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第30話
「んぐっ、ふぐっ、う゛ーっ!」
怒号のかたまりが喉に詰まる。
11年と少し生きてきた中で吸収した罵詈雑言を思いつく限り撒き散らしても聞こえないのでは意味がない。
声を出すたび下腹が引き攣れ出血が激化、息を吸って吐くだけで内臓が圧搾される拷問に喘ぎ疲れて喉が干上がる。
尻にナイフが突き立っている。
暴れた拍子に何かの間違いでボタンが押し込まれればワンタッチの死が待ち受けお手軽に地獄に逝ける。
それにも増して目に映る光景の倒錯の極みの猥褻さに打ちのめされる、強姦魔に犯されて狂気じみた妄想の餌食にされた現実が幼い精神をズタズタに引き裂く。
シーツは血まみれだ。
だからどうした、今さら血ぐらいでびびったりしねえ。
シーツの上に歯が転がっている。
それがどうした、たかが歯だ。ケツに突っ込まれたって痛くも痒くもねえ。
「んんっ、ん」
痛い。気持ち悪い。
熱病にかかったようにぞくぞく悪寒が走り抜け、勝手に体が震える。
イきてェ、破裂しそうな前を持て余す射精の欲求が雑念を蹴散らし思考を真っ白に蝕んでいく。
スワローは考える、狂おしい射精の欲求と尻に刺さった異物感から意識を逸らすため必死に考える。
自分が今されてる行為はレイプですらない、あの変態にとって友達になる前の相手は玩具と一緒、アイツは俺を使ってオナニーしてるだけだ。殺人鬼の頭の中にあるファンタジーを補強する為の自慰行為。
玩具に自我などいらない、あれこれ考える頭もましてやプライドもいらない。
「んぐぅ、う」
胃袋が痙攣する。もう何度目かの嘔吐感がせりあがる。
胃は空っぽで吐く物もないのに……猿轡を噛まされたまま吐いて窒息死したヤツを知ってる。同じように殺人鬼に監禁され犯された少女だ。顔を横に倒し、せめて詰まらないようにする。嗚咽じみてみっともない喘ぎ声が聞き苦しい。剥き出しの尻に深々刺さったナイフがうそ寒くて笑える。縛られたペニスが我慢汁を零し、脈打って腫れあがっていくのがグロテスクだ。
自分の体一つ自由にならない、まともに声すら上げられない。
生まれて初めて味わう屈辱、闇の中でどす黒く膨れ上がって自我を溶暗する恐怖……
それでもびびってると認める位なら死んだ方がマシだ。
表でレイヴンが誰かと話してる。
聞き覚えある声……ジェニーか。無事逃げられたのか。何の用だ?俺が監禁されてるのに気付いて助けにきた……まさか、都合いい妄想だ。万一予想が当たっていても今のこの醜態を見られる位なら死んだ方がマシだ。
『尻にナイフ突っ込まれて汁まみれでよがってるところを救出されたい?』
「ぐぅ……」
絶対に叫ぶか、命乞いなんざ死んでもするか。
この姿を見た少女はなんていう、どんな反応をする?驚愕、嫌悪、幻滅、落胆……一番耐え難いのは同情だ。初恋は冷めるだろう。スワローは他人に同情されるのが嫌いだ。大嫌いだ。可哀想だと思われる位なら舌を噛み切って死んだほうがマシだ。猿轡は自殺も許してくれない。
思考時間が極端に引き延ばされる。
現実の時間と体感時間にズレが生じる。一分一秒が苦痛を増幅する生き地獄だ。
手が自由なら狂ったようにしごきたてたい、後ろに突き立ってるモノを抜きたい。中を抉られ内臓が引き攣る感覚が凄まじく気持ち悪い。前を縛った包帯は我慢汁の吸いすぎてぐっしょり湿って纏わり付く。
なんであの時頸動脈を噛み切らなかった、舌を噛み切ってやらなかった、唯一逆襲できるチャンスだったのに。
話し声が切れ切れに聞こえる。早く戻ってコレを抜いてくれ、前をとって後ろをとってラクにしてくれお願いだから。意志を裏切って腰が勝手に上擦る、柄をもっとも感じる奥に当てようと浅ましく腰を振る。体を横にして前を無茶苦茶にシーツに擦り付け、毛を逆立て威嚇する猫よろしく間延びした息を放って絶頂を疑似体験しようとする。
「ふっ、ふーッ」
母さん。
もう会えないのか?あの見た目グロくて味がエグいゲテモノ料理は二度と食えないのか?
