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-了-
竹島さんのいる窓際は、四人がけのソファ席が衝立を挟んで幾つか並んでいた。水谷はごく自然に竹島さんの背後から回り込み、あわてるおれをよそに、さも窓際が気に入ったとでもいうような仕草で竹島さんたちの隣の席に座った。
竹島さんが振り返りでもしたら、即座に見つかってしまう。
水谷の面は割れていないので、おれが竹島さんと背中合わせになるよう座った。声を聞かれるとまずいので、表情だけで水谷を非難するが、水谷はそ知らぬ顔だ。水を持ってきた店員にコーヒー二つ、と頼んでいる。
しかし、ひやひやしている場合ではなかった。背後から二人の会話が聞こえてくる。
おれと水谷は、息を殺して耳をそばだてた。
「大学のほうは大丈夫だったの?」
と、女性の声がする。はきはきとして、大人の余裕のある口調だ。
「もうあんまり授業はないんで。サークルのほうも一段落したし」
「あ、映画撮ったんだよね。どうだったの」
「いい出来ですよ。なんせ、主演がいいんで」
「主演って、竹島くんでしょ」
そう言って、ふふふと笑う。媚びた感じもなく、高飛車な感じもない。好感の持てる笑みの漏らし方だった。
竹島さんが敬語を使うということは、年上なのだろう。大人で、キレイで、感じのよい女性。竹島さんによく、似合っている。
「でも今日は竹島くんに会えてほんと嬉しかったなあ」
突然そんなことを言うので、おれは息をのむ。運ばれてきたコーヒーの、わずかに揺れる表面をじっと見る。
「そりゃそうでしょうね。おれが来れなかったらどうなってたんですか」
「最終的にはどっちかの契約がダメになってたわね。ほんとに助かったわ。急だったのに。バイト代、増やしておくから」
彼女の口調が軽くなるので、おれは小さく息をつく。コーヒーカップを口に運ぶ余裕も出てくる。
「でもね」
と彼女は続けた。
「竹島くんに会えて嬉しかったのはほんとよ。久しぶりじゃない?」
「そうですか?」
「わたし、スタジオガラコの応援に行ってたのよ。二か月くらい」
「そうだったんですか。気づかなかったな」
「ひどいなあ。わたしは竹島くんに会いたかったのに」
そこで初めて、彼女の声音が女のひとのものになった。顔が見えないぶん、甘い響きがよく伝わる。おれはまたしても息をのむ。
「そりゃ、ありがたいな。また呼んでくださいよ」
竹島さんは、いつものように軽く返す。いつもの竹島さんの軽い口調だ。
でも、竹島さんがどんな顔をしているかはわからない。
竹島さんがこんなふうに、女の人や、年上の人と話しているのを、そういえばおれは聞いたことがない。だから今こんなふうに話している竹島さんが、何をどう感じているのかわからない。おれは持ち上げたコーヒーカップを両手で挟んだまま、下ろすことができないでいる。
「そうじゃなくて」
彼女はなおも、甘い声を出す。
「ねえ、今度どこか、出かけない?」
目を上げると、水谷と目が合った。水谷の目が大きく見開いている。
やっぱり、竹島さんはこの人ともつき合ってるのか?
「何言ってんすか」
と、竹島さんがさらりと言った。
「美澄 さん、彼氏いるでしょ」
「今はいないわ。別れたの。ひと月くらい前」
「そうなんだ」
つき合っているわけではないようだった。今初めて、彼女が竹島さんに告白している現場に、おれと水谷は立ち会ってしまったのだ。
水谷の口元が、やばい、やばいと動いている。おれだってそう思う。
だって、こんなキレイな感じのいい人に、竹島さんと並ぶとファッション誌の巻頭特集になりそうなくらいお似合いの女性に告白されたら、やばいに決まっている。
やばい。どうしよう。知らず、両手で挟んだカップのコーヒーの、表面ばかりを凝視していた。おれの動揺が、波紋となって揺れている。
「ねえ、わたしとつき合わない?」
ついに、彼女は言った。
さして間を置かず、竹島さんは答えた。
「あ、おれ、つき合ってるやつがいるんで」
思わず水谷を見上げたおれは、いったいどんな顔をしていただろう。呆けたような水谷と、同じだったに違いない。
「あれ? つき合ってる人いないって言ってなかった?」
「最近つき合い始めたばっかで」
「そうなの? なんだあ。ちょっと遅かったんだ。わたしが二か月いない間に」
「残念だなあ。美澄さんいい女なのに」
「そんなこと言って、全然迷わなかったくせに」
「すいません」
明るく謝る竹島さんに、美澄さんという彼女は好意的な笑い声をあげる。
「残念だなあ。竹島くんのこと、ずっと狙ってたのに」
「彼氏と別れたからでしょ」
「まあね。でもこんないい女をあっさりふるなんて、よっぽど今の彼女がいいのね」
「まあ、そうですね」
「あ、悔しい。はっきり言われちゃって」
「でも、美澄さんもいい女ですよ」
「でも、その子のほうがいいんでしょ?」
「ええ、まあ」
「むかつくなあ。どこがいいのよ。言っちゃいなさいよ」
「そうだなあ」
のんびりとした調子で、竹島さんは言った。
「なんか、今までにはないタイプで、とらえどころがないっていうか、わからないところが多くて、もっと知りたくなるっていうか、そう思ってるうちにはまっちまって、抜け出せなくなってるって感じですかね」
「それは、なんていうか、意外。竹島くんって、そんなふうに熱くなるタイプじゃないと思ってた」
「おれも、思ってました」
「夢中なのね」
「夢中ですねえ」
