22 / 61
第22話
丘を越えカクタスタウンに到着したピジョンは疲労困憊だった。
「はあ、はあ、はあ……」
全身汗びっしょりだ。スワローと違って運動音痴で体力のないピジョンに数キロの全力疾走は辛い。顎を滴る汗をシャツの裾で拭い、膝に手をついて苦しい呼吸を整える。自分はきっと今死にそうな顔色をしてるに違いない。
空には灼熱の太陽が輝いている。時間帯は昼、砂塵吹きさらしの街路は人通りが多く活況を呈す。
スワローはどこほっつき歩いてる?
勘の赴くまま片っ端から路地や店舗を覗いていくがどこに雲隠れしてるのかさっぱり見当たらない。
ピジョンと喧嘩したスワローが短気を起こしてプイと出ていく事はこれまで腐るほどあった。放っておいても腹が減ったら勝手に戻ってくる、最短二時間最長半日の家出だ。
スワローは名前通り自由奔放な風来坊で束縛を何より嫌う、誰もアイツを繋ぎ止めておくことなどできない、実の兄のピジョンにだって無理な相談だ。
不吉な胸騒ぎと焦燥に駆り立てられ、薄汚れたスニーカーを突っかけた足を交互に蹴りだす。足を前後に蹴りだすつどくたびれた靴紐が舞って側面を叩く。午後になり上昇する一方の気温に加え、モッズコートを羽織ってるせいでサウナのように蒸し暑い。
スワローはどこだ?忙しく視線を飛ばし老若男女行き会う人ごみに目立つ容姿をさがす。雑貨屋、本屋、ドラッグストア、アダルトショップも覗いてみる。どこにもいない。最後の店を確認するときは入り口の柱に隠れて細心の注意を払った。
「うげえっ!」
もう限界。
走りすぎてえずき、そばの建物の壁に凭れて一息つく。
「は、吐きそう……」
顎を伝う汗をくりかえし拭い、モッズコートの裾を地べたに広げてしゃがみこむ。
道の片隅で力尽きしゃがみこむ少年に、迷惑そうな一瞥を投げてよこし避けていく通行人たち。
ピジョンは考える。
「……冷静に考えれば、街に行ったからって殺人鬼とはちあわせるわけないか」
雑誌の記述を思い出す。
レイヴン・ノーネームは全国で犯行をくりかえしながら十数年間逃亡を続けている、それなりに用心深い性格ということだ。
この街に潜伏しているのが事実としても、リスクを犯して新しいターゲットを狙うだろうか。捕まるのがいやならしばらくじっとしてるんじゃないか?
「金髪の男の子なんて他にも沢山いるしあいつが好みドンピシャかもわからない。この街には何百人も人がいて、潜んでる殺人鬼はたった一人なんだよ。そいつとあいつが惹かれあう確率ってどのくらいさ?」
……とんでもない馬鹿になりさがった気分だ。
元を正せば雑誌を見たピジョンが勝手に思い込み先走ったのだ。スワローに殺人鬼の魔の手が迫っているんじゃないか?荒唐無稽な想像、否、妄想の域だ。そんな根拠どこにもない、しいて挙げれば犠牲者の条件がアイツと大雑把に合致してるだけ。
「それ言ったら俺だって金髪だし、すれ違う人だって何人かは金髪だよ」
額にはりつく金髪を一房つまみ、通りにごった返す人々の中の金髪の持ち主を振り返る。
頭にのぼった血がスッとおりて、急激に冷静さが舞い戻ってくる。かわりに猛烈な羞恥がぶりかえし、一人動転し妄想に駆られた醜態にいたたまれなくなる。
「そうだ、心配しすぎだよ。アイツだってもう11、喧嘩も強いし口も立つし俺なんかよりずっとしっかりしてる。ほっとけば勝手に帰ってきたんだ、むかえにきてやる必要なんてこれっぽっちもなかった、燕にだって帰巣本能はあるじゃないか」
アイツに振り回されるのは慣れてるけど、今回は俺が悪い。神出鬼没の殺人鬼と弟をすぐさま結びつけ早合点する、心配性と過保護をこじらせたが故の発想の短絡さが敗因だ。
とはいえ、雑誌の情報を信じるなら一抹の不安要素は捨てきれない。
この街のどこかに凶悪な殺人鬼がいる。
少年を犯して殺し遺品を剥ぎ取る変質者がいる。
そう念頭において見回すと、今まで何気なく目にしていた景色が別物に映る。すべてを暴き出す太陽の下であらゆる人や物の輪郭が不吉に翳り、日常に擬態した悪意が禍々しく蠢く。なんだか空気まで薄まったようで息苦しい。
「……馬鹿だなァ俺。ほんっと馬鹿」
いつまでもしゃがんでちゃ人に怪しまれる。
