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第17話
「朝になるまで来てはいけませんよ、お前様」
鳥葬の丘にまた夜が訪れる。
週に何度か二人は閨を別にする。青年が理由を問うても決して答えず、ただ悲しげに首を振るだけ。
「どうして出てはいけない、訳を言え」
「言えませぬ」
「俺に見られて困るようなことがあるのか」
「話せませぬ。どうかお許しを」
娘は頑是なく首を振り続け、しまいには泣き崩れる始末。そうなると手に負えず、青年も引き下がるしかない。
一体何をしてるのだ?
夫婦の誓いを立てた俺にも言えぬことなのか?
隣部屋に床を延べ寝ている最中、障子越しに軋み音が響き渡る。時には押し殺した嗚咽と悲鳴がまざり、大勢が群がる人いきれが立ち込める。
ありえない。
胸の内で断じ、耳をそばだて息を呑む。
こんな夜更けに誰が来る?里の者?簾を巻き上げ敷居を跨げば勘付くはず、何故気配が立たないのだ?
そもそもが夜闇に乗じ、人目を忍んで来る意味がない。村八分にされた咎人の骸が朽ちるがまま野ざらしにされた鳥葬の丘は、里の人間に忌避されている。
後ろ暗い目的があるなら別だが……なんだそれは?
青年の心を疑念と嫉妬が蝕み、忌まわしい妄想が脳裏に結ぶ。
もし、娘の蕾を散らしたのが俺じゃなかったら。
アレが里の男たちと姦通していたら……。
ありえない。本当にそういいきれるか。あれ程の美貌を男が放っておくわけない、邪な企てをする連中が必ずいるはず。
もし娘が凌辱されているのなら。
里の男たちの慰み者にされているのなら。
障子の向こうで娘が喘ぐ。仰け反る影絵が欲情をかきたてる。
『来てはなりませぬ』
まさかと否定する理性とは裏腹に、是が非でも自分の目で見極めたい衝動に駆り立てられる。もし娘が里の男たちに穢されているのなら、守ってやるのが夫の務めではないか。まして彼女は妊婦、子が流れたらどうするのだ。
里の男衆に輪姦される娘の痴態を妄想し、狂おしい情念が青年を苛む。
『けっして見てはなりませぬ』
悶々と悩む間も障子一枚隔てた土間で娘が喘ぐ。身の程知らずな間男へのどす黒い憎悪と殺意が沸き立ち、握りこんだ手が震え出す。股間は激しく猛り、倒錯した欲情に火照っている。
若い女の独り身故、力ずくで夜這われたらひとたまりもない。されど今は事情が異なる、何せこの俺がいるのだから。報復の心配が無用な位完膚なきまで叩きのめす、今すぐそばに行って安心させてやる。
否、詭弁だ。本当に確かめたいのは別の事だ。もし自ら進んで他の男を受け入れていたのなら……俺を裏切っていたのなら……
遂に青年は決断を下す。
数日後……戒めに背いて布団を抜け出し、人さし指で障子紙の一点を破り、穴に片目をあてる。
穴の向こうに浮かび上がる鄙びた土間の光景。
囲炉裏端に凛と座す娘は漆黒の小袖と緋色の袴を羽織り、青白く冴えた横顔で虚空を見据えている。
瞬き。最初は幻を疑った。次いで己の正気を怪しんだ。娘の周囲に茫、と立ち現れた黒い影。一体、二体、三体……否、もっと。十数体はいる。影から漂い出す瘴気に気圧され、僅かに腰を引く。娘を囲んだ影たちはゆぅらりゆらり揺れている。
覗き穴の向こうでおぞましい行為が始まる。黒い影たちが我先に娘に群がり、その衣を剥いでいく。瑞々しく張り詰めた乳房が零れ出し、裾が捲れて白い太腿が露わになる。
「あッ、ぁあッ、ぁあっ」
けだものじみた咆哮。青年の目の前で娘が犯される。膨れた腹を庇って突っ伏す娘に影がのしかかり、後ろから荒々しく乳房を揉みしだき、十分に潤んだ陰部へ押し入る。
何故だ?アレは生娘だったはず……俺が散らした……激しく出し入れされる悪霊の男根。肉を伴わず、圧だけで女陰を責めるそれ。娘は官能に蕩けた顔で、自らに群がる悪霊たちを受け入れる。
悶え、悦び、堕ちていく。
「そこッ、ぁあ」
俺が来る前から交わっていたのか?
