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郁さんのおかげで、何やら憑き物が落ちたようにすっきりとしたおれは、晴れやかな気分で大学の入学式に臨んだ。
会場で、隣の席に座った人物と目が合った瞬間、お互いが首を傾げた。どこかで見た顔だ。向こうもそう思っているようだった。
不自然な会釈を交わして、一通り式が終わった後、立ち上がろうとした瞬間に唐突に思い出した。
「あ」
おれが振り向くと、同じタイミングで向こうも思い出したようだった。
「こないだの店にいた?」
先日のショットバーで、痴話げんかをしてぶつかってきたやつだった。なんて偶然だ。
「……驚いた」
「おれも」
そう言うなり、人懐こい笑みを浮かべて手を差し出してくる。
「英文科、水谷。よろしく」
「あ、国文科の、広内。よろしく」
握手なんて、人生で初めてじゃないかと思う。面白いやつだな、というのが第一印象だった。いや、第一印象といえば痴話げんかのほうか。
ちょっと話さない? と水谷に誘われて、講堂を出たおれたちは人の少ない木陰のベンチへ移動した。
「あの店、よく来るの?」
ついさっき会ったとは思えないような気安さで、隣に座った水谷は訊いた。おれは少々人見知りなたちだけど、水谷には不思議と最初からあまり気兼ねしなかった。
「いや、こないだが初めて」
「そうなんだ」
「水谷は、よく行くの?」
「まあ、二、三回行ったかな。こないだケンカしてたろ、おれ。あの相手がね、行きつけで。でももう行かないかも。別れたから」
おれは息をのむ。
別れた、って。
別れたってことは、つき合ってたってことだよな。他人事なのに、なんだかどきどきとする。
「か、彼氏とか、いるんだ」
「だから別れたって。広内はいる?」
「いない、いるわけない。ああいう店、初めて行ったし。それに、その、ゲイの人とか、初めて会ったし」
「へえ。そうだったのか」
水谷は、どこか感心するような表情で小さくうなずきながら、そっと顔を近づけてきた。
耳元に囁いてくる。
「じゃ、もしかして、まだ?」
「何が?」
「エッチしたことない?」
少し意地悪そうに、あどけなく笑う。
「……あるよ」
思わず言ってしまう。
正直、誰かとそんな話をするのは初めてだった。つまり、そんな話のできる友人が、できたということなのだ。
それが嬉しくて、気分が高揚していたのか、ついいろいろと話してしまった。あの夜、水谷とぶつかった後、何があったのか。
水谷は郁さんのことを知っていた。
「え、マジで? 広内、郁さんとしたの?」
「ちょ、声が大きい」
「いいなあ、いいなあ。おれもしたかったんだよ。でも郁さんのこと知ったときおれ、もう処女じゃなかったし」
「なんで、したかったんだよ」
「だって、すごい上手って噂だもん。で、どうだった? よかった?」
「……まあ、すごく」
「いいなあ。おれもしたいなあ」
「別に、できるんじゃないの? 処女ですって言えば」
「それがさ、わかるらしいよ。本当か嘘か。バレたらどんなに途中でもやめちゃうんだって。怖いと思わない?」
思わず、考える。
確かに、あれを途中でやめられると辛いかもしれない。
「ラッキーだったなあ、広内」
ちょっと悔しそうに、水谷は言った。
人からこれほど羨ましがられたことが、かつてあっただろうか。マスターに幸運だと言われたし、自分でも幸運だと思っていたけれど、水谷にそう言われるとその幸運が誇らしくなってくる。
無謀な試みだったけれど、あの夜あの場所へ行ったのは間違ってなかったと今では思う。
あのとき、郁さんに背中を押されておれは、新しい人生をスタートしたのだ。
「入学したばっかで広内に会えてよかったな。連絡先交換しない?」
「もちろん」
ベンチから立ち上がると、じゃあまたねと水谷は正門に向けて歩き出した。
「え、新歓は?」
「おれ、サークルとか面倒だからしない。広内はどっか入るの?」
「一応、見てみようと思ってるけど」
「そっか」
水谷は顔を近づけてきて声をひそめる。
「実はさ、この後、男と約束してるんだ」
一瞬、思考が止まる。
「別れたんじゃないのか?」
「また別の人」
へえ、とおれは呆れながらも感心する。
水谷の存在は、少なからずおれの救いになった。オープンではないけれど、ちっとも悲観していない。
こんなふうにもいられるんだ、と思った。
行く手が明るく感じられるくらい、水谷は自由に見えた。絶望しかないと打ち沈んでいたのがバカみたいだった。
誰かを想うって、すばらしいことだよ。
郁さんの声が耳に蘇る。
確かに、もったいないことだ。誰かを好きにならないなんて。
おれもまた、誰かを好きになりたい。
水谷と別れて、ぶらぶらしながら立ち寄った映研の新歓上映会で、その願いはあっさりと叶えられたのだったけれど。
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