あ……っ」  割れてはいないだろうか。  そう考えた井橋は無意識に手を伸ばすが、その手を掴んだのは吉村だった。  井橋を捕らえた吉村は身体ごとベッドへ倒れこみ、そのまま貪るようにして唇を合わせる。  井橋は混乱した。吉村の行動にまったくついていけない。獣のような男を引き剥がそうと井橋は腕や肩に爪を立てる。  だが井橋はこれまで以上の激痛に襲われ、泣き叫ぶはめに陥った。 「ぐぁああああ――ッ!」  吉村が井橋の折れた右脚に全体重を乗せたのである。 「あ……ぁあ……痛い」 「俺を怒らせるなと何度も言っている。俺を拒むな」  半放心状態の井橋のパジャマをはぎながら、吉村はいくつもの噛み痕を残していく。  反転させ、むき出しになった尻の狭間に指を突き立てながら、吉村は同じ言葉を繰り返した。 「俺を拒むな……井橋」 「それだけは、やめてください……」 「何を今さら。あの男には抱かれているんだろう?」 「誤解です、田所は本当にただの同僚で――」 「ならどうしてあいつに肩を抱かせたんだ!」 「話を聞いてください!」 「お前はどうして俺を避ける? 俺を拒む? どうして十七年も俺の前から姿を消したんだ?」 「あなたに会えるわけないじゃないですか! 俺が、あなたに何をしたかわかっているでしょう? 俺は、俺なんかが、あなたの前に立てる資格はない! 俺は、あなたの人生を……あなたの人生を……」 「……そうだ、お前は、俺の人生を狂わせた」  うつぶせに組み敷いた井橋の後腔を探りながら、吉村は自らの性器を取り出し、上下に扱き始める。  井橋の胎内を進む指は妙に手慣れていた。 「どうしても俺を拒むのか」 「俺は、あなたを尊敬していたのに……どうして……?」 「俺を受け入れろ」  勃起した性器が尻に触れた瞬間、井橋は最後のあがきと吉村の負傷した右膝を掴み、振り払おうとした。  だがそれは失敗に終わり、激昂した吉村によって井橋は手酷く犯された。  全身を傷つけられ、なぶられ、痛めつけられる。  引き裂かれた後腔からは血が流れ、シーツを赤黒く染めた。      ◇  それから何時間が経っただろうか。  吉村の気が落ち着いた頃には井橋の意識は途絶え、まるで死体のように伏していた。  吉村は井橋の右脚を持ち上げ、自らが折った怪我の具合を看る。右脚は左脚の倍以上に腫れ上がり、素人目にも形成手術は困難だとわかる。 「……片脚だけは残してやろうと思ったのに」  吉村はまっすぐに伸びた左脚に視線を向ける。 「工具箱を取ってくる。逃げようとするなよ、井橋」  了

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