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第9話

「……神様……」  小さく呟いて、アルスはおぼつかない足取りでテラスへと向かう。割れたガラスで足が切れても構わない。アルスはただ、目の前に居るその存在のことしか考えることができなかった。 「……どうして神様がここに……」 『おまえこそ、どうしてここに?』 「え?」  アルスがテラスへと出てくると、神様は鼻先でアルスの体をすくい上げた。するとアルスは軽々と宙に浮いて、そのまま神様の頭の上に乗せられる。落っこちそうになったけれど、すぐ近くにあったかくばった角に捕まってことなきを得た。 「わ! 神様、どこに、」 『帰るぞ』 「で、でも僕はもう神様のところには……」  アルスの言葉に、神様の目はさらにキツくキリアへと向かう。 「ち、違う! 誤解です! 俺は……下心は確かにあったかもしれないけど、アルスを神様のところに帰そうと思って……」 『そんなことはどうでも良い』  何かがぶつかったのかとも思えるほどの衝撃の強い風が吹くと、キリアの部屋の天井が軽々と吹き飛んだ。  ありえない現象ではあるが、それよりもすごい光景が広がっていたために、キリアも思わず言葉をのみ込む。  金色の龍のすべてが見えた。  伝説の中の生き物だと思っていた存在が突然日常に溶け込み、キリアの思考も一瞬停止する。  しかし感動する間もない。神様の恨みを買えばどうなるのか、それが分からないほど馬鹿でもないのだ。 「……やっぱり、アルスはただの『生贄』ではないんですね」  神様がアルスと立ち去る直前、キリアは小さく問いかけた。神様の動きが止まる。少しばかり振り返り、ふんと軽く鼻を鳴らしたけれど、結局何かを言うことはなかった。    *  龍の形になった神様を見たのは、二十五年共にいるアルスにも初めてのことだった。  話には聞いていたけれど、まさかこんなにも大きく立派であるとは思ってもいない。アルスはその頭の上で、やや興奮気味に神様を見つめている。  空を飛んで少しすると、いつもの湖が見えてきた。思い出すのはラズの顔だ。アルスは途端に暗い気持ちになって、いつものように視線を伏せた。  神様はぐんぐんと下降して、湖に近づく。このままでは湖に飛び込んでしまう——アルスが危惧したと同時、神様は頭を軽く振るって、アルスのみを湖に投げ込んだ。  自身は浮上して岩の上で人型に戻る。アルスは泳げない。両手足をばたつかせて沈んでいくのを、神様はじっくりと見守っていた。 「ぶ、は! かみ、っ、」  バシャバシャと激しく水が跳ねていた。けれど神様は動かない。つまらなさそうにアルスを見下ろしている。  そうしてアルスがしっかりと頭の先まで沈んで少し、神様が手を縦に揺らすと、湖からようやくアルスが引き上げられた。 「ごほ! ごほ! は、なん、」  岩に上げられてすぐ、アルスは盛大に水を吐く。それでも大量の水を飲んだ。うまく呼吸ができない。酸素が足りない。肩で息をしても息苦しさから逃れられなくて、無意識に涙が溢れてくる。 「ふむ。匂いは消えたか」 「……は、はぁ、にお、い……?」 「不快な匂いだ。人間に侵されおって」  ようやく落ち着いたころ、アルスはようやく座ることができた。 「……あの、僕はなぜまたここに……」  当然とも言える疑問である。それが神様には気に食わなかったのか、普段は変わらないその顔が不愉快に歪む。 「なぜ? そもそもどうして、おまえは勝手に街になど行った」 「どうしてって……僕は役目を終えたから……」 「役目?」 「僕は『生贄』です。でも次のかたが来られたので、いつまでもここには居られません」  すっとぼけているわけでもなさそうなアルスの目に、神様はとうとうため息を吐く。 「そうだったな。おまえたちは、生贄についての情報をまったく違うものとしてとらえているんだったか」 「……違うもの、ですか」 「生贄たちが何を言われてここに来るかを知っているか」  アルスは生まれたときからこの湖に居たけれど、実は一度だけ人間に会ったことがある。おそらく、近くの村の人間の子どもだった。森で迷っていたのだろう。神域とされるこの付近には普段人間は近づかないのだけど、その少年はアルスを見てひどく驚いていたから、意図せず来てしまったと分かった。アルスが十五の頃である。 「あ、あなたは『生贄』の人ですか?」  