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第8話

   だけど、神様にはもう神様好みの新しい生贄が……そんな言葉さえ、喉に張り付いて出てこない。 「……街に来る前、神様とはどうやって別れたの? 喧嘩別れとか? 無理やり出てきたとかじゃない?」  キリアの必死な言葉に、アルスは緩やかに首を振る。 「喧嘩なんてしてません。無理やりでもなくて……だって神様は新しい生贄の方と楽しそうにしてたから、別れなんて……」 「勝手に出てきたの!?」  その剣幕に、アルスはびくりと大きく震えた。 「あ、ごめん。……でもそうか、分かった。やっぱりそうだ、神様が怒ってるんだよ」 「そんなはず……」 「違うかもしれないけど、違わないかもしれない。今は一度、湖に戻るべきだよ」 「……もし、もしも神様が本当に怒っているとして、どうしてですか。そんなに怒っているなら、神様には僕の居場所なんてすぐに分かるし、押しかけて来るはずです。この家を壊すことだって簡単なのに……それをしません」  キリアの腕を振り解いて、アルスは苦しそうに眉を寄せる。 「……僕は、神様を煩わせることもできない……」 「……そうか。きみは、神様のことを……」  それ以上、キリアは言葉を続けなかった。  嵐は依然続いている。キリアの部屋の窓は騒いでいるし、隙間風もうるさい。キリアはそちらを一瞥して、次をどうすべきかと必死に次を考えていた。  キリアの予感が果たして当たっているのかは、キリア自身も確信は持てない。だけど当たらずも遠からず、ではないだろうか。 「……神様は、離れた場所のことも分かるの?」  唐突な言葉に、アルスはおずおずと上目にキリアを見つめる。 「はい。神様は神通力が使えると聞きました。だから僕のことはだいたい分かると言われたこともあります」  それなら尚更、人間の食事が分からないなんてありえないのだが……アルスはそもそも神様を疑ってすらいないのか、気付いていないようだった。 「そっか。……分かった」  何かを決意したように、キリアはまっすぐな目をアルスに向けた。その目は少しだけ怯えている。いったいどうしたのかと聞く前に、キリアはアルスの腕を掴んで、部屋の奥へと引っ張った。 「わ、キリアさん!」  キリアは何も言わなかった。ただアルスを寝室へと連れて、呆然と立ち尽くすアルスを尻目にカーテンを開ける。  外は嵐だ。ここ数十年、見たこともないほどの雨が降っている。しかしそちらを見たのは一瞬だった。キリアはすぐにアルスへと振り返ると、ひとまずベッドへ座らせた。 「……アルス。俺は今からきみに酷いことをするけど……絶対に最後まではしないって約束する」 「……最後まで……?」 「少しだけ我慢して」  そう言って、キリアの目が伏せる。顔が近づいて、アルスが避ける間も無く、二人の唇はあっさりと重なった。  ——当然のことながら、アルスには神様以外とキスをする機会なんかなかった。アルスが酔っ払ったときに一度キリアがしたのだけど、アルスにはそんな記憶もない。  アルスは驚いたように目を見開いたけれど、嫌悪感はなかったために、拒絶をすることもなかった。 (神様じゃない人……)  だけど触れ合うと、どこか安心する。  キリアの唇が、ついばむように数度吸い付いて、少しだけ動きが止まる。アルスの様子を伺っているようだ。至近距離で目が合った。アルスが受け入れるように目を閉じると、それをよしとしたのか、キリアは隙間からぬるりと舌を差し込んだ。  安心はする。だけど、気持ちよくはならない。ああ本当に自分は神様に恋をしていたのかと、アルスはそこで何度目かの実感をする。  舌の感触を味わっていると、優しい力で肩を押された。背中に柔らかなシーツの感触が広がる。上に乗るキリアは切なそうな顔をしていて、アルスには申し訳ない気持ちが込み上げてきた。 「……キリアさん、あの、」 「今は何も言わないで」  なぜ自分はこんなことをされているのか。そう聞こうと思ったのに、言葉にするより早く阻まれてしまった。 (でも、そんな顔をしてるのに……)  服の裾から、キリアの手が忍び込む。手のひらが肌に触れると、アルスの体がびくりと跳ねた。  あの固い感触だ。微かにざらついたそれが腹から胸へと撫でるように動き、服が引っ張られて胸上まであらわになる。  胸のピンクが見えて、誰にも触れられたことがないとキリアに教えていた。 「……まだかよ……」  キリアの喉が自然と鳴る。何かに耐えるように小さく呟いて、やっぱり外を一瞥した。 「これ以上は……」  じっくりと胸の飾りを見つめていたキリアの体が、誘われるようにふらりと伏せた。胸元に顔が近づき、唇をピンクに寄せる。 「き、リア、さ……」  どうしてそんなところを。言葉にならなかったそれは、アルスの喉の奥で消える。  ちゅう、と柔らかな感触が触れると、アルスの体は途端に熱を持った。そんなところを吸われた経験なんかない。触れられたこともない。まじまじと見つめられたことだってない。  アルスはとにかく恥ずかしくて、胸の飾りに吸い付くキリアの頭を必死に押し返す。 「やめ……!」  抵抗してもキリアは引かない。それどころか強く吸い付いて、味わうように舌先でこね始めた。 「あっ……ぃ、や、キリア、さん」  こんなに嫌がってもやめてくれない。強い力で押さえつけられて、逃げることさえ叶わない。  途端に熱が引いていく。自身の上に乗り上げる男が、アルスには恐ろしいものに思えた。  この男は本当に、あの優しかったキリアだろうか。 「やめてください!」  アルスが叫ぶのと、部屋の窓が砕け散るのは同時だった。  アルスの声はガラスが割れる音にかき消された。テラスに繋がる掃き出し窓が割れたのだけど、破片は飛び散ることもなく、すべてがぱたりとその場に落ちる。嵐で割れたのではない。何かが衝突したような、そんな割れ方ではなかった。 「な、何……?」 「やっとか……」  二人が起き上がってそちらを見ると、曇天から伝説が舞い降りる。  一柱の龍だった。  全身を覆う鱗は黄金に輝き、思わず見惚れてしまうほどに美しい。人間よりもはるかに大きく、キリアの部屋の窓からは瞳しか見えていない。  鱗と同じ色の瞳が、射抜くようにキリアを睨んでいる。それに気付いて、キリアの背も無意識に伸びた。

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