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骨 3
篠宮の小さな秘密を知った日から、貴一は彼への接触を続けた。たとえ篠宮が拒もうとも。
貴一にピアノを弾く現場を見られてから、篠宮は音楽室へ近づこうとはせず、また貴一本人からも距離を置くようになった。
だがそれは不可能なことでもあった。
社会科の授業中、貴一は教壇に立つ篠宮をじっと見続けた。
彼の内部を知るために。篠宮という男をもっと知るために。
貴一の視線に気づきながらも、篠宮はそれを無視し、貴一以外の三十九名に聴かせるように授業を続ける。
初めのうちは苦痛だった子供のような反抗も、日が経つごとに薄らいでいき、今では彼の態度を楽しめるまでになっていた。
無意味だ、と貴一は思う。
それは愚かしいまでに篠宮に執着する自身のことではない。
篠宮の中途半端な切り捨てかたに、無意味だ、という感情を抑えきれないのだ。
「ねえ先生、いつになったら僕を見てくれるの?」
授業後、逃げるように教室から姿を消した篠宮を、貴一は職員玄関で待ち構えていた。
「貴一くん。もうこういうことはやめにしないか?」
「こういうこと? 具体的に言ってくれないとわからないよ」
「どうしてそんなに私に構おうとするんだ」
「先生のことをずっとずっと見ていたいから」
「しつこいな。君も」
「先生こそ何か勘違いしてるんじゃないの。僕はただ先生を見ていたいだけなのに」
「君の認識と私の認識には齟齬があるようだね」
「ソゴ?」
「こういうときだけ子供らしく振舞うのはよしたほうがいい」
大人のあしらい。
今の篠宮は貴一を子供だと決めつけ、自分は大人だからというつまらない理由で貴一を遠ざけようとしている。
それが我慢ならない。貴一は行動に出た。
「先生」
「――っ」
ジャケットの裾からのぞく細い腕を、貴一は強く掴む。
その力は子供とは思えないほどに強靭で、大人の篠宮をひるませるには充分すぎるほどだった。
「僕は先生を食べてしまいたい――」
眼鏡の奥の瞳が、揺れる。
「――って言ったらどうする?」
冗談とは思えない貴一の声色に、篠宮はただ、小さく首を振ることしかできない。貴一は篠宮を引き寄せ、自分よりも少し高い位置にある耳に、そっと囁く。
「何度も言うけど、僕は先生を見るのが好きなんだ。僕はピアノを弾く先生を見るのが好きなんだ。先生の指があまりにも綺麗で、美しくて、繊細で――そしてひどく脆い」
「き、貴一くん……」
「僕、どうしたら先生に近づけるかな? どうしたら先生は僕を見てくれるのかな?」
「こういうことはやめてくれ」
「ねえ。教えてよ、先生」
蠱惑的な笑みで篠宮を見上げると、篠宮は逡巡した後、やがて折れた。
「――君は私のことが好きなのかい?」
「わからない。でも僕は、先生のことをずっと見ていたい。先生のことをずっと考えていたい。先生のことが気になってしょうがないんだ。これが好きってことなのかなあ?」
「貴一くん、ひとつ提案なのだが」
「なあに?」
「その前にこの手を放してもらえないだろうか」
「どうして?」
「放してくれたら、君はきっと喜ぶことになる」
「僕を試そうとしているのかな。ふふ。いいよ。でも約束してね。僕から離れないで」
念押しのためにひときわ強く握り締めたあと、貴一は篠宮を解放した。
「放したよ。先生はどうやって僕を喜ばせてくれるのかな?」
「君は私の好きな曲を覚えているかい?」
「サティのグノシエンヌ第一番」
「正解だ。それを私のために覚えてくれないかい?」
「――僕にピアノを弾けって言うの?」
「弾けるようになったら、君とデートをしてあげよう」
「それじゃあ僕が不利だ。先生にはデメリットがない」
「その日一日、君の好きにしても良い――って言ったらどうする?」
確かな意思を持って、篠宮は貴一に問いかける。
その言葉の裏に潜む本当の意味を理解した瞬間、貴一は目を輝かせた。
「本当に?」
「嘘は吐かない」
「絶対に嘘は吐かない?」
「本当だ」
「約束できる?」
「約束だ」
そう強く断言した篠宮の目が怯えていたことに、舞い上がっていた貴一は気づくはずもなかった。
篠宮の実習期間が残りわずかに迫る。
だが貴一はいっこうにグノシエンヌを弾きこなせなかった。
指が動かないのだ。目で楽譜を追えないのだ。何よりもこの曲を好きになれないのだ。
篠宮が弾いたときはあんなにも美しく悲しい、繊細な旋律だったのに、貴一が弾くと途端に重々しく澱み、聴衆を病ませる不快な旋律になってしまう。
どうしてだろう、と貴一は考えたが、それは他ならぬ篠宮音也という存在が崇高すぎて、彼の足元にも及ばないことを自覚しているからだ。
篠宮のようになりたい、彼に少しでも近づきたいと心の奥底から願っても、想いだけではどうにもならない技術のなさが、ひどく疎ましい。
このままでは到底間に合わない。
貴一が弾きこなせるようになるよりも早く、篠宮はこの学校から、貴一の前から姿を消してしまう。
焦りが視界を曇らせ、貴一は深い霧の中で惑い、篠宮を想って叫び――誰もいない現実にむせぶように泣いた。
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