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嫌われたくなかった。
あのとき、どうして竹島さんが、キスするのをやめたのか。
理由はわからない。でもたぶん、おれが嫌がっていたからだろうと思う。竹島さんは優しい人だから。本人もそう、言っていたし。
でももしかして、あの瞬間、気づいたのかもしれない。
気づいたというか、思い出した。
前におれは、竹島さんに忠告されたことがある。
池田さんのことについて。
池田さんは、水谷を介して知り合った。同じ大学に同じ性的指向を持つ知り合いがいることは、おれにとって心強いことだった。相談もできるし、何よりおれの本質を知っている人がいる、という事実だけで、どこか安心できた。
池田さんはゲイであることをオープンにしているめずらしい人だ。そのことを知って、竹島さんはおれに、気をつけろと忠告してくれた。そのときおれは、どんな返事をしただろうか。
はっきりとは覚えていないが、池田さんをかばうような発言をしたかもしれない。
それで竹島さんは、もしかして、おれもゲイであるかもしれないという、疑念を抱いた可能性はないだろうか。
ノーマルの男にキスくらい、造作もないこと。
でもそれが、ゲイ相手なら。
嫌だと思って当然だ。
気持ち悪いと、思われたのかもしれない。
好かれなくてもかまわない。
でも、嫌われたくはなかった。
疑念を、確信に変わらせたくはない。
それでおれは、なるべく竹島さんの近くへ寄らないようにした。必要以上に会話をするのも避けて、今まではことあるごとに竹島さんを見ていたが、それもやめた。接する機会が減れば、嫌われる要素もなくなるだろう。そう思った。
なのに。
最近なんだか、竹島さんがいらだっているように感じる。
竹島さんの周りの空気が、ぴりぴりとしている。
本当は竹島さんの様子がどんなだか、目を向けたいけれど、向けられない。
「広内」
大学の廊下で、後ろから声をかけられた。竹島さんだ、と、おれは胸を弾ませる。
呼ばれたときは、ちゃんと目を合わせられる。まともに竹島さんを見て、あーやっぱかっこいいな、なんて胸の内で思いそうになって、そういうのが表情に出るのがやばい、と我慢する。普段どおり。あくまで以前と変わらず、普段どおりだ。他の先輩に対するのと同じように、ふるまう。
「はい」
竹島さんは無言でおれを見下ろし、わずかに眉根を寄せる。
やっぱりなんだか、機嫌が悪い。
おれ、何か竹島さんの気に障るようなこと、しただろうか。
「ミーティングの時間、変更になったから、里山に確認して一年に連絡しといてくれ」
「あ、はい。わかりました」
おれは一礼すると、その場を離れた。
本当なら竹島さんの視界に入らないようにするのが一番なんだろうけれど、やっぱりおれは竹島さんのことが好きで、せめて同じ空間にはいたかった。
だから、部室には行くし、飲み会にも行く。竹島さんのほうを見られなくても、気配を感じていられるだけで十分だった。
その夜は、先輩たちが映画論で盛り上がっていた。白熱して、酒が過ぎていた。
めずらしく、竹島さんもよく飲んでいた。といっても、竹島さんはどんなに飲んでもあまり変わらなかった。他の先輩たちのように大きな声を出したりはしゃいだりせず、涼しい顔をしている。
その様子を、おれは見つからないようにときどき盗み見た。
竹島さんはあんなふうに、人に囲まれているときが一番竹島さんらしい気がする。
「おれ今日はもう帰るわ」
三次会へ流れる先輩たちをよそに、竹島さんはあっさりとそう言った。普段はこんなふうに話が白熱したときは、そのまま三次会へ流れる。けれども竹島さんは、引きとめる先輩たちを適当に交わして、本当に帰ってしまった。やっぱりめずらしかった。
何かあったんだろうか。そうは思ったけれど、そんな理由などおれに知るすべもない。
竹島さんがいないなら、三次会へ行ったってしょうがない。他の一年も帰るというので、おれも帰路についた。
夜道は秋口の涼しい風が吹いていた。夏の湿気がだいぶ薄くなっている。
心地の良い夜だった。
「広内」
と、どこかから呼び声がした。
その声を、おれが間違えるはずがない。
まさか、と思って振り返ると、竹島さんが立っていた。ほんの数メートル先だ。
こんなところで偶然、竹島さんに会えるなんて。
しかも、呼び止められるなんて。
今日はなんだか、特別な夜だ。そう思った。
そしてその期待どおり、竹島さんは思いもかけない、おれを舞い上がらせるのに十分なことを、言った。
「ちょっと飲まないか」
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