やけにキラキラとした目で、少年はアルスを見上げていた。  アルスに「生贄」が神様から寵愛を受けるものだと教えたのは少年だ。少年は「若くて美しい男」が選ばれるという「生贄」に憧れているようで、自分もそうなりたいと嬉しげに語っていた。  生贄になると、神様の恋人のようになれる。そして神様から恩恵を受けて、生贄の役割を終えても幸福に暮らしていける。だから美しくなりたい。神様の寵愛を受けて、一生幸福に生きていきたい。神様にめいっぱい愛されたいのだと、少年はそれと知らずに、何も知らなかったアルスに教えてくれた。  もう十五になっていたアルスは、これから神様に寵愛を与えてもらえるのだろうと疑わなかった。 「……神様の『恋人』のようになれると」 「知っていたのか」  アルスのことをいつも見ていると言うくせに、神様はどうやら少年とのやりとりを見逃していたらしい。神様はやや驚いたように瞠目すると、すぐにふっと目を伏せる。 「真実を教えれば、志願する者など居なくなるからな」 「真実……」 「生贄とはそのまま”生きた贄”だ。瑞々しい生命力を捧げるために、生きている必要がある。特に、若く美しい者が生命力が強いとされた」 「あ、若くて美しい男の人が好きって……」 「女は子を産まねばならんからな。村の人間は男しか寄越さない」  アルスの隣に腰掛けると、神様は湖へと視線を落とす。 「神には生命力など必要ない。しかし、神域を守るには生命力が必要だ。——この湖は生命力によって清められている。人間の『生命力』という目に見えない『力』は強く、神域を美しく保つには不可欠だ」  アルスもつられて湖を見下ろした。確かにここの湖はどこのものよりも美しい。ほかを知らないためにアルスには分かり得ないが、知っている者が見たのなら思わず見惚れてしまうことだろう。 「——ラズ、さんは……」  気付いて、アルスがようやく吐き出した。  アルスがここに戻ってきてから、その姿を見ていない。あれほど神様にべったりとひっついていたというのに……居ないというのはどうにも違和感がある。 「言っただろう。……神域には、生命力が必要だと」  とっさには何も言えなかった。アルスは口をはくはくと開閉して、最後には唇を噛み締める。 「それなら……僕はどうして……」 「そもそも生まれたときからここに居るなど、おまえはそこから規格外だ。あまり深く考えるな」 「考えるなって、そんなの無理ですよ! だって僕はもう生贄の本当の役割を知って、」 「どうでもいい」  神様につかみかかろうとしたアルスの手を、神様が強く握りしめた。そうしてアルスを岩に押し倒すと、いつものようにじっと静かにアルスを見下ろす。 「……おまえが出て行ったことを知って、もしかしたらずっと、私から逃げたかったのではないかと思った」 「っ……! そんなことはありません!」 「昔から外に興味を持っていただろう」  外が気にならなかったと言えば嘘になる。だけど決して、神様から逃げようとしていたわけではない。 「……だから触れられなかった。いっそ体を繋げてしまえばいつどこででもおまえのことを把握していられるのに、おまえが逃げ出したとき、それを見続けなければならないことに耐えられなかったからな」 「……把握って……神通力のことですか?」 「そうだ」  神通力は、特別な条件などなくとも神様がいつでも使える力ではなかったのだろうか。  何も知らないアルスは素直に、パチパチと目を瞬く。 「そもそも私が人間の食事を知らないと、本当にそう信じていたのか?」 「えっ、だって神様がそう言って……」 「そうでも言わなければ、おまえは私からの口付けを受けなかっただろう」  どうだろうか。アルスは少し考えてみたけれど、神様のことを心底信頼しているから、何も言われなくても受け入れたのではないかなと思う。気付いたのが少し前だったというだけで、アルスはきっと、ずっと神様に恋をしていた。そんな神様の言葉を拒否するわけもない。  だけど神様はそうは思わなかったのか、尚も伺うようにアルスを見下ろしていた。 「……口付けだけでは、見れる範囲に限度がある。気配は分かるのに、どこに居るのかは明確には分からない」  迎えに行くのが遅くなった。  そう続けて、神様は苦しそうに眉を寄せた。

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