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 森野さんは、おれが竹島さんのことを好きでも、自分に向くまで待ってくれると言った。  おれはそんな森野さんの優しさに甘えていた。  その優しさに包まれてまどろむうちに、森野さんのことをちゃんと好きになれるのではないかと勘違いしていた。  おれはきっと、森野さんを好きにはならない。  竹島さんと肌を重ねて、それがはっきりとわかった。  なのに、これ以上森野さんに甘えることはできなかった。  はっきりさせなきゃいけない。そう思いながらも課題や試験が重なってなかなか時間がとれず、ようやく久しぶりに森野さんに会うことになった。  森野さんはいつもおれのバイトが終わるのを待って、バイト先のホテルの前まで迎えに来てくれる。それから軽く食事をして森野さんの家に行く。そんな流れがお決まりになっていた。  その日は九時終わりで、いつものように行きつけの居酒屋で軽く飲んで、森野さんの家へ向かうために横切る公園の途中、外灯の下でおれは立ち止まった。 「広内? どうしたの」 「ちょっと、話があって」  何? と優しく訊き返しながら、森野さんが近づいてくる。森野さんは、いつだって優しい。この優しい人を、これ以上裏切ってはいけない。 「ごめんなさい。おれやっぱり、森野さんとはつき合えません」 「……どうして」  森野さんはひどく驚いた顔をした。そんな顔をさせているのはまぎれもなくおれだ。 「ごめんなさい」 「何か、気に障るようなことしたかな?」 「そういうんじゃないんです。森野さんに全然悪いところはないんです。悪いのはおれです」 「……あの人のことが忘れられないから?」  おれはうつむくことしかできない。 「……あきらめることにしたんだろう? だからぼくとつき合うことにしたんじゃないの?」 「そのつもりでした。でも、やっぱりどうしても想いが消えない。こんな気持ちのまま森野さんとはいられない」 「かまわないって言ったじゃないか。広内があいつを忘れるまで待つって」 「そういうわけには、いかないんです。そういうの、やっぱりだめだ」 「複数の中の一人に戻るのか? そんなの苦しいだけだって気づいたから、あいつから離れる決断をしたんだろう。ぼくは君だけだ。あいつとは違う。あんなやつといたって絶対に幸せにはなれない」 「……ごめんなさい」 「だめだ。戻っちゃいけない。君が不幸になるだけだ。あいつだけが得をするんだ。それでいいのか?」 「ごめんなさい、森野さん」  森野さんの顔が、険しいものになる。 「だめだ。行っちゃいけない。広内」  森野さんがおれの手首をつかんだ。その力は思いのほか強く、おれはひるんだ。 「こんなところでちゃんと話はできない。とりあえずぼくの家に行こう」  そう言って引っ張られる。  森野さんがそんなふうに強引な仕草をするとは思わなかった。 「待ってください。森野さんの家には行けません」  身をよじって森野さんの腕を振りほどこうとしたけれど、簡単にはいかなかった。おれが力をこめる分だけ森野さんの力も強くなる。それでもなんとか引きずられないように踏みとどまる。つかまれた手首が痛い。 「森野さん、離してください」 「ぼくは君を大切にする。あいつなんかよりずっと。何か不満でもあるなら言ってほしい。君だって、楽しそうにしていたじゃないか」 「楽しかったですよ。でも」 「冷静になるんだ。戻ったっていいことはない。ぼくといるんだ」 「でもおれ、竹島さんのことが好きなんです」  叫ぶようにそう、言葉が口から滑り出したとき、おれの手をとらえていた森野さんの腕を、誰か他の手がつかんだ。  驚いて、その手をたどると、竹島さんの顔があった。 「離せって言ってるんだから、離せよ」  いつの間に。  そう思ったのは、おれだけではなかったはずだ。  森野さんの顔も驚愕していた。普段から人の気配が少ないから、すっかり油断していた。  二人とも興奮していたのかもしれない。誰かが近づいていたことさえ気づかなかった。  取り乱していたところを見られて気恥ずかしかったのか、森野さんはすぐに手を離した。痛みからは解放されたけれど、おれは呆然としていた。  なぜ、こんなところに竹島さんがいるのか。  