かすかな物音と共に移動する気配。
レイヴンが帰ってきた?びくりと体が強張る。猿轡の隙間からしょっぱい水がもぐりこんでくる。哀しくない。怖くない。俺は泣いてないし、泣く理由がわからねえ。泣くのは媚びる事だ。あのクズに媚を売る事だ。そんなこっぱずかしいマネするくらいならナイフの刃で腹ン中ズタズタにされるほうがなんぼかマシだ。
「スワロー?」
とうとう幻聴まで聞こえだした。
兄貴の声がする。
おっかなびっくり人の機嫌を窺う卑屈に媚びた声色、俺の大嫌いなお人よしの……
「スワロー!」
名前を呼ばれる。いい感じに茹で上がった頭が勝手に走馬灯を上映する。なんで俺はスワローなの母さん?燕はすごく速く飛んで鳩はとっても長く飛ぶの、二人が組めば無敵でしょ?どこまでも遠くへ行ける最強コンビよ。そうだな、撃ち落とされなきゃな。
「スワローしっかりしろ、俺だよ、助けにきたよ」
神経質に細い指先が耳朶に触れて安全ピンを一本抜く、すぐ耳元で鳴る金属音に独り言が追随する、手錠の鍵穴にピン先を突っ込んでかちゃかちゃやってる。
ついで手錠と手首の間に冷たい液体が流れ込み皮膚を濡らしていく。
「このタイプならイケる。母さんのお客に空き巣がいてよかった」
誰かがベッドに飛び乗ってスワローの上に覆い被さる、すべらかな手が頬を包んで抱き起こす。
ブレていた焦点が定まり、鼻先に迫る顔が浮かぶ。
目を真っ赤にして涙ぐんだ兄がいる。
ものすごく久しぶりだ。またべそかいてんのかよ、泣き虫め。
大量の涎を吸った猿轡がとりのぞかれる。ふやけきった包帯がはらりと床に落ち、多少違和感は残るが口も動く。両手も解放された。
高熱を出したように意識が朦朧とし、現実と悪夢の区別がつかない。
悪夢だろうが何だろうが、今目の前にピジョンがいる。だったらやることはひとつだ。
猿轡が解き放たれた次の瞬間、瀕死の吐息のはざまから掠れた罵倒が迸る。
「この遅漏野郎」
「だからごめんて」
「俺の鳩クソ役に立たねェ」
ピジョンが悲しそうな顔をする。そのツラを見るとめちゃくちゃにしてやりたくなる。
腹の底で爆ぜた暴力衝動に駆り立てられ、鋭い犬歯を剥いて肩に噛み付く。
「!?っう、くっ」
コートの肩に犬歯を突き立てられる激痛にうろたえるも咄嗟に声を殺す、歯を食いしばり顔を赤らめて懸命に我慢する、表で会話中の二人に悟られないために。
その間もピジョンはずっとスワローの顔を抱いていた。
涙と涎と吐瀉物と、何だかよくわからない汚い体液でぐちゃぐちゃに汚れた顔をかき抱いて自分の胸におさえこむ。
胸元で熱い吐息がこもり、互いの鼓動と体温を共有する。
「-痛ッぐ……」
スワローは噛みついたまま離れない、引き剥がされるのを全身で拒絶し離れようとしない。
ピジョンは痛みに顔を顰めながらモッズコートの袖口で弟の顔の汚れを甲斐甲斐しく拭ってやる。
お前が出したものならちっとも汚くないといわんばかりに、生傷と汚濁まみれの体を丁寧に拭き清めていく。
自分を噛んでいる間だけ弟は大人しい。
頬を擦る袖の感触がこそばゆいのか、スワローの目鼻立ちが頼りなく歪む。
「……きったね……テメェが洟かんだ袖で拭くなよ」
「ガマンして」
まるで小さい子どもの世話を焼くよう吐瀉物をこそぎ、涎と涙の生々しい痕跡を拭きとり、仕上げに目尻の涙を直接啜る。
唇を額に移し、真ん中にキスを落とす。
母親が子供を寝かしつけるのに似た、安心と勇気を吹き込むおまじない。
額に触れる唇がスワローの脳を茹らせる悪い熱とおぞましい記憶を吸いだしていく。
その姿はまるで傷をなめ合うつがいの子猫だ。
モッズコートをばさりと舞い上げ、互いに寄りかかる弟と自分を覆い隠す。
こうすれば意地っ張りな弟が泣き顔を見せずにすむ、毛嫌いする俺に泣き顔を見せずにすむ。
「よくがんばった」
俺なんかに泣いてるところを見られるのはいやだろうから。
