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chapter3 承諾 ②

「俺は今安心している。どうしてかわかるか?」 「……いいや」  パウロの顔にまたもやドキドキしながら、フランツは頭を振る。 「俺の知っている子供の頃のフラと、本当に変わっていない」  フランツの頭を引き寄せると、自分の額をフランツの額にくっつけた。 「優しくて頑固なフラ」  パウロはフランツにだけ聞こえるように呟く。 「そして泣き虫なフラ……」 「……」  フランツは時が止まったかのように、微動だにしなかった。額が妙に熱い。パウロの肌を感じているからだと思った。よくある恋愛映画では、このまま恋人たちが何も言わずに唇を重ねあう。熱くて激しくて濃厚なキス……  パウロは手を離すと、フランツの頭を撫でるように叩いた。 「フラ、目を覚ませ」  フランツはハッとした。意識がどこかに飛んでいたらしい。慌ててパウロの腕を手放した。いつのまにか掴んでいたらしい。 「あ……その、私は子供の頃からうまく成長していなくて。パウとは大違いなんだ」  なぜか釈明をはじめる。顔は赤面状態だ。 「恥ずかしいだろう? 信じられないよ」 「そんなことはないさ。立派になったな、フラ。俺とは大違いだ」 「そんなことはないよ」  先程頭に浮かんだイメージが、一瞬甦る。  額を合わせていたパウロとフランツ。  やがて、唇が触れ合った…… 「そんなことはないんだ」  妄想を消し去るかのように、強い口調になる。 「私はちっとも立派じゃないんだ」  よりによってパウとキスする姿を想像するなんて、と穴があったら入りたい心境に陥る。 「……すまない」  自分の妄想をパウロが知るはずもないが、何やら申しわけない気持ちになった。 「どうして謝る? フラは何もしていないだろう?」  パウロは首をかしげる。  だがフランツは、直視できなくて顔を背けた。パウロとキスをする姿が、また不意打ちのように甦ってくる。それを大切な幼馴染みに見られたような気がして、落ち着かなくなった。 「大丈夫か? 鼻が痛いのか?」 「……えっ?」  フランツは鼻のあたりを手で押さえているのに気がついた。恥ずかしくて、急いで手を放して裏返した。ありがたいことに鼻血は出ていなかった。 「その……自分はまだ子供だから、どうしていいのかわからなくて」 「何をどうしたいんだ? フラ」  パウロはチョコレート色の瞳に、好奇心の光をきらめかせる。  フランツの顔が、熟した赤ワインのようになる。もう自分の状態も制御が難しくなってきたようだった。 「……その……いや、何でもないんだ」 「俺にできることなら、何でも言ってくれ」 「違うんだ、パウ。私は……」  自分でも何を喋っているのかわからなくなってきた。 「フラ、遠慮するな」  パウロは幼馴染みの肩を気安げに叩く。だがフランツは三度自分がパウロとキスをする姿を思い出して、硬直してしまった。 「……私のことは、どうでもいいんだ」  息も止まりそうだったが、フランツは頭の妄想を軍人らしい自制心で払い落とした。母国の仕官学校では、現実を直視して、冷静に事態を打開するということをシュヴァインシュタイガー教官から教えられた。学んだことを踏まえて、今考えなければならないことに神経を集中する。すなわち、パウロの身の安全だ。 「わかった、パウ」  現実を直視したフランツは、一歩引き下がった。 「私が裸になるよ」  パウロが何か言いかけるのを、両手で制した。 「それが一番の解決方法だ」  普通に言えたと、内心ホッとした。恥ずかしい妄想に感情が乱れたが、どう考えてもパウロを助けるには、自分が相手役になるのが最良だというのがわかった。 「フラ、いい加減にしろ」  パウロは打って変わって、厳しい表情になる。 「俺の撮影にお前は必要ない」 「……そんなことを言って、私を断念させようとしても無駄だよ」  本当はまた軽く落ち込んだが、気合を入れた。 「私は服を脱いで、ベッドに入る。そこでパウと抱き合う。それを撮影して、パウはドン・イタリアへ贈る。これで万事OKだ。もう私は決めた。誰が抗議しても覆らない。パウが私を嫌だと言うのであれば、仕方がないけれどね……」  フランツはパウロの反応を待った。パウロが、そうだお前が嫌だと言ってきたら、自分はライン河に沈んでしまうのではないかと思った。 「……俺に言わせたいのか」  パウロはさらに険しくなった。 「俺のために、そんなことを言うフラが嫌だ」 「……ありがとう。ますますやる気が出たよ」  何気にショックだったが、顔に出ずにすんだ。 「どうしてパウは、それほど私を拒否するんだ?」  自分を巻き込みたくないためだとは感じているが、もしそうではなかったら、真面目にショック死するかもしれないと思った。 「私では、パウの相手役に相応しくないのかい?」  フランツは自分の外見を冷静に判断した。金髪碧眼で頑強な体つきをしている典型的なゲルマン人の姿だが、それがドン・イタリアの好みに合わないのかもしれない。 「そうじゃない」  パウロは少しだけ表情を和らげた。 