26 / 31

骨 2

    ◇  八年前の九月。  その年は例年よりも寒い日が続き、当時中学生の貴一は詰襟の学生服に首をすぼめるように生活をしていた。  県内でも有名な進学校に通う貴一は、ピアノがだけが大嫌いだった。勉強もスポーツも得意なのに、幼少期から無理やり習わされていたピアノが大嫌いだった。  貴一の母親は音大出身だが、自分が希望する道に就くことができず、その夢を息子である貴一に託そうとしたらしい。ピアノのこととなると母が怖かった。  ピアノの時間になると胸が苦しくなり、両手の震えが止まらなかった。  そんな折、貴一の中学校に教育実習生としてやってきたのが、当時大学四年の篠宮音也(しのみや おとや)だった。  篠宮を一目見て、貴一は自分と似たタイプだ、と判断した。  黒板の前に立って自己紹介する篠宮は、教育者を目指すものとしてはあまりに頼りなさげで、幼く、ひどく不格好だった。  進学校の生徒だというプライドの高いクラスメイトは野次こそ飛ばさないものの、篠宮をまるでいない者のように扱うことを決めたらしい。  篠宮が言葉を発するたびに、教室の温度が下がっていくのを肌で感じる。  そして、貴一もまた、皆と同じような態度を取った。  篠宮はただ愚鈍なまでの作り笑いを浮かべていた。  篠宮の実習期間は三週間である。社会科を教える篠宮の声を聞くものは誰もいない。  貴一も皆と同様に、篠宮が教壇に立つ時間は他の教科の予習復習をしていた。  篠宮の顔すら見ようとはしなかった。  篠宮との距離が一気に縮まったのは、ある日の授業後の出来事だ。  教科書を置き忘れた貴一が音楽室へと向かっていると、ピアノの音色が聞こえ始めた。  聞いたことのある曲だったが、名前までは思い出せない。  だがその旋律は貴一の胸を打ち、つられるように音楽室へ向かう足が速くなる。  防音室なのにピアノが聞こえたのは、扉が完全に閉まりきっておらず、わずかに開いていたからだ。  喜一はそっと中を覗きこむ。  そこにはさえない教育実習生、篠宮音也の姿があった。  吊しのスーツ姿で演奏をする篠宮を見て、喜一は言葉を失う。  篠宮があまりにも美しかったからだ。  悲しい旋律を奏でながら、篠宮は鍵盤へと向き合う。  しなやかに動く腕。一音一音を正確に捉える指。繊細さの中に潜むアグレッシブルな情熱。踊る背中。ペダルを踏む足。曲調に合わせてなびく黒髪。  篠宮音也は美しかったのだ。  喜一は教科書の存在など忘れてピアノを弾く篠宮へと近づく。  篠宮の邪魔をするつもりは欠片もなかったが、彼の演奏に聴き入るあまり、貴一には周囲が見えていなかった。  ガッシャーン。  美しい旋律を不協和音が汚す。貴一は机に足を引っかけてしまったのだ。  思わぬ闖入者に篠宮は手を止め、そして振り返る。目が合うと「あ」と口を開け、照れくさそうに笑った。 「見られちゃいましたか」 「先生が扉をちゃんと閉めないからだよ」 「ああ、そうだったのか。やってしまった。校長先生に怒られてしまうな」 「先生はいつもピアノを弾いているの?」 「三十分だけね。君は、ええと――」  篠宮はそこで貴一の顔をじっと見た。脳内に叩きこんだ生徒一覧名簿と重ね合わせているようだ。 「――貴一くん。倉科貴一くんだね。二年B組の」 「そうです。僕は倉科です。先生は何を弾いていたんです?」 「サティのグノシエンヌ第一番」  篠宮の指が冒頭部分を奏でる。 「私の一番好きな曲なんだ」 「綺麗な曲ですね」 「君にそう言ってもらえると私も嬉しい。貴一くんもピアノを弾くの?」 「ちょっとだけ」 「そうか。いつか君の演奏も聴いてみたいな。そうだ今から弾いてみるかい?」 「僕は弾けません。それよりも、先生の弾く姿をもっと見たいです」 「私の?」 「ピアノを弾く先生は美しいです」  貴一が答えると、篠宮の顔がわずかに曇った。そして低い声で答える。 「そう簡単に美しいなどと言ってはいけないよ」 「どうしてですか?」 「それは女性を褒める言葉だ」 「先生は美しいです。美しい先生を、もっと見ていたい」 「――用事をすませたら、早く帰りなさい」  篠宮はあからさまに拒絶の意を示す。 「用事なんかありません。先生をもっと見ていたい」 「来週は中間テストだろう。早く帰って勉強しなさい」  篠宮が席を立つ。貴一は食い下がった。 「僕は学年の誰よりも成績が良い。この学校の誰よりも頭が良い自覚はある。だから勉強なんかしなくてもテストでは困らない」 「子供みたいな言い草にはこりごりだ」 「僕は子供だから。子供らしく振る舞って何が悪い。ねえ先生、僕は先生のピアノをもっと聴きたいんだ。だめ?」 「君は夢を見ているんだ」 「夢?」 「君の言う美しい先生なんか、どこにもいない」  そう言い残して、篠宮は去っていった。

ともだちにシェアしよう!