「ますます悔しいわあ。竹島くんをそんなに夢中にさせるなんて」
「美澄さんにだって夢中になりますよ」
「竹島くんが?」
「おれじゃない誰かが」
いつもの、口元に笑みを浮かべた竹島さんの顔が、浮かびそうな言い方だった。
つられるように美澄さんも、笑みを含んだ口調でもう一度、むかつくわあ、と言った。そして、立ち上がる音がする。
「むかつくからもう行こう」
「あ」
「おごるって言ったでしょ。ふられたからって、ケチなこと言わないわよ」
「ごちそうさまです」
竹島さんも立ち上がる気配がする。おれはほっとして、カップを下ろした。
下ろさなければ良かった。
ほっとして、気がゆるんだのだ。ソーサーの真ん中に乗っていないのに手を離してしまったせいで、コーヒーカップは見事に転倒した。派手な音をたてて、まだ半分以上残っていたコーヒーがテーブルの上に盛大に広がってゆく。もちろん、その大惨事に、隣席を離れようとしていた二人が振り返った。
「広内?」
とっさに顔を背けたものの、竹島さんの目をごまかせるはずもなかった。
「何してんだ、こんなところで」
恐る恐る、おれは竹島さんを見上げた。目が泳いでしまって、うまく合わせられない。
「竹島くん、知り合い?」
「ああ、あの、大学の後輩で」
「じゃ、わたしは先に戻ってるわね。まだみんなは帰ってこないと思うから、ゆっくりしてきていいわよ」
「ありがとうございます」
美澄さんが立ち去り、店員の女性がテーブルの上をキレイにしてくれてから、竹島さんはおれの隣に腰を下ろした。
「で、何してるわけ。こんなところで」
「いや、あの、その」
うまい言い訳がみつけられないでいるうちに、向かいの水谷が思いきりよく頭を下げた。
「おれのせいなんです」
「おれ、って、誰?」
「おれ、広内の友だちで、水谷です。その、竹島さんのことで広内からいろいろ相談されてたりして」
「へえ。相談」
「相談って、いうか、いろいろ話してくれてて、それで、おれが」
「おれが?」
「そのう」
水谷は、さして厳しくもない竹島さんののどかな追及に、洗いざらい打ち明けた。どうしておれたちがこんなところにいるのかっていうことを。
「なるほど」
聞き終えた竹島さんは、大きく息をついてテーブルに片肘をつき、咎めるようにおれを見た。
「つまり広内は、ここに至ってもまだ、おれを信用してないってわけだな」
「そんな、こと、ない、んです、けど……」
こんな状況で言っても、まったく信憑性はない。水谷があわてて口添えしてくれる。
「広内は、信用してたんです、竹島さんのこと。おれがむりやり連れてきたんです。だっておれ、そんなわけないって思って。ちょっと、うまくいきすぎな気がして」
「うまくいきすぎ?」
「竹島さんって、バイなんですか?」
「バイ?」
「両刀って意味です」
「両刀って、どっちもいけるってことだよな? いや、今までは女だけ」
「やっぱりそうですよね。もともとストレートなのに、しかもすごい人気者なのに、そんな人とうまくいっちゃうなんて信じられないじゃないですか。絶対遊ばれてるんだって、思うじゃないですか。だからちょっと、確かめようって、おれがむりやり」
「ふうん。そういうもんなのか。ゲイってのは大変なんだな」
しみじみと竹島さんは言い、それで、とまたおれを見た。
「おれの疑いは晴れたわけ?」
「……はい」
うなずきながら、にわかにおれは気恥ずかしくなる。
――夢中ですねえ。
竹島さんはそう言った。その相手は、もしかして、いや、もしかしなくてもやはり、おれ、なのだろうか。
「言っとくけどな、女とつき合ってるときだって、二股なんかしたことないからな」
「わ、わかってます。竹島さんがそんな人じゃないってことは」
「じゃ、なんでここにいるんだよ」
「……すいません」
おれはもう、下げた頭を上げられない。
「いいかげん信用しろよな。本当に、おまえだけなんだから」
――おまえだけなんだから。
そっけなく、竹島さんは言う。
あまりにそっけないので、おれは心臓がつかまれたように息が止まる。竹島さんにとってはそれくらい、簡単なことなのだ。
「おまえら、授業は」
「あ、午後から」
「今からじゃメシ食うヒマねえんじゃねえの。遅れんなよ」
そう言って竹島さんは、颯爽と立ち上がるついでにおれたちの伝票をつまみあげた。
「あ」
「さっさと大学戻れよ」
そう言ってレジへと向かう。おれたちもあわてて立ち上がる。
「すいません、ありがとうございます」
「ごちそうになります」
会計を終えた竹島さんがエレベータに乗りこむのを、おれたちは立ち尽くして見送った。隣で水谷が、ため息まじりにぽつりと漏らす。
「……かっこいい」
「え?」
「やばい。マジでかっこいい。今まではただの軽薄な人だと思ってたけど、やばいよ、あの人すげえかっこいいじゃん。おれ、好きになっちゃった」
「何言ってんだよ、だめだよ、そんなの」
「広内、ずるいよ。あんなかっこいい人とつき合えるだなんて。ずるい。むかつく」
「そんなこと言われても」
大学まで戻る間中、水谷はずるいずるいと悔しげに言い続けた。
おれは聞くともなしに歩きながら、竹島さんの言ったことを何度も反芻した。
一つ一つを思い返すたびに、心臓がきゅっとなり、気恥ずかしくなり、どうしても現実のこととは思えないようになり、でもやっぱり現実だと思うと、得も言われぬ幸福に包まれるのだった。
-了ー
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