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第2話
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子」
天井の中心できらめくミラーボールが回る。カラオケルームで茶倉がマイクを握り歌っているのは般若心経だ。
正直に告白すると、今の今までカラオケのラインナップに般若心経が入っていることを知らなかった。世界は広い。モニターには山だの海だの環境映像っぽい、誰得な画が流れている。
「色不異空 空不異色 色即是空!」
殆ど絶叫する調子で繰り返す茶倉。額に浮かぶ大粒の汗。片足を出して踏み構え、こぶしが利いたサビを熱唱する拝み屋の孫を、軽快にマラカス振って応援する。
「イエーイどんどんぱふぱふー」
ソファーを温めているのは俺一人、歌っているのは茶倉一人。なんだこれ、新手の地獄絵図?カラオケガチンコバトルか?
「ふー……」
一曲歌い終えた茶倉がマイクを置いて堂々凱旋を果たす。うっすら汗ばんだ顔にはやり遂げた達成感が漂っていた。
満足げな様子でソファーに身を投げ出し、氷が溶けたメロンソーダをストローで吸い上げる茶倉を盗み見、おそるおそる尋ねる。
「なんで般若心経?」
「これしか知らん。お前こそ何やその寒い合いの手、マラカスしゃかしゃかアホちゃうん?」
「タンバリンのが良かった?じゃあ交換する」
「ええわ」
茶倉を変なおっさんからかっさらったのち、俺たちは駅前のカラオケ店にINした。
カラオケ初体験らしく最初こそ戸惑っていた茶倉だが、選曲表を見るうちに生き生きしだし、「俺の十八番や」と迷わず般若心経をリクエストした。
夏休みを控えた金曜日の夕方ときて他の部屋も満室、壁を隔ててかすかに騒音が漏れ聞こえる。心配性が過ぎるだろうが、同じ学校のヤツがいない事を祈る。もし詮索されたらどう申し開きすりゃいいか全くわからない状況だ。
隣に掛けた茶倉を上目遣いに窺って質問する。
「ひょっとして……2組のヤツのカラオケの誘い断ったのって、他に歌知らねえから?」
ズコッ、ストローが詰まる。どうやら図星を突いちまったようだ。茶倉がむくれ顔でメロンソーダを泡立てる。子供っぽいふてくされ方を目の当たりにし、ミステリアスな茶倉のイメージが崩壊していく。
「あははははははははっははっはははっ!」
「笑うなやブチ殺すぞ」
「ごめ、ひー、ごめん、だってさーギャップがえぐいもんよ!般若心経が十八番とかさすが拝み屋の孫!てっきりすげー音痴じゃないかってヒヤヒヤしてたのに余裕で予想の斜め上行くんだもんな、笑わずにいられっかよあはははは!」
腹を抱えて笑い転げる俺に茶倉は苦い顔だ。笑いすぎて涙まで出てきた。てか、コイツ全然面白いヤツじゃん。
2組の連中は敬遠しているが、実際の所茶倉は般若心経しか歌えないのに気後れし、同級生の誘いを断っただけなのだ。付き合ってみりゃ割と面白いのに、愉快な本性を知らないのはもったいねえ。
笑いの発作がおさまるのを待ち、ウーロン茶で喉を潤して話題を変える。
「さっきのおっさん何?お前のばあちゃんのお客さん?」
「そんな感じ」
「金持ちぽかったな」
「せやな」
他人事のようにあしらってストローの先端を噛む。達観した横顔は本心を読み取らせない。
続きを促すように凝視されバツが悪くなったか、渋々付け足す。
「うちにはババア贔屓の客がようけ訪ねてくる。その節穴の筆頭」
「ばあちゃん、すごい拝み屋なんだって?」
「クラスの連中に聞いたんか。お喋りやな」
「勝手に嗅ぎ回ったのは謝る。名前も言わず行っちまうから……隣のクラスにいたんだな。俺の名前は」
「1年1組出席番号6番烏丸理一やろ。もー聞いた」
「さすが学年十位キープの記憶力」
「けったいな名前。親は京都出身?」
「どうしてわかるん」
「烏丸ゆーたら烏丸通りやん」
「親父が京都の出であっちにじいちゃんが」
「わかりやす」
「小3まで|鳥丸《とりまる》って書いてたわ。で、あだ名が定着」
「焼き鳥屋かい」
「お前は関西出身?小5で越してきたって聞いたけど、にしちゃあ訛りがぬけてないな」
「ほっとけ」
茶倉が気分を害す。今のは俺が無神経だった、反省。なんとなく気まずくなり、右手首の数珠をもてあそぶ。
「あのさ……なんでコレくれたんだ?」
「あそこは俺の心の洗濯場なんや。授業中にサボって煙草喫うんが憩いなのに、個室であんあんされちゃ気が散ってもうてかなわん。数珠一本で黙らせられるなら安いもんや」