コートのポケットに手を突っ込みとぼとぼと歩き出す。通りを歩きつつ怯えた目つきで周囲を窺う癖がぬけない。またいつ街にはびこる不良連中に見つかって袋叩きにされないとも限らない、早く移動しよう。
目的を見失ったピジョンはこれからどうするか考える。トレーラーハウスに帰る?ご機嫌な母にトカゲをさばく手伝いをさせられるのはいやだ、鱗にさわりたくない。母さんてば、シリアルや缶詰ばかりじゃ栄養が偏るでしょうとショットガンを持ち出しちゃ蝙蝠だのビーバーだのゲテモノを狩ってくるんだから毎度いい迷惑だ。辛うじて息があったネズミは逃がしたけど……夕方まで時間を潰さなきゃ……
そうだ。
「せっかく近くまできたんだ、寄ってこう。何か困っているかもしれないし」
大通りを逸れて入り組んだ路地を歩く。
景観が次第に寂れ、崩れた壁や傾いだ屋根をはじめとする貧しく荒廃した街並みが目立ち始める。
窓から窓へ渡されたロープに洗濯物が干され、何か物が割れる音やヒステリックな女の悲鳴やそれに応じる男の罵声、甲高い赤ん坊の号泣が、洗濯機の唸りやラジオの音声と攪拌され、ひびをテープで裏張りした窓越しに喧しく響く。
スラム街特有の猥雑な騒音の渦が、実の所ピジョンはそんなに嫌いではない。街に定住する人々の生活を身近に感じ、憧憬に似た感情を呼び起こされる。
「こんなにうるさかったら隣に殺人鬼がいてもわからないね」
目的のアパートに到着、針の折れた注射器や空き瓶が散乱する汚い階段を小走りに駆け上がる。
同じく不衛生な廊下を歩き、一軒のドアを礼儀正しくノックする。
「ごめんください」
数十秒の沈黙。留守かなと首を傾げる。
少ししてドアが開き、茶髪の紳士が歩み出る。これといって特徴のない凡庸な顔立ちだが、ピジョンのようなよそからきた子どもにも丁寧に接してくれる誠実な人柄は信用がおける。突然の来訪に青年は軽く目を瞬く。
「誰かと思えばピジョンくんじゃないか。今日はどうしたの」
「たまたま近くまで来たんで何か用はないかなって」
「気にかけてくれてありがとう、こないだ行ってもらったから当面は事足りるかな。いつも悪いね」
「いいえ、俺が好きでやってることだから気にしないでください。足の調子はどうです?」
「最近はいいよ。今日はちょっとそこまで散歩にでかけたんだ」
「よかった」
「この街の気候がいいのかな……うん」
男が気さくに微笑みかける。平凡な容姿の中、無糖のコーヒーを思わせる純黒の瞳だけが吸い込まれそうに深くミステリアスで底を見せない。
なんだか不思議なひとだ。
彼はピジョンが買い出しを代行してる住人のひとり。まだ若いが左足が悪く、歩行時は杖が欠かせない。物腰は極めて優しく紳士的、対応は誠実。おまけに他のだれより礼金を弾んでくれるので、ピジョンはこの男を大いに好ましく思っていた。
大人も子どもも差別なく扱う、将来はこんな人になりたい。
ドアを背に立つ男と向き合い、ついでのように話を持ち出す。
「そういえばこのへんで弟を見ませんでした?」
「ああ、前に話してた|反抗期《ギャングエイジ》の?」
「ちょっと喧嘩しちゃって、それでとびだしてったきりなんです。どうせお腹が空けば帰ってくると思うけど……」
「さしでがましいようだけど喧嘩の理由は」
「えーと……つまらないことです。あいつがいつもみたいに俺のこと馬鹿にして、俺のスリングショットをひったくったもんだからカチンときて。こっちもついキツいこと言っちゃって……」
喧嘩というか、実際は一方的にいじられていじめぬかれただけなのだが。
実の弟に好き放題体をさわられて勃ってしまっただなんて、尊敬する大人には口が裂けても言えない。
ばつ悪そうに頭をかきつつ白状するピジョンを、男は冗談めかした口調でなだめる。
「売り言葉に買い言葉ってヤツか。君たちくらいの年頃にはよくある事さ、どんまい」
「俺も悪かったんだけど……」
「僕がいた孤児院では子どもの喧嘩なんてしょっちゅうだったよ。毎日だれかが怪我をして先生たちを手こずらせていた」
「レーヴェンさんは孤児院育ち……だったんですか?」
後半にいくにしたがって声が小さく萎んだのは遠慮が働いたのか、レーヴェンに配慮したのか。
ピジョンの気遣いを察したレーヴェンが感謝の微笑を投げかける。