コイツのプライドが許さないだろうから。
モッズコートで弟をすっぽり包み、ささやかな暗闇の中、その小さな頭をやさしくなでまわす。
「お前はいい子だ。世界一の頑張り屋さんだ」
「………っ、」
一瞬でいい、コイツが安心して弱さを許せるように、弱みを見せられるように仮初の暗闇を作る。
サイズがでかすぎるモッズコートを空気を孕んだ翼の如く広げ、暖かく安全な鳩の巣を作る。
その暗闇にふたりして逃げ込んで、片手で弟の前髪をかきあげ、暴かれた額を啄む。
スワローは胸元に顔を埋め、兄の匂いを胸いっぱいに吸い込む。少し汗臭い。
兄の匂いをたっぷり嗅ぎ、漸く正常な呼吸の仕方を思い出す。
激情の発作を鎮める懐かしく酸っぱい匂い……肉体的な痛みすら緩和してくれる。
肩が不規則に震え、身体が痙攣し、ぎくしゃく不器用にピジョンの背に腕を回す。
無我夢中でしがみつこうとし、じれったげに開閉した手を意固地に握り込み、ピジョンの上腕あたりにやむをえず着陸させる。
コイツは縋り付き方を知らない。
行き場を失って、迷子になりかけて、小さく震える拳が痛ましい。
「……靴紐結べた位でいい気になってんじゃねェ」
「うん」
「俺は五分でマスターした」
「ちょっとサバ読んでない?」
「俺の方がなんでもできるしお前より強ェ」
「うんうんお前のほうが強くてなんでもできてえらくて女の子にモテてかっこいい。スリングショットも一発でマスターしたし大人数の喧嘩も楽勝だしその悪趣味な刺青とピアスも背伸び勘違いかっこいい」
「殺すぞ」
強く肩を殴られる。本気で痛い。スワローはピジョンの胸に突っ伏したまま、珍しく躊躇うそぶりをする。
「……あのさ」
「うん?」
「順番間違えてんだよッ、頬ぺた拭いてよしよしする前にもやることあんだろーがあほんだらッ……」
「あ」
スワローが耳の先まで真っ赤だ。慌てて体をひっぺがし、やんちゃにそそりたつ弟の股間と直面して凍りつく。
「こ、これどうしたら?」
「ちんたらやってねーでほどけよ!」
「なんかすごいことになってるけどさわって大丈夫?びくびくしてるよ。血管浮いてる……痛そう……」
「いッ……限界っ……はやく、抜けっ……」
顔を背けがちに手を動かし包帯をほどけば、ペニスが勢いよく跳ね上がって白濁をとばす。
「――――っああ!!」
「うわっ!?」
塞き止められていた分射精の快感は強烈だ。一度ではすまず二度三度と間欠的に白濁が迸り、ペニスが弓なりに反ってスワローの痩せ腹をべとつかせる。ピジョンの顔面に粘り気がはねる。咄嗟の事で避ける暇もない。頬に飛んだ精液を袖口でくりかえし拭き取り、ピジョンが今にも泣きだしそうに情けない顔をする。しかしすぐ迷いを断ち切り、苦しげに息を荒げるスワローの窄まりをさぐりだす。
「ちょっと痛いよ」
「もう慣れたよ」
「噛んでて」
ピジョンが真剣な目でコートの裾をスワローに咥えさせる。スワローが大人しく従ったのは声を堪えきる自信がなかったためだ、それほどまでに予期される激痛は凄まじい。
互いに声を殺して囁き合い衝撃に備える。窄まりの奥深く突き立った柄を掴み、圧迫感をやりすごして一気に引き抜く。引き裂かれた下肢から勢いよく血が滴り、モッズコートに点々と染み付く。
「~~~~~~~~~~ッ!!」
コートの裾を噛んで絶叫を噛み殺すスワロー、体内を抉り抜かれる痛みに全身が跳ねる。死ぬ気で絶叫を殺しきり、勝ち誇った顔を上げたら、ピジョンが酷く青ざめて座り込んでいる。そうだコイツは血が苦手だった。全身にびっしょり脂汗をかき、慄然と目を剥いた様子が不気味だ。
「……目ェ開けたまま気絶してンの?」
「そんな暇ないだろ」
疑い深く問えば片方の拳をゆっくりと開いて見せる。ピジョンの手のひらに安全ピンが刺さっていた。
コイツを握りこんで正気を維持したのか。
