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第15話
「弾き出されてもた」
思わず舌打ち。
板尾も理一も本当に救いがたいアホだ、心の中で口を極めて罵倒する。
人間にはオーラがある。
オーラの色や波動は一人一人違い、性格や感情に影響される。茶倉には物心付いた頃からそれが見えた。両親の事故死後祖母に引き取られ修行を積んでからは、より鮮明に可視化されている。
原則茶倉は人に無関心だ。極力他人に興味を持たないように生きて来たが故にクラスメイトの顔と名前も一致しないが、周囲と深く関わらないようにするのは処世術の一環、幼い頃から今日に至るまで茶倉の身を守ってきた経験則なのだ。
深入りしてはいけない。
下手に踏み込めば見えてしまいかねない。
茶倉の目には人間の本質が映る。故に人が多い場所は苦手だ。病院、繁華街、そして学校……大勢の人間が去来する場所には様々な感情が吹き溜まる、その坩堝が霊的な磁場を生む。
生きてるにしろ死んでるにしろ、地獄は人間が作り出すものなのだ。
五歳の頃、母と手を繋いで買い物に行った近所のスーパーで黒い靄に包まれた女を見かけた。
数日後、新聞の一面でその女と再会をはたす。女は認知症の姑を死なせた容疑で逮捕されていた。動機は介護ノイローゼ。世間は女に同情し、心神喪失による減刑を望む署名が集まった。
茶倉だけが彼女に情状酌量の余地がないと知っていた。女は故意に姑を殺したのだ。
何度も何度も同じ経験をした、何度も何度も見たくないものを見せ付けられた。悪心を持った人の氣はどす黒く濁る、澱んで蟠り魂を毒す。顔の造作よりむしろオーラの色調で人を見分ける茶倉にとって、学校は居心地よい場所になりえなかった。狭い教室に詰め込まれ退屈な授業を受けていると、グチャグチャに混ぜ合わされ、ドドメ色に濁った絵具のようなオーラが沈殿するのだ。
首までドブに埋まってるような閉塞感に絶えず苛まれ続けるのが茶倉練の学校生活だった。
ところが例外が現れた。茶倉の日常に飛び入りしてきた霊姦体質のトラブルメイカー。理一の氣は凪いだ青でとても安定し、内なる善良さが滲み出ていた。あるいは共感覚。視覚でとらえたオーラの色や形は聴覚や触覚、嗅覚や味覚とも連結する。
理一を見るたび湧くイメージ。幼稚園の頃持ってたくたくたの犬のぬいぐるみ。どこへ行くにも連れ歩き、しまいにはボロボロになった。声は優しく快活なオレンジ。眠りを誘うひだまりの匂い。駄菓子屋で売ってるアイスクリームの木べらの味。
烏丸理一は茶倉練の安心できるもの全部でできている。
その理一が何かに弾き出された。おそらく板尾のとばっちり、コックリさんの最中に十円玉から手を離すのはタブー中のタブーである。
魚住リカを下ろす自信はあった。茶倉は己の霊力に絶対の自負を持っている。
霊を呼ぶなら死んでからなるべく早い方がいい、葬式を出して間もないなら確実にイケる。
誤算だった。目論見の甘さを痛感する。カラスの大群を塞き止めた窓ガラスがピシピシ軋んで鳴り、真っ暗闇の圧が強まる。
さてどうするか。十円玉に指を擬したまま、窓の外の生首に向かってニッと唇を引く。
「首から上は美人やな。目ェが真っ黒けで怖いけど」
ピシ、ピシ。硬質な音が鳴り渡る。窓の外の巨大な顔が既視感を刺激する。知らない女なのにどこかで見た気がしてならない。
皮肉っぽい世辞を受けた生首の唇が吊り上がり、真っ黒な歯並びがさらされた。
|鉄漿《おはぐろ》を施している。
ああ、そうか。茶倉は理解した。女の顔をどこで見たか思い出した、日本史の教科書だ。そこに掲載されていた能面の一種、|僧女《ぞうおんな》にそっくりなのだ。
「増女は『三輪』の女神、『羽衣』や『吉野天人』の天女を演じる時に用いる。頭に冠を戴くんで|天冠下《てんがんした》とも言われとる、端正で気品ある別嬪さんや。その心は―」
人に非ず。
「天女。精霊。または神さんの眷属」
聡明に秀でた額。凛々しげな切れ長の眼。透明感のある肌色。
玲瓏と冴えた美貌は、年齢性別問わず誰しも虜にする|御仏《みほとけ》の写し。
「せやけどアンタ、ちょっと禍々しいな。神は神でも祟り神ちゃうの?」
ぞぞぞぞと蠢き這い回る黒髪。窓ガラスを破り、入ってこようとしている。
懸命に隙間をさがす生首と向き合い、凄む。
「|去《い》ね」