「いまどき親のいない子は珍しくもない。僕がいた孤児院も殆どそうだったよ、里親の手に負えなくなって突き返された悪ガキもいたけどね。あそこも今となっては懐かしい。大部屋にぎゅうぎゅう詰め込まれた痩せっぽちのちびすけたち、狭くて固い鞘のようなベッド、天井裏と床下からひっきりなしに聞こえるネズミの鳴き声……」
「ベッドは広くて柔らかい方が断然いいですよね。できれば一人で使いたい」
「よくわかるよ。そんな天国とは言いがたい環境だったけど、なんとかこうして大人になれた。そうそう、あの孤児院には面白い制度があってね。先生がお気に入りの子をご奉仕係に指名するんだ」
「ご奉仕係?」
「先生の個人的なお手伝いをしてくれる子さ。頑張った分だけ雑用を免除されたりご飯をおまけしてもらえるんだ」
「へえ……いいなあ」
自分には縁遠い孤児院の内部事情を熱心に聞く。
ピジョンには優しく逞しい母がいたから孤児院に捨てられずにすんだが、昔懐かしむ目をしたレーヴェンの身の上話を聞いてるとそこまで悪い場所でもないように思えた。話術の巧みさとにこやかな表情が印象を和らげるのだろうか。
「頑張った分だけ報われるなら少なくとも努力は無駄じゃないですね」
「先生に褒められたくて足腰立たなくなるまでお手伝いに精出す子もいたね」
「それは頑張りすぎかな……」
「体を壊しちゃ元も子もない」
「ご褒美めあてに希望者が殺到するのはわかるけど」
「さしずめ君は僕のご奉仕係かな?」
レーヴェンが茶目っけたっぷりに片目を瞑り、おもむろにピジョンの頭をなでる。
柔く繊細な猫っ毛に指を通しかきまわされ、ピジョンはちょっとうろたえる。母以外の大人に頭をなでられるのは随分と久しぶりだ。レーヴェンの手は温かく心地よい、ピジョンよりひと回り大きく骨ばった手からは父性的な包容力すら伝ってくる。もう14にもなるのに大人しくされるがままで、恥ずかしさとくすぐったが綯い交ぜになった喜びがじわりとこみ上げる。
「ありがとう、ございます……」
俯き加減にか細く礼を述べ、頬にさした赤みを悟られないようにますますうなだれる。
「俺なんかでも役に立てたら嬉しいです」
「その『なんか』ってのはよしてもっと自信を持ちなさい。君はひとを思いやれるすごく立派ないい子なんだから。口には出さなくても君に感謝してるひとはこの街に大勢いる、胸を張っていいんだよ」
「…………」
「頑張ったぶん報われる。絶対に」
誠実に澄んだ純黒の目に、泣き笑いに似てむず痒い表情で俯く少年が映りこむ。
レーヴェンの手は気持ちよくてずっとなでてもらいたくなる、この人に甘えていたくなる。
父親というものを知らず、人に甘えるのがとても下手なピジョンの臆病すぎる心にレーヴェンの叱咤激励は直に響く。
こんな人が父さんだったら。
いや、それは無理でも友達だったらどんなにいいだろう。
「あ……忘れてた。これ弟の写真です」
トレーラーハウスを飛び出す間際、壁からひっぺがしてポケットに突っ込んだスワローの写真を見せる。受け取った写真にじっくり目を通し、レーヴェンが素朴な感想を述べる。
「……もっといいのなかったの?」
「それがいちばん写真写りいいんです」
「君の頭足蹴にしてるけど」
「サッカーボールと間違えたんじゃないかな。わざと」
「聞きしに勝るやんちゃぶりだ」
レーヴェンが穏やかに写真を返し首を横に振る。
「ごめん、やっぱり知らない。こんなに綺麗な子なら一目見たら覚えてるはずだけど」
「アイツめ、兄弟の縁を切るって言って出てったからもう2・3時間は帰ってこないな」
「それだいぶ怒ってない?」
「82回目なんで。100回目は逆に絆が強まるとかいい子になるとかサプライズがあると思ってます」
スワローの絶交宣言をいちいち本気にしてたら体がもたない。
「前回はアイツの煙草を雨上がりの更地でドミノ倒しして絶交されたっけ」
「何故そんないやがらせを?」
「いやがらせじゃないです。どんだけうるさくいっても煙草をやめないから強硬手段に訴えたんです」
これだけは譲れないと断固主張する。
「ちなみに箱じゃなくて、本です」
