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第5話
一人風呂に取り残されたアルスは、お湯をすくって、そこに映る自身をぼんやりと見つめていた。
いつもは湖に映る自分を見ていた。今は違う。その違いに、心が痛む。
(神様は今頃……)
アルスのことなんかもう忘れてしまっただろうか。アルスが居なくなっても気にもかけなかっただろうか。ラズと仲良くしているのだろうか。神様の寵愛を、ラズに与えているのだろうか。
そんなことばかりが思い浮かんで、アルスは思わず首を振る。
何を思っても、アルスはもう神様には二度と会えない。願っても無駄だ。アルスの役割は終わってしまった。
これまで数え切れないほどの生贄を得てきた神様にとって、アルスなど大勢のうちの一人である。すぐに忘れられるのは当たり前のことであり、誰も神様の特別になんてなれない。
(……僕があの人の特別になれたら良かったのに……)
そんなどうしようもないことを考えて、アルスは手の平にすくったお湯を顔にパシャリとかけた。
風呂から出ると、キリアが窓の外を見て呆然と立ち尽くしていた。アルスが近づけば、気がついたキリアは微かに振り返り、安堵したように微笑む。
「のぼせなかったね」
「はい。……あれ、天気が」
外は大雨が降っている。風も強く、まるで嵐がやってきたようだった。
「予報では晴れるはずだったんだけど……」
困ったように笑うキリアを尻目に、アルスは突然ベランダへと踏み出した。
「アルス? 濡れるから入っておいで」
そんな言葉も耳に入らないのか、アルスはあたりを見回して、遠くに視線をやっている。
「……どうしたの?」
「……動物たちが騒いでる。怖がってるみたい」
「動物……?」
もちろんキリアには何も聞こえない。
「……アルスは、動物の声が聞けるの?」
「はい。キリアさんはお話できないんですか?」
それはまるで、話せることが当たり前であるかのような聞きかただった。
「……アルス、入っておいで。大きなものが吹き飛んできたら大変だ」
ひとまずアルスを中に入れると、キリアはしっかりと鍵をかけた。
この子はいったい何者なのだろうか。ただの「生贄」にしては特殊すぎる。
「アルスの話を聞かせてよ。これまで、どうやって神様と過ごしてたの?」
「どうやって?」
冷蔵庫から酒を取り出すと、キリアはリビングへと向かう。暗に「ついてこい」とでも言っていそうなその背中に、アルスは従順について歩いた。
「神気をもらってたって言ってたけど……それって、生贄の子たちはみんなそうなの?」
定位置と思しき場所に腰掛けたキリアを見て、アルスはその正面に座る。
「さあ。僕は生まれたときから神様の側で育ったので、神様は人間の食事を知りませんから、ずっと神気をいただいていただけです」
「……生まれたときから?」
「はい。僕が生まれたときには、神様にはもうずいぶん生贄を捧げられていなかったらしく……そこに僕が生まれたので、美しく育つかも分からない状態で、ひとまず生贄にされたんです」
「……なるほどね」
キリアが知る限りでは、生贄は十五歳程度になってから神様の元に行くとされている。生まれたときから神様の元に居たのなら、アルスが無知であることも納得ができた。
「酒は? 飲んだことある?」
「僕はこれまで、神様の神気しか……」
「あー、そっか。じゃあ、はい」
差し出されたカップには、透明の液体が波打っている。これが「酒」なのだろう。何も知らないアルスは不思議そうにそれを受け取ると、まずは匂いを嗅いでいた。
「知らない匂い」
「だろうね。うまいまずいも好みによるから、嫌いだったら出していいよ」
そう言われて、アルスは躊躇いもなく口に含んだ。直後、ピリッと舌先が痺れるような感覚を覚える。しかし勢いのままに飲み込んでしまい、喉の奥まで熱くなった。
「ん、ゴホッ!」
「ああ、ほら」
思考がくらりと揺らぐ。キツい酒だったのだろう。アルコールに慣れないアルスはものの数分で酒を巡らせて、ついにはキリアにもたれて動けなくなっていた。
もちろん、他意があって飲ませたわけではない。わけではないけれど……ちらりと見下ろすと、真っ赤になって目尻を垂らすアルスが、上目にキリアを見つめている。
「うーん……」
「あの……キリアさん、僕……」
「うん、動けないよね」
顔が近い。そんな距離でじっとアルスを見ていると、アルスがふにゃりと力の抜けた笑みを浮かべる。
それに思わず、本当に思わず、キリアはアルスに口付けていた。
体が勝手に動いた。気付いたのは、唇が離れてからだった。
「え……あ! ごめんアルス! 俺こんなつもり本当になくて!」
肩を掴んで引き離すけれど、当のアルスは不思議そうな顔をしていた。
「ふふ。なんか、懐かしい」
「……懐かしい?」
「神様ともいっつもこうして……唇を引っ付けて……神気をもらって……」
「……キスで神気を?」
「まだ一日も経ってないのに……懐かしいなんて、おかしいですね」
そう言ったっきり、アルスはとうとう倒れ込んだ。心配になって確認すると、心臓は動いている。規則正しい呼吸もあるから、どうやら寝落ちてしまっただけのようだ。
「……キスで神気をもらうなんて、そんなことあるのか……?」
キリアには生贄に関する情報は少ない。なにせ、生贄の役を終えた者たちが誰なのかも明かされてはいないのだ。本人たちが言わない限りは謎に包まれているから、キリアには知る由もない。
だけど、やっぱり何かがおかしい。
人間の生活を知っている神様が、どうしてアルスに人間の食事を与えず、わざわざキスをして神気を与えていたのだろう。
ガタン! と、強風で窓が揺れる。その音に驚いて、キリアは外に視線を投げた。
外は大荒れだった。遠くからは雷の音も聞こえる。
「……まさか、な」
嫌な予感がしたけれど、キリアは気付かないふりをして、ひとまずアルスをベッドへと運んだ。
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