堂々と踏み構え、威圧を乗せた殺気を飛ばす。風で捲れた前髪の奥、剣呑な眼光があたりを払い金に輝く。
「烏丸の|魂《タマ》を返せ」
かぱあと増女が口を開ける。鉄漿を塗った歯並びの奥に|腔《あな》が覗く。肉の赤色ではない、闇の黒だけがはてしなく続いてる。咽喉をよじのぼり這い出てた髪がのたうち、|千々《ちぢ》に分かれて窓を叩く。
ピシッ、ピシッ。鞭打ち。破裂音。
片手は塞がってる。だからどうした?茶倉は左利き、咄嗟に出るのは左手だ。だから理一を罵った板尾を左で殴った。
体の脇で左手をグーパー開閉、強く握りこむ。
イケる。
ピシピシ、軋み音が膨らむ。もう少し圧力を加えれば窓ガラスが弾け飛ぶ。
抜き打ちで手を翳す。
茶倉は除霊の仕方はちゃんぽんだ。密教仏教神道その他、効き目があるなら何であれ手あたり次第に取り込む。基本さえ押さえれば後は応用でなんとかなる、大事なのは柔軟な発想力と火事場のクソ度胸。
深呼吸で咽喉の調子を整え、続ける。
『悲しやな羽衣なくてハ飛行乃、道も絶え。天上に帰らん事も、叶ふなじ。さりとてハ返し、賜び給へ』
真ん中で分けて流したぬばたまの髪は、平安時代から室町時代にかけての女の特徴。
まなじりが裂け血涙が迸るほど慄く顔を、冷厳に研ぎ澄まされた双眸で射竦める。
『もとよりこ乃身ハ、心なき。天乃羽衣、とり隠し。叶ふまじとて立ち退けば』
窓が軋む。撓む。鳴る。何百羽ものカラスが織り成す黒髪が縺れ絡まり蠢く。
円く巨大な黒目が茶倉の似姿を取り込み、伸び止まない黒髪がガラスを搔きむしりとぐろを巻き、漆黒の渦潮が空間を歪ませる。
詠唱に従い浄化された空気が止水の如く澄み、殷々と声の波紋が広がるに従い、生首の顔が苦悶に歪む。
『今ハさながら天人も。羽なき鳥乃如くにて。上らんとすれば衣なし―』
『阿ぁあっあ゛ぁ阿あぁあ゛あぁッ!』
一際強く窓が撓む。般若の形相と化した女が妄執に狂い、頭突きをかましてきたのだ。
茶倉の歌に首と髪を激しく打ち振り、鉄漿で染めた歯をガチガチ鳴らして悔しがる。プツプツと裂けたまなじりから血の涙が滴り、なだらかな頬を伝っていく。
『私の黒無垢……ァれがなィとのぼれなィイ』
「モドキのばけもんでも血は赤いんかい」
左手首に巻いた数珠が幽かに輝き、光を増して教室中を満たしていく。
『疑ひハ人間にあり。天に偽りなきものを』
静かに断言する。
羽衣問答を打ち切ると同時に声なき絶叫が窓を伝い、女が強烈な光に呑まれていく。
「逃げんな」
視界が一気に明るくなった。窓の外には晴れた青空とグランドが広がっている。
「見ろよアレ」
「うわグロっ、みんな死んでんの?誰か先生呼んでこいよ」
校庭のざわめきに目をやれば、グラウンドを駆け回ってた運動部の連中が立ち止まり、カラスの死骸を指して騒いでいた。
精魂込めた花壇を台無しにされた園芸部にほんの少し同情する。窓際にたたずむ茶倉の右手人さし指は、ノート上の十円玉からミリも動いてない。
今しがた彼が口ずさんだのは室町時代に成立した能の有名な演目、『羽衣』。漁師が松の木にかけられた羽衣を盗み、それを質にして天女に舞を乞うはなしだ。
「教養いうてババアに仕込まれたんが役に立ったわ」
祖母に感謝するのは腹立たしいが、助かったのは事実だ。カラスを眷属に従えた怪異なら、羽衣を剥いで地上に堕とすのが調伏の近道と踏んだのだ。
「!ッえほっ、ごほっ」
咄嗟に口を覆い咳き込む。離した手のひらに少量の血が付着した。瘴気を吸い込んだ咽喉の粘膜が切れたらしい。
霊圧で競り勝ったものの、怪異との対峙が茶倉に強いるプレッシャーは甚大だ。事後に泰然と振る舞っていても着実に気力体力が削がれていく。
敵は一時的に退場しただけ、またすぐ攻めてくる。板尾と合流?否、戦力外だ。とはいえ理一には起きてもらわねば困る、足手まといは増やしたくない。
喉の奥にこごる怠い灼熱感に噎せ、理一を蹴ろうとする。
「ええ加減起きんかい。くたばっとるんちゃうやろな」
もうすこしで上履きが届く寸前に凍り付く。晴れた青空に輝く真夏の太陽、窓から注ぐ陽射しが床に影を投じる……
|は《・》|め《・》|ら《・》|れ《・》|た《・》。
影から大量のカラスが湧きだし、茶倉に躍りかかった。
「くそだらっ、案外オツムが回るやんけ!」
正攻法では入れない。ならば別の侵入経路を開けば良い。鳥葬学園に巣食うものは影を渡り歩く、板尾は魚住の影からカラスが分裂したと言ってなかったか?