人さし指をまっすぐ突き立てる。雨上がりでしけった地面に煙草を一本一本並べていくのは酷く根気のいる作業だったが、ピジョンは弱音を言わず最後までやりとげた。だれも褒めてくれないから自分で自分を褒めてあげたい。
レーヴェンがいつのまにか可哀想な子を見る目になっている。
「……強く生きてね」
目線の高さを合わせたレーヴェンがピジョンの肩を叩いて励ます。よくわからないが神妙に頷いておく。
「そうだ、君に大事な報告があったんだ」
「なんですか」
「この街を離れようと思う」
「えっ?」
自分でも戸惑うほど動揺している。レーヴェンは相変わらずにこやかにピジョンの肩に手を添えたまま、汚い廊下の遥か先に繋がる新天地を見る。
「急にどうして?」
「元々僕は一か所に長居しないタチなんだ。この街にはもう数か月滞在してる、そろそろ別の場所をスケッチにいきたい。インスピレーションの枯渇は絵描き生命の終焉だからね、思い立ったら吉日さ。まだ見ぬ新しい土地と出会いが僕を呼んでる。君には大変お世話になったから、こう言うのは心苦しいけども……ちゃんとお別れを伝えておきたくて」
「そんな……」
絶句する。突然すぎて思考が追いつかない。レーヴェンはこの街で一番最初に親切にしてくれた人だ。なんでも気さくに話しかけてくれて、ピジョンの知らない世界の出来事を面白おかしく伝えてくれて、すっかり心を許しきっていた。主たる成人男性といえば母の客としか交流を持たずにいたピジョンにとって、レーヴェンは心の底から手本としたい理想の大人だった。
レーヴェンがいなくなるのは寂しい。が、彼が決めたことなら旅立ちを祝さなければ。
ピジョンの微妙な葛藤を読んだようにレーヴェンが再び手を伸ばし、彼の頬をさりげなく包む。
「僕だってせっかくできた友達と離れるのは寂しい。けれどしかたないんだ、わかってくれるね」
「……とも、だち?」
「ちがう?」
生まれて初めて「友達」といわれた。生まれて初めて「友達」ができた。
年は離れてるし俺よりずいぶん上の男の人だけど、俺のことを「友達」って今そう言ってくれた。言ってくれたよね?
「………ッ!」
14年近く生きてきて友達ができたのは生まれて初めて、友達になってほしいとむこうからお願いされたのも生まれて初めて、レーヴェンこそ旅先で巡りあった記念すべき最初の友達だ。
歓喜と感動が体の芯を貫き、おもわずモッズコートの胸元を掴む。レーヴェンの問いにはぶんぶんちぎれんばかりに首を振り、興奮しきった面持ちを火照らせ一気にまくしたてる。
「俺あのその、グズでノロマでドジでグズでネクラで全然いいとこないし役に立てなくて、こないだなんか紙袋破いてりんご落としちゃったし、おかげで傷んじゃったし、俺がしたことでひとに喜ばれるとか褒められるのあんまなくて、そんな自分が情けなくてウンザリで、けっきょく何やってもアイツにかなわなくてけっこう落ちこむこととかあったんだけど」
ああ何を言いたいんだ全然まとまらないぞ頭を冷やせ、レーヴェンさんがきょとんとしてるじゃないか。
でも最後まで伝えなければと恥ずかしさに挫けそうな意志を引き締め直し、まっすぐ顔を上げて一息に言いきる。
「でもっ、そのっ、そんな俺を友達だって言ってくれて、すごいうれしい……」
「……です」と、今にも消え入りそうな弱弱しい声音を語尾に付け足す。
ばかばかいくらなんでもテンション上がりすぎだ絶対引かれた俺のばか、自分をぶん殴りたい!どん引きされたのではないか不安がって薄目を開いて窺うピジョンの前で、レーヴェンが快活に笑い転げる。
「友達にこんなに一生懸命お礼を言われたのは生まれて初めてだよ」
よかった。温かい安堵の念が胸裏を満たし、ようやく弟に自慢できることを一つ見つける。
友達を作るのは、俺の方がすこしだけ早かったね。
「あの……一つおねがいがあるんですが、いいでしょうか」
「友達の頼みだ、僕にできることならなんでもするよ」
言うなら今しかない、今なら言える。まだ笑い止まず腹を抱えるレーヴェンへと詰め寄り、ありったけの勇気を振り絞って前々から密かに温めていた計画を実行に移す。
「引っ越し前にアトリエを見せてもらっていいですか?」
限界まで膨れ上がった風船が弾けるような唐突さで笑い声が止んだ。
ともだちにシェアしよう!