竹島さんは、おれと森野さんの間に割って入った。息を整えた森野さんが、竹島さんに向き合って強いまなざしを向ける。 「竹島さん、ですね。どうしてここに?」 「通りがかったんだよ」 「こんなところに?」 「悪いか?」  それが本当かどうか、おれにはわからない。竹島さんが今何をどう思っているのかも想像できない。ただ、森野さんの敵意に竹島さんはまるで動じていなかった。普段どおりの飄々とした表情を崩さない。 「これはぼくと広内の問題です。竹島さんには関係のないことです」 「悪いけどな、こいつはおれのなんだ。関係ないのはおまえのほうだろ」  あまりにもきっぱりと竹島さんが言ったので、森野さんは言葉を失う。 「行くぞ、広内」  そう言って竹島さんは、おれを(いざな)う。森野さんが、めずらしく大きな声を出す。 「広内はあなたのものじゃない。勝手なことを言って勝手なことばかりして、いつまで縛りつけておくつもりだ」  竹島さんは振り返り、おれのほうを顎でしゃくった。 「じゃ、こいつに聞いてみればいいだろ」  森野さんにじっと見つめられて、おれの胸は激しく痛む。  ずっと優しかった森野さん。  森野さんは何も悪くない。  おれが甘えただけだ。  甘えて、好意を無下にした。 「ごめんなさい、森野さん」  おれは深く頭を下げ、とっくに歩き出していた竹島さんの後を追った。  情けなくて、辛かった。  いったい何をしているんだろう。自分の辛さから解放されたくて優しい人に甘えて、そして傷つけた。なんてわがままで自分勝手なんだろう。  現状は何も変わっていないのに。  竹島さんはきっと、たくさんある自分のおもちゃを一つでも奪われたくなかっただけだ。これからもおれは、たくさんのおもちゃのひとつに過ぎないのに。  それでも。  それでもおれは、竹島さんが来てくれたことが嬉しかった。  たとえ通りすがりに他の誰かといるところを見かけたのが気にくわなかっただけでも、竹島さんが来て森野さんを制して、おれのだと言ってくれたことが、心臓が震えるほど嬉しかったのだ。  アパートに帰ると、キッチンの明かりだけをつけた部屋で竹島さんは、脱いだ上着を乱暴に放り投げた。  少し怖い顔をしている。  おれは森野さんとのことを竹島さんに知られてきまりが悪く、玄関先に立ち尽くしていた。すると竹島さんがやってきて、腕をひいて中へ引っ張りこまれた。かと思うと、すぐわきの壁に押しつけられた。すぐ目の前に、竹島さんの整った顔がある。その目つきが鋭くて、おれは思わず目をそらす。 「おまえ、おれのことが好きなんじゃなかったのか」  強い口調で訊かれて、口ごもる。  そんなことは、竹島さんに確認されなくたって痛いほどよくわかっている。 「なんで、他のやつとあんなふうにもめてんだよ」  問われても、答えられない。  好きだからだ。  竹島さんのことが、どうしようもなく好きだから、森野さんのところへ逃げたのだ。  そんなこと、言えるわけがない。そんなことを言ってしまえばきっと、うざったがられる。飽きたおもちゃのように、放り出されてしまう。 「……すみません」  竹島さんは大きく息をつく。 「謝ってほしいわけじゃ、ねえんだけどなあ」  すみません、とおれはもう一度言った。竹島さんはもう何も言わなかった。  腕を引かれ、電気をつけずに暗いままの奥の部屋まで連れられていく。  竹島さんは普段どおりに、いや、普段よりは少し邪険に、おれを扱った。  どんなふうに抱かれたって、おれはかまわなかった。おれはもう、竹島さんに触れられているだけで良かった。  これでまた、あの辛い日々が繰り返されると思うと苦しかった。  苦しいのに、もうごめんだと思ういっぽうで、幸福に酔っていた。  竹島さんを失わずに済んだことが、心が打ち震えるほど嬉しかった。  感情が矛盾だらけでわけがわからなかった。嬉しいのか悲しいのかわからない。  竹島さんの唇が、指先が、おれの肌の上をなぞるたびに呼吸が乱れる。  呼吸のみならず、思考も感情も乱れて何もかもどうでもよくなってゆく。  必死に竹島さんにしがみつきながらおれは、深淵に突き落とされるように、与えられる快楽に溺れていった。

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