腹にいるのは本当に俺の子なのか……。
覗き穴越しに視線が絡む。全てを見通す眼差し。鳥葬の丘。ぬばたまの贄。限界だ。恐怖の絶頂で失禁し、小屋を飛び出す。背後から喘ぎ声が追いかけてくる。行かないでと泣いて止める声に振り返らず丘を駆け下り、骸を踏んで転げ落ちる。
後に残されたのは身重の娘。
鳥葬の巫女に与えられた使命は丘に打ち捨てられた亡魂をその身をもって浄める事。
亡者は巫女の体を通り天へ昇る。
彼女の母も祖母もそのまた先祖も、一族の女たちはずっとずっとこうしてきた。いわば正しく慰み者として供されてきたのだった。
母や祖母、一族の女は生涯男を知らない。
鳥葬の巫女は半神半人。体の半分は渡り神の眷属だ。
青年が消えた数か月後、夢枕に渡り神が降りた。神は老獪な大鴉の姿をしており、腹の膨れた娘に告げたのだった。
『お前は一族の禁を破り男と交わった。腹にいるのは我の子ではない。穢れた血肉はいかんともしがたい』
「そんな」
鳥葬の巫女は「御渡り」で子を身ごもる。
産み落とすのは必ず自分に生き写しの女児、正統な後継者と決まっていた。
その前例が覆された。
『よく聞け娘。お前が産み落とすのは忌み子、呪われた子じゃ』
渡り神が嘆く。
『愚かなことよ。我が娶るしるしとて名を与えたのに』
|烏為《うい》。それが娘の名前。
母や祖母、一族の女たちに代々引き継がれてきた名前。
夢で渡り神と対峙した烏為は、しおらしく伏せていたおもてをきっぱり上げて宣言する。
「……申し訳ございませぬ。ですが烏為は悔いておりませぬ。あの方の子を産めるのは望外の喜びです」
子守歌に似た抑揚で、母性の芽生えを感じさせる至福の微笑みで囁く。
「おのこでもおなごでもどちらでも構いませぬ。心底愛した殿方の子ならばこそ、心より慈しみ育てます」
『卑しい人の子でもか』
「はい」
『亡者の穢れを注がれた忌み子でもか』
「はい」
有為が妊婦でも夜毎訪れる亡者は容赦しない。代わる代わる彼女を犯し辱め、種の代わりに穢れを注いでいく。子宮にいながらにして瘴気に侵された胎児は既に変質し、五体満足に産まれてくる保証もない。
『……|婢《はしため》が。どうなってもしらんぞ』
「覚悟の上です」
腹を蹴る胎動に限りない愛情がこみ上げる。子宮が育む分身の鼓動に気持ちが安らぐ。
毅然と宣する有為を見据え、渡り神は無言で飛び去った。
目を覚めすと同時、透明な涙の筋がこめかみを彫り抜く。
枕元には愛した男の餞別の木彫りの面が伏せてある。
表返した面を膝にのせ、ツ、と指を滑らす。
なだらかな弧を描く瞼と淡い微笑を含んだ赤い唇は、有為に面影を寄せていた。
「私に似てるとおっしゃいましたね」
共に都に上がり、能を見ようと約束した男の顔を思い出す。
「悲しやな羽衣なくてハ飛行乃、道も絶え。天上に帰らん事も、叶ふなじ。さりとてハ返し、賜び給へ……」
在りし日男が口ずさんだ一節をまねて紡ぎ、近く母となる娘は哀しみに暮れた。
烏為は与り知らぬ事だが、消えた男は面打ち師だった。
数日後、烏為は一人で子どもを産み落とす。
産まれたのは男女の双子。
娘一人ならあるいはごまかし通せたかもしれない。
鳥葬の巫女は一代に一人だけ子を成す。
その子は必ず娘で、次の巫女として育てられる。
渡り神の「御渡り」で生まれた霊威の継承者であればこそ里の者たちは敬意を払い、崇め奉ってきたのだ。
その前提が、崩れた。
烏為が産み落としたのは男女の忌み子。もとより双子は不吉とされている。
しかし、そんな事は烏為に関係ない。
天涯孤独の娘は漸く家族ができた喜びを噛み締め、五体満足な我が子を両の|腕《かいな》に抱き締めた。
「ぎゃああああああああ」
「ぎゃああああああああ」
小屋狭しと響き渡る産声は、彼女が物心付いた頃より慣れ親しんだカラスの声によく似ていた。
烏為は糸鋏でへその緒を断ち、赤子たちの身を拭き浄め、布団に寝かせる。
里の男たちが小屋に殴り込んできたのは僅か一刻後。
「お願い、返して!」
ぎゃああああああああ。
ぎゃああああああああ。
「淫乱め、男を咥えこんだのか!」
「何故男と女の双子が生まれた、巫女が成すのは娘のはず!」
男たちがブツブツ呟き、丸裸の赤子を取り上げる。
「渡り神の嫁に手出しまかりならぬと堪えたのに」
「ただの色狂いの小娘じゃないか」
「誰の種だ。里の男か、行きずりの旅人か」
「抜け駆けしたのは誰だ、裏切り者が」
赤子を取り返さんと死に物狂いに暴れる烏為、その手足を掴んで組み敷きのしかかる百姓たち。まずは肩を外し、草刈り鎌で腱を切る。絶叫。
抵抗を封じられた烏為の視線の先、百姓の一人が僧女の面を叩き割る。
「あッ、ぁあッ、ぁあ」
子を産んで間もない裂けた女陰に男根が突き入り、弛緩しきった股が血と糞尿を垂れ流す。
「赤子はどうする?」「烏の餌にすれば良い」「それはあまりに……」「何が惨い事か、生贄じゃ」「渡り神の怒りを鎮める供物じゃ」「やらねば祟りが」「四肢をもげ」「くびり殺せ」
泣き声がだんだん弱まっていく。
百姓の一人が赤子を絞める。
さんざん尽くしてきたのに。
身を捧げ名を捧げ、お前たちの安寧を支える犠牲になってきたのに。
不規則に痙攣する立膝。土間に打ち捨てられたへその緒と胎盤。
極限まで剥かれた有為の目が苦痛と絶望に裏返り、血涙で赤く染まりゆく。
赤子たちはぐったりして動かない。
烏為には自分に忍び寄る死の気配が視えた。
男たちに組み敷かれ犯される間中、自分の周りを包囲する夥しい黒い影が。
それは太古から今日に至るまで丘に葬られてきた死者の群れ、報われず死んだ一族の女たちの亡霊だ。
母がいた、祖母がいた、皆がいた。一様に悲しげな様子で烏為を見下ろす。
死者の一人が聞く。
『お前の望みは』
死者の一人が聞く。
『願いを言え』
さあ早く早くと鳥葬の丘に捧げられたぬばたまの贄たちが口々に問い質す、子を産んだ|女陰《ほと》は緩いと下品に笑いさざめく百姓たち、地面に落ちた能面を草鞋が踏み躙りカラスがうるさく鳴き喚く。
烏為は願った。
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