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chapter3 承諾 ①
「考えるな」
ぴしゃりとした声が、フランツの思考を遮った。
フランツは押しあげられるように顔をあげる。海に潜ったところ溺れてしまい、救助の手にしがみついて水面へ浮上したような気分だった。
「お前を巻き込むつもりはない。これは俺の問題だ。だから、そんな顔をするな」
パウロはフランツの頬に優しく触れる。まるで泣きそうな弟を、兄が慰めるような仕草だった。
「でも、パウ。私は……」
心配なんだ――と言いかけた口が、代わりに息を呑み込む。パウロの顔がお互いの息が触れあうぐらいまで近づいてきた。
――どうして、胸の鼓動が速くなるのだろう。
フランツはドキドキする気持ちがわからず焦った。きっとパウロが格好いいからだと思った。男の自分から見ても、憧れてしまうほどに。パウロをドイツへ連れて行ったら、イタリア男性には妙に甘いドイツの女性たちからデートの申し込みが殺到するはずだ。それほど魅力的なんだ。フランツは何とか理由づけをした。
「フラは優しい。俺はよく知っている」
パウロはフランツの耳元で囁いた。フランツは少しだけ頭を前に傾けた格好で、石のように固まる。
「俺のことを自分のことのように心配してくれる。俺はそんなフラが大好きだ。子供の頃とちっとも変わっていない」
パウロの息遣いが耳朶に触れる。
「でも俺の心配よりも、自分の心配をするんだ。フラに迷惑をかけたくない。俺の気持ちもわかってくれ」
イタリア語の言葉の響きは、まるで恋人へ甘く語らうように聞こえる。
「フラは大使館勤めの軍人だろう? ポルノ映画で裸になっていい体じゃないんだ」
パウロはちょっと笑うと、耳に軽くキスをした。
「……」
フランツは固まったままだった。息をするのも忘れたように、ゲルマン産の石像と化している。パウロの息遣い、パウロの囁き声、パウロのキス……全てが魔法となって、フランツの意識を奪った。
「……フラ?」
北国の深い青空色の瞳に、心配そうなパウロが映る。
「……大丈夫だよ」
フランツは息をいっぱい吸い込んだ。さもないと、心臓が破裂してしまいそうだった。
「……大丈夫だ、パウ」
胸の鼓動が情熱的に踊っている。去年スペインのセビリアへ旅行した時に、偶然観たフラメンコを思い出した。黒い髪に真っ赤なドレスを着た美しい女性が、周囲の男たちがかき鳴らす旋律にあわせて踊っている。まるで伝説のカルメンのように。それは信じられないほど幻想的だった。そのうちに、激しいステップを踏みながら、まるで自分を誘うかのようにカルメンは近づいてきた……
「大丈夫じゃなさそうだな、フラ」
パウロはフランツの頭に手を置いた。
「顔が真っ赤だ。心配しすぎて熱が出たんだ。もう帰って寝たほうがいい」
「……いや、大丈夫だ。私は正常だ」
まるでロボットのような返事をする。
「お願いだから、ここから追い出さないでくれ」
「俺を困らせるな、フラ」
パウロは手を離し、腕を組んだ。聞き分けのない子供を叱るように眉をよせる。
「お前は疲れている。ローマへ帰るんだ」
「私はもう子供じゃない。いつまでも道端で転んで、べそをかいているわけじゃないんだ、パウロ」
「フラを子供扱いしているわけじゃない。これは俺の問題だと言っているんだ」
「パウの問題は、私の問題だ」
フランツはむきになって言い返した。少しだけ拗ねた響きがある。
「イタリアにいた頃、いつだってパウは私と一緒に居てくれたじゃないか。誕生日だって、クリスマスだって、正月だって、私と一緒に祝ったことを覚えているかい?」
「もちろんだ。忘れるわけがないだろう」
「私だって、忘れたことはないよ。新しい年を祝って、毎年花火や爆竹を鳴らしたよね。両親は派手な祝い方に馴染めなかったようだけれど、私はパウと花火を振り回して、あやうくエリザベッタおばさんが大事にしていた鉢植えの花を燃やしてしまうところだった。その時も、二人一緒に叱られた。私たちはどんな時だって一緒だったんだ、パウ」
フランツはミラノでの楽しい想い出を振り返った。必ず隣にはいつもパウロがいた。話しかければ丸い目をきらきらさせて笑い、手を伸ばせばちゃんと握ってくれた。
「だから、一緒に問題を解決するべきなんだ。私を大好きだと思っていてくれるのなら、排除しないでくれ」
私もパウのことが大好きだから――と言いかけたが、気恥かしくて口に出せなかった。二言目にはリーベ、リーベと叫んでいるわけではないので、アモーレが口癖のイタリア人のようにはいかない。
「本当にジャガイモのような男だな」
唐突に、以前訪れたフランスで、口の悪い将校からそう野次られたことを思い出した。
「ええ、フランスワインを飲んでいては、国は守れませんから」
これは少々際どいジョークだった。案の定、そのフランス人将校は顔を険しくしたが、ジョークにはジョークのパンチが返ってきた。
「君たちはパリを占拠して、フランスワインをたらふく飲んだから、戦争に負けたんだ。フランスワインは私たちの秘密兵器だったんだ。ジャガイモを酔わせるにはぴったりだった」
……そんなやりとりがあったのを、何故今頃思い出したのか、フランツは自分に首を傾げながら、もう一度パウロを見た。
パウロは腕を組んだまま、じっとフランツを見つめている。その表情はどことなく和らいでいた。
フランツはほっとした。パウロはわかってくれたのだ――と思ったが。
「駄目だ」
パウロは首を横に振った。
「どうして! 私はパウのことが!……」
「一つ、はっきりさせておくぞ」
パウロはフランツの鼻先に言葉を突きつけた。
「もし、俺が頼んだら、フラは俺とベッドで寝てくれるのか? もちろん、裸で」
「……」
フランツは、すぐには返答できなかった。
パウロは肩をすくめる。
「お前の気持ちは嬉しいが、その気がないなら、余計なことは言わないでくれ」
「……パウ」
フランツは胸元を手でぎゅっと押さえた。だがパウロはさらに突き放した。
「俺の命が危ないのは嘘じゃないが、それがどうだって言うんだ? 聖書で禁じられている男同士のセックスを商売にしているんだ。いつでも、命なんか惜しくない覚悟でやっている。俺を見くびるな」
「……そんな……」
見くびってなんかいないと、フランツは言いたかった。自分はパウのことが心配で、ただ心配で……しかし、それがパウロを怒らせるとは夢にも思っていなかった。
フランツはショックだった。足元がぐらぐらする。自分がいけなかったのだと責める気持ちが、雑草のように心に深く根を張ってゆく。自分が怒らせた。誰よりも優しいパウロを……自分が……
「……フラ」
パウロは肩の力がぬけたようなため息を洩らした。
「泣くな」
「……泣いていない」
「泣いている」
パウロはフランツの頭に腕を回すと、自分の肩へそっと抱き寄せた。
「フラはずるい。泣き虫だった頃とまったく変わっていない。いつもそうやって俺を困らせる……」
「……すまない」
声がかすれていた。パウロの言うとおり泣いているのだと、ようやくフランツは知った。
肩の下で、慌てて目尻を手のひらでぬぐった。まるで子供みたいだと恥ずかしくなった。自分は軍人なのに。厳しい訓練で肉体と精神を鍛えられているのに、パウロの言葉で涙を流すなんて、感情的過ぎる……
「フラ」
パウロはゆっくりとフランツの顔を自分の前に持ちあげた。
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