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chapter4 準備 ①

「そこを右に曲がれば、バスルームだ。シャワーがあるから、自分が納得するまで洗ってこい」  ロミオから白いバスタオルを受け取ると、フランツは言われた通りに曲がった。 「洗い終わったら、裸で戻って来いよ!」  ロミオの笑い声をはね退けるように、ドアを閉めた。個室のような脱衣所を見渡して、身に着けている衣類を一枚ずつ脱いでゆく。上着、ワイシャツ、ズボン。下着類に、ベルト、靴下、靴。全部棚に置いて、隅にあるスタンドミラーの前に立った。  ――パウに見られるんだ。  鏡に映った自分の裸体は、冷静に判断してもそんなに悪くはないと感じた。だが幼馴染みの前に晒すとなると、恥ずかしくて堪らなくなった。  フランツは角度を変えながら、自分の裸を入念にチェックする。パウロに笑われないように、おかしな箇所はないか、前や後ろ、左や右、脇も見て、商品管理者のように厳しく点検した。  ――たとえ良くなくても、いまさら変えようがないけれどね。  そう諦めて、バスルームに入った。中は広く、壁や床のタイルが真っ白である。トイレやビデ、洗面台や洗濯機があって、奥にシャワーブースがあった。きちんと掃除されているようで、綺麗で清潔である。  フランツはまっすぐに奥へ向かい、引き戸を開けて入った。シャワーブースは一人入れば満杯で、戸をきちんと閉めてから、シャワーのノズルを回す。熱い湯が、勢いよく落ちてきた。  フランツは目を瞑って、しばらくシャワーを浴びた。イタリアにいた頃は、突然お湯が出なくなったり、いきなり水になったりしたが、このバスルームは設備がいいのか、それとも運がいいのか、熱い湯が流れ続ける。それを頭のてっぺんから浴びて、髪や肌が存分に濡れる。  ――こんなことになるなんて。  フランツは両手に湯をためて、顔にびしゃっとあてた。頭の中は、これからのことで複雑なモザイクが形成されている。  ――けれど、パウを助けるためなら、私はストリップだってやる。  パウロのチョコレート色の瞳がよぎった。フランツをいたわるような、心配するような翳。巻き込んでしまったのを悔いるかのような苦悩の色。フランツはそれらを全て消し去りたかった。  ――パウは、地中海を照らす太陽のように明るかったのに……  陽気で、お喋りで、女の子に人気で……  幼い頃を思い出した。ある日、フランツは部屋に閉じこもって、べそをかいていた。のろまなドイツ人と学校で同級生のルイージから馬鹿にされたのが悔しくて、ケンカになったのだ。負けはしなかったが、悔しくて悔しくて、学校から帰ってきてすぐに部屋に駆け込んだ。母親のレギーナが心配して「どうしたの?」とドアを叩いたが、フランツは膝を抱えてうずくまっていた。その時、部屋のドアが勢いよく開いた。 「フラ! 泣いちゃだめだ!」  パウロだった。自宅に帰ったその足で、フランツの家へ飛んできたのだ。 「……パウ」  仲良しの友人の姿に、フランツは涙がぼろっと出た。  パウロは遠慮なしに入ってきて、フランツのそばでしゃがみこむと、右手に持っていた真っ赤なハンカチでフランツの目元を優しく拭いた。 「フラに涙なんかあわない。僕はフラの笑顔がいちばん好きだ。僕のために笑ってよ」 「……うん」  フランツはまた涙が出た。 「あいつ、いっつも僕につっかかってくるんだ……この間は、とんまなドイツ人ってからかわれた……なんでだろう?……」 「それはフラをねたんでいるからさ。ルイージの奴なんか、のろまでまぬけで、おまけにブサイクで女の子にもモテないから、フラがにくたらしいんだ。あんなバカ、足でゴールポストにけとばしてやればいいんだ。だからフラ、元気出して」  パウロはハンカチで涙を拭い取ると、フランツの額にキスをした。 「……うん、ありがとう」  今度は違う涙が出そうになったが、慌てて手で拭いて、はにかんだ笑みを見せた。それを見て、パウロもにこりと笑った。  翌日、学校でフランツが目撃したのは、ルイージの目の前で、数人の女の子たちに囲まれ、楽しそうにお喋りしているパウロだった。ルイージが悔しそうに歯軋りして、何か言っている。パウロは鼻であしらうような態度でルイージを馬鹿にし、女の子たちはパウロの親衛隊のように周りにくっついて、ルイージを非難している。ルイージは地団駄を踏んで駆け出した。