期待してた答えとはちょっと違ったが大いに納得。耳まで火照らせて俯き、さらに踏み込む。
「俺に憑いてるの見えたのか。その、霊視って意味だけど」
「まあな」
「どんなヤツ?」
茶倉にもらった数珠を巻いてから黒い影に付き纏われることはなくなったが、気になるものは気になる。効力が薄まればまた来ないとも限らない。少しでも情報が欲しくて食い下がれば、茶倉がもったいぶって足を組み替える。
「新宿町二丁目のバリタチゲイで激しいプレイがお好みのドS」
「聞きたくなかった!」
ウーロン茶を吹き出して突っ伏す。
いや、ゲイだろうと覚悟はしていたのだが……実際犯されてる時にイメージが流れ込んできたし、悪霊が男なのは想像していたにしろ、二丁目のバリタチゲイってパワーワードすぎない?盛大にむせる俺をよそに、茶倉がしれっと爆弾を投下する。
「おおかた新宿に行った帰りに拾ってきたんやろ」
「確かに……友達と映画見た日からだ。そっかーバリタチかー。いやでもなんで俺だよノンケなのに、他にも霊感強えヤツいたじゃん!」
「自称霊感持ちちゃうのソイツ。なんちゃって霊媒体質は霊かて見抜くで」
「そこまでは知らんけど」
「霊かて好みがある。生前の嗜好や性癖には引きずられるさかい、それを業っちゅうんや。お前に憑いとったんは甘ちゃん未成年をガツガツ犯すのが大好きなヤリチンやったんや」
「俺の顔と体がたまたまタイプだったってこと?全くもって嬉しくねえ、せめて痴女の霊ならよかった」
「自分が可愛いならその数珠は当分はずさんこっちゃ」
「これしてるとどうなるの」
「たとえるなら静電気のかたまり。ビリッとくるんでさわられへん」
わかりやすいようなわかりにくいような……眉間に川の字を刻み、次の質問に移る。
「聞いてもいいか、茶倉」
「何や」
「なんでカラスの死骸持ってたの。マジで黒魔術の儀式してんの」
正直これが一番聞きたかった。自分の貞操に関しちゃ最大の危機は脱したし。茶倉の目がスッと据わり、表情が刃物みたいに冷たく冴える。
「知らん方がええで。好奇心はカラスも殺す」
そうだ、ここで引けと頭の片隅の理性が囁く。茶倉に関わるのはよせ、面倒ごとに巻き込まれるぞともうひとりの俺が止める。
なのに引き返さなかったのは、俺自身コイツに興味を抱き始めていたから。強烈に惹き付けられた、と言い換えてもいい。
旧校舎裏の対峙以来、ずっと考え続けていた。
あの時茶倉が発した一言は何かと唇の動きをあてはめ、先ほどある可能性に行き着いたのだ。
「『堪忍な』って言ったよな?」
茶倉はカラスの首をねじきる時、「堪忍な」と詫びたのだ。そんなヤツが好き好んで動物を虐待するはずない。
「何か事情があって集めてるんだろ。教えてくれよ」
勢い余って身を乗り出す。ミラーボールが緩慢に回り、魚鱗のような銀の光が床や体を斑に染めていく。
「俺の推理だけど、多分お前、カラスを安楽死させてやってたんだよな」
首が折れてもまだ息のあるカラス。放置は苦しみを長引かせるだけ。だから茶倉は自らの手を汚し、葬ったのでは?
他の誰もやりたがらない汚れ仕事を率先して、それで気味悪がられてるなんて理不尽だ。できることなら誤解をといてやりたい。
熱っぽい説得を鼻で一蹴し、だらけきった姿勢でソファーに居直る茶倉。
「なんで構うん」
「借りを返したい」
心からの本音を訴えた所、茶倉は一瞬目を見張ってクツクツ笑いだす。やがて笑い声は高まり、カラオケルームの天井一杯に広がっていく。
十秒後、自暴自棄な笑いをスッと引っ込めた茶倉が前髪をかきあげて振り向く。目には侮蔑の色。
「ホンっマめんどい……先客なんぞシカトして行けばよかったわ」
「数珠のレンタル料代わりにお前がやってること手伝いたいんだ。駄目?」
「パシリにされたいん?ドMやん」
「じゃない。えーと、友達っぽいのに」
後から思い出してもこっぱずかしい。
でもあの時は本気だった。カラオケ一発目に般若心経を熱唱するような変わり者がダチにいたら、俺の平凡な毎日もちょっとだけ楽しくなって、刺激が生まれる予感がしたのだ。
茶倉の目の色が侮蔑から呆れに取って代わり、長いため息が突いて出る。
「俺が調べてるんはうちの高校が『鳥葬学園』て呼ばれるようになったからくりや」
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