「お前の手錠もコイツのおかげでどうにかなった。あとローション」
「は?」
「覚えてない?母さんの手錠でイタズラしてて外れなくなった時ローションを使ったの」
「あ」
「ローションで滑りをよくして、ふたり息を合わせてずるって。空き巣のおじさんに教えてもらったピッキングのコツも役に立った、雑誌の手錠抜け講座もね」
思い出した、あの時は母が愛用するローションで手首を濡らし何とか手錠から腕を抜いたのだ。子供の細い手だったのも幸運に働いた。
ピジョンが安全ピンの切っ先で指の腹をつつき複雑な表情をする。
「お前が耳をピンだらけにしてるのこーゆー時のため?」
「ヘアピンで錠が開くなら安全ピンだってヨユーでイケんだろ。武器にもなる」
風穴が増えた耳たぶを摘まみ、適当うそぶいて怪しむピジョンの追及をのらくらかわす。
今は強がりでもいい、ピジョンの間抜け面を見たおかげで軽口を叩いて不敵に笑える気力と体力がほんの少し回復する。
ピジョンはてきぱきと脱出の準備を始める。ベッドに敷いたモッズコートを羽織り、蹲ったまま激痛の余韻に耐えるスワローを気遣わしげに見やる。
「歩ける?」
「無理って言ったらおぶってくれンの」
「無理」
「お前かよ」
「体力ないから無難に二人で行き倒れだよ、がんばって歩いて」
「表のアレ、あの女も共犯?」
「協力者って言えよ、お前の救出を手伝ってくれたんじゃないか……」
ピジョンがあきれかえる。スワローに肩を貸して立ち上がらせ、入り口へと向かいかける。
「よく合図に気付いたな」
「飴玉だろ。話せば長くなるからあとで説明する……寝たフリでもしてたの?あんな回りくどい手使うなら叫べばいいじゃないか、ここに殺人鬼がいますって」
「骨折り損のくたびれ儲けってわかるか?一方的にヤられて犠牲者のレッテル貼られるこった」
話が飛躍する。ショッキングな体験の後遺症でおかしくなってるのだろうか。
脈絡のない発言を不審がる兄の耳朶でスワローが何かを囁き、ピジョンの顔色が豹変する。
露骨に取り乱し、肩に凭れた弟を振り落とさんばかりにうろたえきった声を張り上げ……るのはやめて、小声で怒鳴るという器用なまねに逃げる。
「ばっ……そんなこと考えてたの?本気で?頭おかしいよ!」
「計画は続行中。ヤられちまうのは計算外だったが……おせーよもっと早く来いよクソ鳩」
「俺はいやだ、ここにくるのだって大変だったんだ、あの子たちに協力頼んで……」
「馬鹿正直にドアから出るのか?もうアイツが帰ってくるぞ、お前とはちあわせたら犠牲者がもう一人増えるな。で、俺たちゃベッドに仲良く並んでヤり殺されるってわけだ。息子を一気にふたり亡くして母さんが哀しむな」
「…………っ、」
「なあピジョン」
肩に凭れかかる体が重みを増す。
スワローがコートの胸ぐらを片手で掴み、もう片方の手でピジョンの首を抱き寄せ、衰弱しきった青白い顔に不釣り合いにふてぶてしく挑戦的な微笑を拵える。
「『俺達』の初仕事にしちゃなかなか上等じゃねーか、このシチュ」
葛藤は長くは続かない。
ジェニーを追い払った靴音が居間を横切り戻ってくる、床板を軋ませ着々と接近してくる。
左足が不自由らしく片方の靴音だけ妙に重い。ピジョンは弟に怒鳴りたいのを辛うじて堪え、スワローを引っ張ってベッドの下に急ぐ。ベッドの下には小柄な少年ふたりが潜めるだけの空洞がある。
ベッド下の隙間にまず弟を押し込んで、スワローを体の影に隠すように滑り込む。コートの懐をさぐってスリングショットを取り出しゴムを伸縮、床に目を滑らせ弾丸をさがす。あった。目線の先に純銀のジッポライターが転がっている。
断末魔じみた高音域の軋り音をあげてドアが開き、居間の光が細くさしこんでくる。
逆光を背に黒々と塗り潰された影が無防備に敷居を跨ぐ……
「待たせた……」
今だ。
皆まで言わせずスリングショットを構える。
