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今思えば、無謀だったと思う。
でも、あのときは本当に、もう何もかもどうでもよくなっていた。
生まれて初めてちゃんと好きだと自覚した相手に失恋して、一人で勝手に傷ついて、おれには恋愛なんて一生できないんだなんて、自暴自棄になってたんだろうと思う。
高校の卒業式の後、大学の入学式までの休みの間に一度、おれは友だちの家に泊まりに行ってくると親に嘘をついて、夜の繁華街へと出かけた。ネットで調べたゲイの集まるという店に行くためだった。
自分が何を求めているのか、はっきりさせたかった。ありていに言えば、男性と、身体の関係を持ってみたかったのだ。
相手は誰でもよかった。むしろ、知らない人のほうがよかった。でも今思えば本当に、危険な目にあわなかったのはただの幸運だった。
目的の店は、割合すんなりと見つかった。どこにでもありそうなショットバーで、曜日によって女人禁制になり、ちゃんとその日を選んで行った。
室内は薄暗かった。それほど広くないホールに人がまばらにいるのが見えて、おれはにわかに緊張する。
バーなんていうところに入るのも初めてなら、一人で飲食店に入るのも初めてだった。勢いで来てはみたものの、まるで勝手がわからない。
ひとまず、注文だ。そう思ってカウンタへ向かうけれど、お酒の種類がわからない。
口ひげをたくわえた、さほど若くなさそうなバーテンダーが近寄ってくる。
「いらっしゃい。この店は初めて?」
「あ……、はい」
「若いね、いくつ?」
「じゅ、は、はたちです」
そう、と、バーテンダーは穏やかに笑う。
そのとき、なにやら甲高い声が店内に響いた。続いて、言い争う声がする。見れば、カウンタの端の暗がりで、二人の男性がもめていた。バーテンダーが困ったようにため息をつく。
「まただ。しょうがないなあ」
「ど、どうしたんですか?」
「痴話げんかだよ。よくあるんだ、気にしないで。何か甘いカクテルでも作ろうか」
「あ、お願いします」
ひと息ついて、できあがるのを待っていると、突然腕のあたりに衝撃が来た。誰かがぶつかってきたのだった。
「あ、ごめん」
そう言ったのは、さっきもめていた男性の片方だった。顔つきはまだ少年のように幼い。
「いえ」
「おい、ちょっと待てって」
行き過ぎる彼を、男性が追ってくる。
「もういいってば」
足早に店の外へ出てゆくのを、男性も追って出ていった。
痴話げんか、と先ほどバーテンダーは言っていた。それって、カップルに対して使う言葉だ。やはりここは、そういう場所なのだ、と実感する。
つまり、ゲイがいるのが当然の空間。
ここならもう、自分を偽らなくていい。
そう思うと、緊張が緩んだ気がした。
自分はここにいて、いいのだ。
「はい、お待たせしました」
バーテンダーが差し出してくれたのは、気泡の上がったピンク色のグラスだった。こわごわ飲んでみると、甘くてとても飲みやすい。
知らない場所で一人で酒を飲んでいるなんて、我ながら大胆なことをしているな、と他人事のように感心する。でも、目的はもっと大胆なことだ。そう思うとまた、落ち着かなくなる。
誰でもいい、とは思っていたけれど、そもそもそういう相手とそういうことになるには、いったいどうすればいいのかわからない。このまま待っていればどうにかなるんだろうか。それとも、自分から誰かに話しかけなくてはいけないんだろうか。
そっと、店内を見回してみる。
ほとんどの人が、誰かと談笑している。
話しかけるといったって、いったいどの人に。どうやって。
どう話をすれば、目的が叶うのか。
つまりはその、一緒に夜を過ごしてくれるように。
おれのそういった不慣れな仕草や態度がわかりやすかったのか、不意にバーテンダーがカウンタごしに身を乗り出してきた。
「きみさ、こういう店に来るの初めてなんでしょう?」
ドキ、とする。
うなずくべきなのかどうか、判断できない。
「最近自覚したんじゃない? ゲイだってこと。それで、試しにゲイバーに来てみた」
観念して、おれは小さく首を縦に振る。
「やっぱりね。相手を探しに来たんでしょう。セックスしてみて、本当にそうなのかどうか確かめるために。違う?」
ますます、ドキ、とする。
バーテンダーの言ったことは、少し違う気もするけれど、そんなに違わない気もして、やはりそっとうなずいておいた。バーテンダーは保護者のような温かい笑みを向けてくる。
「変なのにつかまるといけないから、誰か紹介するよ。ちなみに、自分がどっちかはわかってる? タチか、ネコか」
その言葉も、ネットで調べていた。
抱きたいのか、抱かれたいのか。
「……たぶん、ネコ、だと思う」
バーテンダーは、嬉しそうに顔をほころばせた。
「じゃあちょうどいいのがいる。きみは運がいいよ」
そう言って、奥のほうのテーブル席へ向けて声をかけた。
「郁 、ちょっと来て」
女性のような名前だと思ったが、何、と言いながらやってきたのはちゃんと男性だった。
たぶん、二十代で、すらりとした体躯に優しい面立ちの、目立たないけどモテそうなタイプだった。おれを見て涼しげに微笑む。吸いこまれそうな感じの目をしていた。
その人を指して、バーテンダーが紹介する。
「この人、処女斬りだから。おすすめ」
「ちょっとマスター、その古臭い言い方やめなってば。年がバレるよ」
「かっこいいじゃん。百人斬りとか。あ、きみね、この人処女専門なの。だから安心して任せられるよ。郁、このコ、初体験の相手探してるんだって」
へえ、と、郁さんはおれを見た。
「きみ、未経験なの?」
「……はい」
へえ、と郁さんは、けして不躾 でない眼差しでおれを上から下までゆっくり眺めた。
「うん、なかなかいいね。いいよ。する?」
軽く言われて、おれは目をしばたたかせる。
ていうか、処女専門って何だろう。
ていうかこのバーテンダー、マスターだったのか。
まあ、そんなことはこのさいどうでもよかった。誰でもいいと思って家を出てきたけれど、こんな人とできるなら、願ったり叶ったりだった。
あわてて、頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします」
「でも条件がある」
と、郁さんは顔の前に人差し指を立てた。
「おれは基本、処女としかしないから、やるのは今日一回だけ。二度目はない。それでいい?」
「あ、はい」
よくわからないけれど、とにかく今夜、一晩だけの関係、それ以上を求めない、そういうことなんだろうと理解する。
「よし。じゃあ行こうか。ここはおごるよ」
「え、いや、そんな」
おれが遠慮していると、バーテンダー兼マスターがカウンタの向こうから口を挟んだ。
「処女をもらうお礼だから、おごられときなよ」
もらうとか、お礼とか、もう何がなんだかよくわからないままうなずいた。
「あ、じゃあ、はい。ありがとうございます」
「ますます、いいね」
そう言って郁さんは、朗らかに笑った。
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