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骨 5
◇
八年前の九月二十九日。
休日明けの月曜日は毎週憂鬱なはずなのに、この日は違っていた。
課外授業という名の遠足で、学年全員でイチョウ山へ行く日だったのだ。この遠足には教育実習生らも同行した。むろん、篠宮もだ。
バスを降りた貴一たちは、クラス単位で一列になってイチョウ山を登る。担任が列の先頭を歩き、篠宮は後方についた。身長順で並ぶため、背の低い貴一は前から三番目になり、篠宮とは距離が空いてしまう。
だが、貴一はそれでもいいと思った。グノシエンヌを弾きこなせない無様な姿を、篠宮に笑われるのが怖かったのだ。
もっとも、篠宮は貴一の存在など鼻にもかけていないだろう。子供の戯れだと思っているのかもしれない。
デートという甘い言葉で誘って、意識を自分からピアノへとすり替えさせて。
大人は卑怯だ、と貴一は思う。
でもどうしようもなく篠宮に夢中で、篠宮とのデートのために必死になってピアノと向き合う自分は――やはり子供なのだろうか。
篠宮に近づきたい。彼と肩を並べたい。対等な関係になりたい。そしていつかは追い越したい。
貴一はピアノを通して篠宮と自分との関係を見直し始めていた。
始まりは視界にも入らない男だった。それがピアノを弾く姿を見て、一気に惹かれたのだ。
篠宮の何が貴一の琴線に触れたのだろう。
愚鈍なイメージとのギャップ。
平たく言えばそれだ。
だがそれほど甘いものではない。
ピアノと向き合う姿勢。氷を落とされたような鋭い刺激。揺れる髪。鍵盤を叩く指先。形がよく、滑らかな指。関節。それらを形成する骨。
こんなにも美しい人なら、骨の形まで美しいのだろう。
中を見てみたい。
篠宮音也の中身を、見てみたい。
きっと美しい。
きっと――――。
山の天気は変わりやすい。
九月二十九日。午前は曇り空だったイチョウ山に、暗雲が立ちこめはじめた。学校側は午後の予定を切り上げて、下山する方針を固め、生徒たちにもこの旨を伝達した。
やがてバケツをひっくり返したような大雨が貴一らを襲う。
強風にあおられ、大量のイチョウの葉が吹き荒れる。急ぎ足で下山する貴一の頬に、水気を帯びたイチョウの葉がべっとりと張りつく。何もかも不快だ。
イチョウ山の中ほどまで下山したとき、目を覆いたくなるような閃光と耳をつんざくような破壊音が生徒たちを襲う。貴一はこれほどまでに大きくて近い落雷を経験したことがなかった。
恐怖のあまりパニックに陥り、女子生徒たちは泣き叫びながら列を追い越し、我先にとイチョウ山の出口を目指す。彼女たちの勝手な行いをいさめようと教師たちが走る。その中には篠宮の姿もあった。
ずがあああああん――。
また、雷鳴。
――危ない!
誰かの叫び声。
――早く山の外へ!
冷静な態度をとっていた生徒たちも、二度目の落雷の衝撃には耐えられなかったらしい。皆が走り出し、集団だったものは個となって散り散りになっていく。
貴一もまた、彼らの流れに乗り遅れないように駆け出した。
山の中にいても感じられるほどの強い雨が視界を遮る。荒れ狂うイチョウの木々たち。いつ落ちてもおかしくない雷。黒い雲の中で、おどろおどろしいうなり声をあげている。
――もしかしたら、この山から出られないかもしれない。
貴一は本能的にそう感じ取った。
周りの状況など気にする余裕などあるはずもない。それは皆同じだ。
ようやくバスに戻って点呼を済ませる。
教育実習生、篠宮音也の姿がないことに、そのとき初めて皆が気づいたのだ。
あの日、僕はすべてを見ていた。
僕はすべてを見ていたのだ。
あの叫び声は、篠宮の悲鳴だったのだろう。
八年前の九月二十九日。
篠宮は大雨と強風の影響で足を滑らせ、転落したのだ。表のイチョウ山と裏のイチョウ山との境にある、切り立った崖の上から、転落したのだ。
混乱の中、出口に向かって走る貴一が捉えたのはほんの一瞬だった。
篠宮の細い身体がふわりと浮き、そして消える。
突然のパニックに混乱した脳が見せた幻覚だと、そのときは思った。
何よりも信じたくなかったのだ。
だが貴一は、篠宮を見ていないか、という担任の問いかけに応じることはできなかった。ショックのあまり、口がきけなくなったのではない。
まずはこの目で確かめてから。
そう思ったのだ。
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