「フラを拒否しているんじゃない。服を脱いで、ベッドに入るなんて平気で喋るフラを見たくないだけだ。ポルノ俳優でもないのに」 「パウのためなら、ポルノでもストリッパーでもやるよ……大切な幼馴染みのためならね」  フランツはパウロと見つめあった。パウロは唇を引き結んで、難しい顔をしている。だが今度こそ自分を排除しないで欲しいと願った。 「……パウロ」  あまりにも長く沈黙しているので、フランツは耐えられなくなってきた。自分が裸になるのが、そんなに嫌なのだろうか。もちろん、自分だって恥ずかしいし、平常心ではいられない。裸になって、ベッドの上でパウロと抱き合う。腕を絡ませて、体を寄せ合う。想像しただけで眩暈がする……  けれど、と心を強くした。パウロのためなら、どんなことでもするつもりだった。たとえキスであろうとも……  やがて、パウロはどうしようもないというように、ため息をついた。 「パウロ?」 「フラの考えを撤回させるためなら、俺は何でも言える」  パウロはついと目を逸らした。 「だが……そうしたら、フラはまた泣くだろう。そして、俺が困るんだ」 「――すまない。泣かないように努力する」  真面目にフランツは謝った。 「けれど、私はパウに何を言われても、自分の考えを撤回するつもりはない」  頑固に言い切った。フランツは仲間内から「頑固なフランツ」との綽名をもらっているが、本人はその名誉を知らない。 「いいかい? 何度でも言う。私はパウのためなら、何でもする。たとえパウが私を罵っても、私の決意は変わらない。これは絶対だ」  熱いわけでもないのに、息があがって、肩で呼吸をした。  パウロは眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと振り向いた。不機嫌な表情にもかかわらず、フランツは見惚れてしまった。 「……仕方がないな」  降参というように、両手をあげた。 「フラは近所のじいさんより頭が硬い」 「近所って、マルコおじさんのことかい?」 「ドン・ルンギだ。覚えているか? 俺の顔を見るたびに、説教をしてくるんだ。悪魔と契約して、ポルノ映画を撮っていると思っているんだろう」  パウロは思い出したように苦笑いした。  フランツもつられて笑った。ルンギ神父は、イタリアにいた頃、地元の教会で元気に説教していたカトリックの聖職者である。会えばいつも大声で「チャオ! フランチェースコ!」と挨拶された。フランチェスコとは、イタリア語でのフランツの呼び名である。マルコおじさんはその隣に住んでいた退役軍人で、いつも神さまの悪口をぶうぶう言っては、ルンギ神父と喧嘩になっていた。 「――後悔はしないな?」  パウロは試すように訊く。  フランツは大きく頷いた。 「軍人は、与えられた任務を全うするのが仕事だ。必ず、成功させてみせるよ」  胸に手を当てて、高らかに宣誓する。その言葉がどういう意味をもつのか、よくわかっていないようで、パウロは少しだけ頭を傾げた。 「だから、パウ、安心して……」 「あーあ、ようやく終わったか」  待ちくたびれた声が遮った。  フランツは、はたと気がついて、後ろを振り返った。口の悪いイタリア人の存在を、すっかり忘れていた。 「いたのか?」 「いちゃ悪いか?」  ロミオは両手を持ち上げて大きく背伸びをすると、ベッドから立ち上がった。パウロとフランツが話し合っている間、またベッドに腰かけて、黙って聞いていたらしい。 「たく、あんたの決断が鈍いんだよ。それでよく軍人が務まるな? 戦場だったら、あっというまに撃たれて死んでいるぜ? さっさと、ハイって言えよ」  フランツの頬が引き攣るのも無視して、今まで黙っていた鬱憤を晴らすように喋りまくる。 「それじゃ、撮影の準備をするぜ? 俺はカメラを回せばいいんだろう?」 「そうだ。口の機能を停止させて、手だけ動かせ」  ロミオはぺっと舌を出して、部屋を出て行く。 「期待しているぜ!」  フランツに投げつけていった。 「悪いな、フラ。口だけ悪いんだ」 「気にしていないよ。パウが謝ることじゃない」  性格も相当悪いんじゃないかと思ったが、パウロのためにウィンクした。  フランツは目の前にある天蓋付きのベッドを、改めて眺めた。おそらくこの上で撮影は行われるのだろう。清潔な白いシーツと、ふかふかの枕が大切なのだ。自分たちにとっても、鑑賞する側にとっても。戦場のミッションを前にしているような緊張感が、じわじわと生まれてくる。  振り返れば、パウロが腕を組んで自分を見つめていた。 「安心しろ。やる振りをすればいいだけだ。俺の言うとおりに、動いてくれればいい」  フランツの不安を見抜いたかのように、簡単に説明する。 「私は、後悔はしないよ」  フランツもパウロを安心させるために言った。  パウロは組んでいた腕をほどいた。ポストカードでも作れそうな甘い顔立ちが、どこか挑発的な微笑を浮かべて、一言呟いた。 「――俺も後悔はさせない」

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