迷いはない、迷ったら死ぬ。
居間からさす光の帯を頼りにスリングショットを構え限界ぎりぎりまでゴムを引き番えたライターを発射、床の定位置から脛に狙いを定める。
命中。
男が杖を取り落とし頽れる。続けざまに二打目、今度は直接缶切りを掴んで投げるもレイヴンが画架を盾代わりに弾き返す。
「ファック」
鋭い舌打ちが突いて出る。
ピジョンは猛烈に腹を立てていた。無鉄砲で軽率なスワローにも職務怠慢を棚に上げてふんぞり返る無能な自警団にも憂さ晴らしに自分を袋叩きにする愚連隊にも飴玉を一個しかくれなかったジェニーにも性懲りなくショットガンを持ち出して意気揚々ゲテモノを狩ってくる母にも、みんなみんな俺はただ毎日を楽しく仲良く平和に過ごしたいだけなのにこぞって邪魔をする。
なんといってもこの場で最大の憎悪の対象は眼前で片足を抱き悶絶する男、偽善者のレイヴンだ。
この人は俺の弟に手を出した。
世界にたった一人、性根がくさっても大事な俺の弟に。
「今度こそアタリだとおもったのに」
「ハズレもいいとこだっつの……」
「やさしかったんだ」
鼻の奥がツンとする。レイヴンに優しくされた偽物の思い出が甦り感傷に流されかけるも、握り込んだ手のひらに走る、ピン刺しの痛みで正気に戻る。
兄の動揺を見抜いたスワローが息も絶え絶えに追い討ちをかける。
「だから言ったろ……テメェに親切にするヤツは、ぜってーろくでもねーこと考える、ろくでもねーヤツだって……」
「いい人はいるよ。巡り会えてないだけだ」
たとえこの世界がとことん腐りきった救いがたいゴミ溜めでも、善良な人は必ずどこかにいる。俺たちの母さんがいい例だ。母さんとコイツがいるから、俺はまだ辛うじて世界に絶望せずにすんでいる。世界のどこかに必ずあるキレイなものを信じていられる。
俺はコイツを守る。
兄さんだから、守る。
「ついでにお前は黙ってろ」
「ンだと」
「瀕死の怪我人はジャマだから引っ込んでろって言ったんだけど」
ベッドの下に押し込まれたスワローが怒り狂ってがなりたてる。その元気なら十分だ、当分死なない。内心の安堵を吐息にのせて吐きだし、右手に預けたスリングショットを見詰める。
武器は自分を守る為に使うもの。無闇やたらに濫用し、弱者を殺傷した時点で凶器に堕す。そして使用者は狂気に堕す。
「武器は自分と、自分の大事なものを守る為に使うもの」
ならば理に適っている。暴力は嫌いだ、痛いのは好きじゃない。このスリングショットもなるべく人に向けて使いたくはなかった、生き物を傷付けるなんて臆病な自分には到底無理だ。
いままでは。
背後にスワローがいる、緊迫に息を潜めてレイヴンとのやりとりを窺っている。
下半身は傷付いて酷い有様、物凄く痛いだろうに弱音一つ零さない。
コイツはほんのちびの頃からとんでもない意地っ張りだ。
どんなに辛くても泣き言は絶対こぼさず、俺に泣き顔を見られるのを一番嫌うプライドの高いヤツだった。
そのスワローがピジョンに縋り付いて、彼の胸に額をもたせて、噛み締めた唇の奥でしゃくりあげるのを見てしまった。
剥き出しの下肢から血を滴らせて、自分の先走りで濡れそぼった包帯をひきずって、我慢の限界を超えて我慢しぬいて、プライドを手放しかける瀬戸際まで追い詰められたのを見てしまった。
靴紐を結べずむくれていた横顔が瞼裏に去来、さんざんに犯されて声を出すのも辛そうな弟へいっそ傲慢に投げかける。
平静を装う声の底にあらん限り煮え滾る憎悪と凍える殺意に、はたしてスワローは気付いたろうか。
「お前は俺がいなきゃなにもできないんだから、ここでバトンタッチしてやるよ」
「何様のつもりだよ」
「兄さんのつもりだよ」
弟の復讐を代行するのもまた、兄の務めだ。
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