19 / 34
-
夏に合宿があると聞いて、正直、心が躍った。
普段、大学にいるときにしか竹島さんには会えない。
大学にいるときといっても、構内で見かけるのは稀だから部室に行かないと会えない。部室に行っても、必ず竹島さんがいるとは限らない。
だから、朝から晩まで竹島さんが近くにいる、奇跡のような三泊四日だった。
例年なら遊んで過ごせる合宿だったらしいが、今回は前半の二日ほどを、秋の学祭に向けての映画の撮影にあてた。部員の中にはそれを残念がる人も楽しんでいる人もいたけれど、おれは嬉しかった。
映画を撮っているときの竹島さんを見るのが、好きだったからだ。
カメラを覗いたり、指示を出したり、もちろん主演として演技をしたり、そうしている竹島さんの真剣な面持ちが、ひどく端正で、近寄りがたくて、引きつけられた。
そういうときだけは、竹島さんをじっと見つめていても、おかしくなかった。みんなが注目しているからだ。だから誰に憚 ることもなく、竹島さんだけを見ていられる。
だから、嬉しかった。
事件が起きたのは、合宿の最後の夜だ。
事件といっても、そう思っているのはきっとおれだけだ。
予定していた撮影が順調に終わり、余った時間を各々好きなように観光したり泳いだりして過ごし、最終夜だということでみんな開放的な気分になってたんだろう。
里山さんと新入部員の一人がなにげなく始めた会話が、変な方向へと転がった。
「竹島とキスしてみたいやつ!」
ラブシーンの練習が必要だなんだと話していた里山さんが、急にそんなことを言い始めた。
酒が入って浮かれた部員たちは、みなが我先にと挙手をする。こういうときはとりあえず手を上げとけ、というようなノリなのは明らかで、おれは悲鳴をあげたくなった。
そんなの、手を上げたいに決まってる。
でも、たた、竹島さんと、キ、キ、キスなんて、できるわけない。
そんなの軽いノリの冗談だということはきっとみんなわかってる。
でもおれは、自分がどんな反応をするかわからない。
どんな反応をすれば正解なのか、わからない。
立ち上がってわいわいと騒いでるみんな後ろに、おれは隠れるように身を縮こまらせる。
まさか竹島さんが、こんな冗談につきあうわけがない。
そのうち、この騒ぎも治まるはず。
でも万が一、竹島さんが冗談につきあってくれて、この中の誰かとキスをするとなったら。
映画の中で、相手が女性なら、しかたがない、と思える。
でも、竹島さんが男と、キス、しているところなんて。
見たくない。
――それなら、おれが。
そのとき。
壁のように立ちはだかった人の隙間から、竹島さんが見えた。
竹島さんが、こっちを見ていた。
あわてて目を逸らす。
この中の誰かとするくらいなら、おれが、したい。
そう思ったのを、見透かされただろうか。
「なんだよ広内、手ェ上げてないじゃん」
里山さんの声がして、はっと我に返り、後ずさる。
「あ、おれは、いいです、ラブシーンとか」
「何言ってんだよ、そんなの、慣れていかないといつまでたってもできないぞ」
「や、やらなくていいです、おれ」
「そういうわけにはいかないんだって。人が足りなくなったらどんな役だってやらなきゃいけないんだから。南大映研の伝統だぞ」
「里山さん、広内はそういうの、本当に苦手みたいなんすよ。なんてんですか、すげえ奥手らしくて、彼女作ったこともないらしいんすよ」
「マジか? けっこうイケてんのに? そりゃますます慣れていかないとな。よし、広内。おまえ行け! 竹島、広内の相手してやってくれ」
「ちょっと待ってください、本当に、おれ、だめですって」
全力で抵抗してみるが、完全に調子に乗ったみんなは容赦ない。数人に腕や腰を押さえられ、引っ張り出される。
信じられないことに、里山さんに呼ばれた竹島さんが立ち上がる。渋々という表情で、おれの前まで歩み寄る。
嘘だ。
こんなこと、あるわけない。
た。
たた。
竹島さんと。
キ。
キキ。
……キス、なんて。
「今までこんなに嫌がられたこと、ないんじゃないか?」
里山さんが笑い、竹島さんが大仰にため息をつく。
「まったくだ。おれとしたことが」
「いや、そんな、竹島さんが嫌だとかそういうんじゃなくて、おれ、こういうのがどうしても苦手で」
まだ諦めきれずに拘束を解こうと体を動かしてみるが、両脇にいる先輩も後方にいる先輩も、まあまあいいから、観念しろって、と面白がってぼそぼそ耳打ちしてくるだけだ。
「それで、おれはどっちをやりゃいいんだよ。女役なのか?」
「どっちでもいいよ。要はキスだ」
「なんだそりゃ」
方々から酔っ払いたちが騒ぎ立てる。
「キスだキスだー」
「お願いしゃーっす!」
「だとよ、広内。あきらめろ」
竹島さんが、やけに優しい声音で言って、おれの顔を両手で挟んだ。
竹島さんの手のひらの、感触と体温が伝わってくる。
触れられた頬が、かっ、と熱くなる気が、する。
「いや、いいですいいです。本当に大丈夫ですから、おれ」
そう言っている間にも、竹島さんの顔が近づいてくる。
あの竹島さんの、端正な顔が、こんな間近に。
おれの、とても好きな、顔が。
竹島さんと、キス、するのか?
こんな、形で?
したい、とは思う。
だって、好きな人だ。
ゲイのおれが、好きな人とキス、できるなんてこと、きっとない。
夢みたいなことだ。
でも、こんなふうに?
みんなに見られながら。
余興みたいに。
好きな、人と。
こんなふうには。
――したくなかったな。
「……やめた」
もう、唇が触れるんじゃないか、と思う近さだった。
竹島さんが言って、急に体を離した。竹島さんの手のひらが、離れてゆく。
「なんで」
驚いて言う里山さんに、竹島さんはさっさと背を向ける。
「やっぱ嫌がってるのに無理やりするなんてな、おれの矜持 が許さねえ」
「きょうじって何すかー」
「竹島さーん、おれだったら嫌がらないっすよー」
「暑苦しいから近寄るんじゃねえ」
みんなはおれから興味を移して、竹島さんに群がってゆく。放り出されたおれを、里山さんが引き起こしてくれた。
「よかったな、広内。竹島が紳士で。おまえの初体験は先延ばしだ」
なんで竹島さんは、急にやめたんだろう。
もしかしてやっぱり、男とキスするのなんてごめんだったんだろうか。
それとも、相手がおれだったから、だろうか。
そんなことを考えていたせいで、里山さんの言葉に妙な返事を口走ってしまった。
「しょ、初体験くらい、おれだって」
「え、そうなのか?」
「いや、なんでもないです」
「おい、こいつ彼女いないとか嘘だぞ、初体験済ませてるらしいぞ」
「なんだと!」
せっかくおれから離れていった先輩たちが、また戻ってきて詰めよってきた。そのまま、もみくちゃにされる。もう経験済みとはけしからんやつだ、痛い目みせてやる、などと言って、寄ってたかってくすぐってくる。
みんなとの攻防に息も絶え絶えになりながら、おれの心境は複雑だった。
ほっとはしている。
でも、もったいないことをしたような気も、している。
ただ、うやむやになってよかった、とも思っている。
そんな感じで、合宿は終わった。
ともだちにシェアしよう!