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chapter5 撮影開始 ①

 フランツはバスルームから出たその足で部屋へ戻った。腰にバスタオルを巻いているだけの姿である。撮影前に、シャワーを浴びた。念のためだ。バスルームではロミオに色々とけしかけられて、落ち着かない気分を整理できないまま部屋のドアを開け、そこで足をとめた。  部屋の窓はカーテンで閉め切られ、少々薄暗くなった室内を照らすのは、スタジオなどで使われる照明機材だ。それがベッドのそばに設置され、眩しい光を出している。清潔そうな白いシーツが人口の光に照らされて奇妙に浮きあがっている。カメラはベッドの前後に置いたままの状態で、パウロは後ろのカメラをいじっていた。 「フラ?」  気配に気づいたのか、パウロが頭をあげて振り返った。パウ、と言いかけたフランツの口がその形で固まる。パウロは着ていた白いワイシャツのボタンを全部外していて、胸が露になっていた。下着はつけておらず、剥き出しになった裸の胸に、フランツは思わず顔を背けてしまった。 「どうした?」  パウロが近寄ってくる。 「具合が悪いのか?」 「……い、いや。違う……」  フランツは鼻を両手で押さえ俯く。 「鼻血でも出たのか?」 「……出てないよ」  何をやっているんだと、フランツは自分が恥ずかしくなった。パウロが胸を見せているだけで、こんなに心臓がひっくり返るなんて。 「すまない。大丈夫だ」  ゴクンと息を呑み込んで、体勢を立て直した。  すぐそばで、パウロが心配そうに見守っている。 「大丈夫か? 顔がトマトのように赤いぞ」 「さっき、そのトマトを食べ過ぎたから」  下手糞なジョークを言って、フランツは無理に笑顔を浮かべた。だが目の前にいるパウロの胸に目がいってしまい、カアッと熱くなった。 「具合が悪いなら、中止にしよう」 「……大丈夫だ。気にしないでくれ」  そうだ、気にするなとフランツは自分自身を叱った。男の裸の胸なんて、職場で見慣れているじゃないか。でもパウの胸はまるで磨かれた宝石のように綺麗だ……。駄目だ。考えるな。フランツは深呼吸をして、意識をしっかりさせた。 「少し緊張しているんだ。初めてだから」 「……そうだな。学校でも教えないことだからな」  パウロはフランツの様子を注意深く観察しているようだった。フランツはパウロの視線を感じて、また心臓がカーニバルのように踊り始めた。ついでに自分も裸体だったのを思い出す。 「おかしいかい?」  パウロが見ているのは自分の肉体だと思った。 「私の体では、役不足なのかな?」 「そんなことはない。立派な体をしている。さすがだ、フラ」  パウロは苦笑した。フランツが何を言いたいのか感じ取ったようだ。 「さっき、バスルームでお喋りな彼の体を見せてもらったから、ちょっと心配していたんだ。彼ほど立派な肉体じゃないから」 「ロミオが? フラの前で脱いだのか?」 「ああ、びっくりしたけれど」  びっくりしたけれど、心臓は平常運転だった。フランツは心の中で首をひねった。 「パウは優しいって言っていたよ」  ――そうさ。あんた、鈍いぜ。  ロミオの告白が頭の中で鳴り響く。 「私の肉体は、彼のようにしなやかではないから。鑑賞に堪えうるものかどうか、心配なんだ」  ――パウロが優しく教えてくれた。 「……君に迷惑かけるんじゃないかって……」  ――パウロは、本当に凄いぜ? 「だから……」  フランツは続く言葉を呑み込んだ。パウロが自分の頬に手を添えていた。 「フラ、余計なことを考えているだろう? ロミオが余計なことを言ったんだな? フラはそのままでいいんだ」 「……しかし私は、パウや彼のようにプロではない。だから足を引っ張るのではないかと……」 「そうだ、フラはそれが仕事じゃない。だから裸にならなくてもいいんだ。それなのに、脱いでくれた。それだけで十分だ」  パウロの口調は柔らかかったが、フランツの迷いを断ち切るような強さがあった。 「フラはそのままでいい。さあ、俺の言葉に頷くんだ」 「……ああ」  フランツは導かれるように頷いた。なぜかパウロの言葉を聞いて安心した。  パウロはフランツの頬を優しく叩くと、身を翻した。 「フラ、こっちへ来い」  手招きされて近寄ると、パウロがカメラや照明道具を指して、ちょっとした説明をした。 「この照明とカメラは撮影に使うものだ。カメラは二台あるが、ベッドの前方にある方だけを使うことにした。これ一台で、色々な角度から撮れるはずだ」  フランツは照明道具とカメラを交互に見た。照明の光は間近で見ると、さらに眩しく感じられる。この光に照らされたべッドの上で、自分はバスタオルも取って裸になるのだ。そう思うと、フランツは急に自分が見世物になったような気分になった。  ――パウは平気なんだ。  すぐ目の前にあるパウロの背中が、妙に遠く感じられた。 「……パウ」 「何だ?」  パウロはベッドを整えていた手をとめて、振り返る。 「ちょっと……聞いていいかな?」 「ああ、たっぷりと聞いてくれ」  フランツは少し躊躇ったが、慎重に言葉を選んだ。 「どうして、こういう仕事をやろうと思ったんだい?」  パウロを傷つけないようにと気を配ったが、返事はあっさりときた。 「裸になるのが好きだからさ。見せるのも好きだ。嫌いじゃない」 「……」  フランツはどう相槌を打ったらよいのか悩んでしまった。久しぶりに再会した幼馴染みはやはりイタリア人だったんだと、今更ながら感じてしまった。 「それに、気持ちもいい」  パウロは意味ありげに口元をゆるめる。 「そのうち、フラもわかる」 「……え?」  思わず聞き返した。だがパウロはフランツの脇から背後を覗いて叫んだ。 「遅いぞ!」  フランツも肩越しに振り返ると、ロミオが入ってきた。バスルームで脱いだ服を着ている。 「何をしていたんだ?」 「バスルームでヴィーナスに祈っていたのさ。この頭がキャベツのように硬いドイツ人が、パウロの裸を見ても鼻血を出しませんようにってね」  ロミオは挑発するようにフランツへウィンクをする。フランツは自制心を最大限に引き出した。  ――彼の言葉に踊らされるな。  訓練を思い起こし、感情を抑制して、曖昧な表情を浮かべる。それを見て、ロミオはわざとらしく口笛を吹いた。 「パウロじゃなきゃ、あんたを泣かせられないんだな。つまんねえぜ」  フランツの作った表情にパキッとひびが入りそうになったが、ありったけの理性をかき集めて、何とか持ちこたえた。 「くだらないことを喋っているな。お前の仕事もあるんだぞ」 「わかっているって。カメラを調整するから、ちょっと時間をくれ」  ロミオは枕元の脇にあるカメラのファインダーを覗いて、何やら操作をする。その手馴れた様子を見て、フランツの中で新たな緊張が生まれた。

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