怪異の狡猾さを呪って憎々しげに嘲笑い、影のカラスを叩き落とす。とはいえ片手しか使えないのでは限度がある。茶倉の影から実体化したカラスは彼に群がり、全身を突付きまくる。
体中に鋭い痛みが走り顔をしかめる、うるさい羽ばたきに包囲され肉を噛まれる、意地でも十円玉を離さず右手と両足で抵抗するもカラスは執拗に付き纏い皮膚を切り裂く。ブチリ、金ボタンが弾け飛ぶ。ブチブチ、繊維の断ち切れる音。
「!ッあ、」
がくんと膝が沈む。何だ?足元の影が茶倉を飲み込もうとしてる。上履きの裏に粘り気を感じて狼狽、無我夢中で蹴り付ける。
「トリモチか!」
上履きが片方脱げてすっ飛んでいく。直後に転倒した茶倉を節くれた手が掴んで押さえ込む。肩、腕、脚。三人いる。バサバサとまわりでカラスが飛び交い、ボタンが外れた学ランの前があられもなくはだけ、白い素肌が露出する。
「ッ、ぐ、離れろ」
万力じみた握力で手首を締め上げられた。脳裏で警報が鳴り響く。茶倉は決して15歳男子の平均と比べ体格に恵まれてるとはいえない、むしろ小柄で華奢な部類だ。四肢を固定されてしまえばもはや成す術なく暴虐に耐えるしかない。
「ぁがっ」
手を辿った先に模糊とした影が像を結ぶ。黒い靄の集まりが人の形を成している。生きてる人間じゃないと直感、凄まじい生理的嫌悪を催す。土臭く粗野な手が体の表裏をねちっこく這い回る、太腿を回り込んで膝裏をまさぐる。
『ほんに上臈よ』
『玉のように白い肌じゃ』
「ふッ、ぐ」
冷えた吐息が耳裏をくすぐり、窄めた舌先で耳の孔をねぶりだす。悪寒と紙一重の背徳的な快感がぞくぞく駆け抜け、十円玉に震えが伝わる。
「調子のんなや、ッは、ブチのめすぞ」
くしゃりと皺が寄り、唾液と汗が混ざり合ってノートをふやかす。
冷たくおぞましい死霊の舌。なのに勝手に昂ってくる。顔の判然としない男たちが茶倉を囲んで辱める、体の反応を嘲笑い愛撫を加えだす。
『おお、おお、腰が上擦りだしたぞ』
『馬の仔のまねか』
『はよゥ下穿きを剥げ』
「ッ、は、ぁふ」
気持ち悪い。気持ちいい。板尾と理一が脱落した今茶倉が最後の砦だ、絶対に十円玉を離すわけにはいかない。戦慄く膝を気力だけで辛うじて支え、机に突っ伏す。熱く湿った吐息を噛み殺し、淫蕩に上気した顔を俯け、もたげ始めた前をごまかす。無骨な手で胸を捏ね回された。
「さわんな、ンぐ」
先端を摘みとられ喉が仰け反る。右手で机にしがみ付き、ギリギリ持ちこたえる。唾液の糸で繋がった口で牽制すれど下郎は引かず、後ろの窄まりや前の膨らみをいじくり倒す。
「ふッ、うっ」
ガタンガタン、抱え込んだ机が激しく鳴る。飲み干しきれない唾液があふれノートに染み、手汗が十円玉を蒸らす。死霊たちが笑いさざめき、学ランを淫らにはだけた少年を鬼畜にもてあそぶ。
『お前は未来永劫我々の慰み者じゃ』
『神の嫁になどくれてやるのは惜しい』
『口を開け。股を開け。奉仕しろ』
膝を立てられた。こじ開けられる。悪意のかたまりが身と心を犯す。
「ぁッ、あッ、ぁ」
目線の先に理一が寝ている。右手の数珠が赤く灼熱し、片方の瞼が微痙攣を起こす。
こないザマ見られたない。
茶倉は必死に考える。窓に張り付いてた女とコイツらは別人?両者の関係は?どっちも鳥葬学園に取り憑いてるのか?コイツらは誰と間違えて……
「俺、は、男やで。肥溜めに入れたいんか?」
体を揉みしだく手が一瞬止まる。困惑の気配。今だ。悩ましい火照りを持て余し、掠れた息を荒げて尋ねる。
「コックリさん、コックリさん、お前は誰や」
十円玉が再び滑りだす。
『う』『い』
それが黒幕の真名だった。
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