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骨 1

 倉科貴一(くらしな きいち)が足を沈めると、その重みに反するように落葉していたイチョウが、鼻を曲げるような悪臭を放つ。  この臭いのもとはカルボン酸というらしい。そんな無駄な知識をどこかの誰かに聞いたような気もする。 「たららーらーらー」  貴一はイチョウを踏みしめながら颯爽と歩く。  かの旋律を舌に乗せ、ときおり両手の指で宙の鍵盤を弾きながら。  目を閉じるとあの人の顔が思い浮かぶ。貴一が好きなこの曲も、あの人から教わったものだ。 「たららーらーらー……らららーらー……」  あれほどピアノは嫌いだったはずなのに。  貴一はこの八年間、一日もピアノの練習を欠かさなかった。来る日も来る日も鍵盤と向き合い、楽譜とにらみ合い、そしてあの人を想って弾いた。  上達していく実感はあった。  あの人の指遣いを真似、あの人と同じタイミングで呼吸をし、あの人のように涙を流した――彼は誰を想っていたのだろうか。  泣くのはまだ早い。  貴一は歩みを止めずに手の甲で涙を拭った。  貴一の地元からバスで一時間ほどの距離に、その場所はあった。  ――東のイチョウ山。  山と呼ぶには標高が低いが、その麓には木々が生い茂り、秋になると色づくイチョウは行楽スポットにもなっている。  だがそれは山の入り口までの話であり、さらに付け加えると表側だけの話だ。  貴一がいるのは、いわば裏のイチョウ山である。  表側と違い裏側は陽の光が当たらず、鬱蒼としていて、人を寄せつけないような、墓場のような――だがそれでもイチョウの木々だけは毎年鮮やかな黄色を放ち、そして落葉していく。一種の呪いのようなものか。  ――呪うだけ呪うがいい。僕はあなたを助けられなかったのだから。  裏のイチョウ山の奥深く。ひときわ大きなイチョウの木の下に貴一は立った。  見上げると、無数の葉の隙間から月明かりが差しこみ、貴一の姿をぽつぽつと照らしていく。  貴一は端正な顔立ちをした若い青年だ。  柔らかい黒髪に小さな鼻。黒い両目はどこか虚ろで、それでいて見透かされるような不思議な力を持つ。  着痩せするタイプではあるが、それでも細く見える肢体。そして節の目立つ細い指。  貴一は月に照らされた自分の指を見る。途端に高揚感は過ぎ去り、ひしひしと嫌悪感が募っていく。  貴一は自分の指が嫌いだ。自分よりも素晴らしいピアノを奏でる指を知ってしまったから。  あの人の中身は、きっと綺麗なのだろう。  骨の形まで美しいのだろう。 「篠宮先生……」  貴一はイチョウの木の下へ寝転がり、落葉した黄色のイチョウたちの中に溶けこむ。  ひときわ酷い臭いがしたが、これはカルボン酸だけのせいではないと貴一は知っている。 「たららーらーらー……たららーらーらーらー………」  貴一は指先を伸ばし、手近にあったイチョウの匂いを嗅ぐ。  濃厚な蜜の中に鉄を溶かされたような嫌な腐臭がした。

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