その背中にべっと舌を出して、パウロはフランツの方を振り返ると「おはようフラ!」と、ウィンクをした……  ――絶対にパウを助けるぞ。硫酸で溶かすこともさせないし、ピラニアの餌にもさせるものか。  シャワーの湯に打たれながら、フランツは拳を握りしめて誓った。  石鹸で簡単に体を洗い流し、シャワーブースを出た。バスタオルで体を拭いていると、ロミオが現れた。 「綺麗に洗ったか? ドイツ人」 「もちろん綺麗に洗ったとも。それと、私の名前はフランツだ」 「OK、シニョーレ・ドイツ人。あそこもきちんと洗ったか?」  ロミオはニヤニヤと笑っている。  フランツも負けじと咳払いをした。 「準備万端だ」  ロミオはバスルームのドアにもたれながら、フランツの全身を隈なく眺めて、口笛を吹いた。 「いい躰しているぜ。日頃から鍛えているんだな。すごく肉体が締まっている。カメラの映り具合も相当いいだろう。あんた、人気出るぜ」 「ありがとう。嬉しいよ」  フランツは言葉とは反対に物騒な声を出して、バスタオルを腰に巻いた。腰下から膝まで隠れる。  ロミオは気にしないで続ける。 「俺は嘘を言わない男なんだ。あんた、腰つきもいい感じだ。太すぎるわけでもなく、細すぎるわけでもない。手で抱きかかえるには、ちょうどいい感じだな」 「君に誉められると、不味いビールを飲んでいるようだ」 「素直に受け取れよ。俺はプロフェッショナルなんだぜ? 野郎の躰を見る目は自信がある。どうだ、ゲイポルノ俳優にならないか?」 「断る」  にべもなく言ったが、パウロ自身を否定した気分になって、胸がちくりと痛んだ。 「私は、国を守りたい」  言い訳のように口にした。 「ヨーロッパじゃ、もう戦争は起きないだろう? あんたらが、平和主義者でいる間はな」 「言っておくが、君たちも第二次世界大戦はシニョーレ・ドイツ人たちと一緒に戦ったということを、きちんとイタリア語で理解するべきだな」  フランツは苦虫を噛み潰した顔で言い返した。 「そんなに毛を逆立てるなよ」  ロミオはすました顔で受け流すと、もたれていた背中を離した。 「それより、もっと重大なことがある」  ロミオはバスルームに入ると、フランツの手前に立って、ちょっとだけ頭を傾げる。 「あんた、セックスの経験は?」  いきなり、訊いた。 「……君が心配しなくても大丈夫だ」  フランツは腕を組み、仁王立ちになる。 「女と何回ヤッたんだ?」 「君よりは少ないんじゃないのか?」 「男とは?」  ロミオの声は面白げだ。  フランツは不愉快そうにしかめっ面をする。 「あるわけないだろう。君とは違うんだ」 「パウロとも違うってわけだな」  フランツは腕を振りほどくと、ロミオの胸座を強く掴んだ。 「君は私を怒らせて、何を得るつもりだ?」  感情を押し殺した声が、フランツの口から洩れる。 「私を怒らせようとしても無駄だ」 「あんたが勝手に怒っているだけだ」  ロミオは怯まない。 「俺が言いたいのは、ちゃんとやってくれってことさ。パウロの命がかかっているんだぜ? わかるだろう?」  フランツは胸座を掴んでいる若者を、少しの間見つめた。ようやく、ロミオが自分へ突っかかってくる理由がわかった。 「……君は、パウロが好きなのか」 「そうさ。あんた、鈍いぜ」  ロミオは掴まれた胸座の向こうで、馬鹿にしたように笑った。  フランツは手を放した。 「でも、俺はあんたに嫉妬しているわけじゃない」  ロミオは胸元を整える。 「俺もパウロも、プロのゲイポルノ俳優さ。だから、パウロがあんたとベッドで寝ようが、俺は構わない。けれど、今回はまじで命がかかっているんだ。あんたが、きちんとやれるか心配なんだ。俺にとっては、あんたよりもパウロが大切だから」  悪びれもせず言ってのける。 「本当は俺が出られれば、こんな面倒な話にならなかった。けれど、あのスケベじいさん、俺じゃ駄目だって言うんだぜ? パウロの相手が俺だと、いい気分にならないんだとさ」  ロミオは不満そうに肩をすくめた。苛立っているのだと、フランツは気がついた。 「私は全力を尽くすつもりだ」 「そうしてくれよ。あのスケベじいさんにフルコースを提供しなきゃならないんだ。なんせ、七十の誕生日プレゼントだし」  フランツは、いくぶん緊張した。己のバースディプレゼントに、ゲイポルノ映画を要求したというマフィアのボスが気になった。

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