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第31話
生き延びるには殺人鬼の頭の中のファンタジーを理解することだ。
「…………」
生き延びる為にまず何をすべきか考えろ、鳩より少しは上等な頭を使って死ぬ気で知恵を絞れ、コンマ1秒の間に優先順位を整理し直して計算するんだ。
背後で息を潜め生唾を呑み事態の推移を見守る弟の気配を意識する。
視線を素早く巡らし室内を走査、状況把握に努める。
寝室は暗い。
鎧戸は厳重に閉め切られている。
壊して脱出?外は高低差のある路地だ、飛び降りて無事にすむだろうか。運動神経の鈍いピジョンは受け身をとる自信がない、着地を誤れば即死か良くて大怪我、よしんば自分はいいとして瀕死の弟を連れては無理だろう。
レイヴンは抜け目なくドアを背にして塞いでいる、あそこから逃げるなら彼を倒さなければいけない。
一瞬でもよそ見を誘って隙を衝けたら……
「よそ見を誘って隙を突けたら、って考えてる?」
読まれた。ピジョンの顔色が変わる。レイヴンが酷薄に含み笑う。片足の激痛から回復したのか、暗闇の中姿勢を正して兄弟と向かい合う。
「無駄だよ。君たちは逃げられないし僕が逃がさない」
「……言い訳はしないんですね」
「君の弟をヌードモデルに抜擢して新しい作品を仕上げたっていえば信じてくれる?」
「アイツの尻にナイフの柄を突っ込むのが芸術?前衛的ですね」
「他にもいろいろと突っ込むつもりだったよ」
レイヴンがライターを拾う。
「友達になるには体の中の中、腹の底の底まで知り抜かなきゃ。互いの全てを隅々まで知り尽くして初めて友達といえるんだ、それ以外はゴミさ」
「殺人鬼は頭の中に自分だけのファンタジーを持ってる。あなたのそれはとびきり歪んでる」
この部屋を一瞥しただけでわかる、レイヴン・ノーネームの異常さが薄ら寒い戦慄を伴って浸透する。
狂気の産物、猟奇性の発露。
皺くちゃに乱れてずれたシーツにはスワローから搾った体液が染みこんでいる。ベッドの周囲を柵のように囲む画架には、レイヴンが十数年かけ全国を行脚し集めた「友達」が粛然と展示されている。
ナイフ、ライター、缶切り、栓抜き、万年筆、指輪……数え上げたらきりがない。その全部が犠牲者から剥ぎ取った一部、「使用済み」の痕跡に思い至って吐き気がする。
玄関から直接繋がる居間はフェイク、ただの見せかけ、人好きする好青年を装うレーヴェン氏が世間に見せる表の顔にすぎない。
ドア一枚で遮られた奥の寝室こそ、彼の本性が遺憾なく発揮された真実のアトリエだ。
レイヴン・ノーネームの本当の姿……背徳の暗闇に閉ざされた中、犠牲者から盗んだ光り物でぎらぎらしく飾り立てたカラスの巣。
仮初の好青年から残虐な殺人鬼へと移行したレイヴンが、温和に目を細めて微笑んでいる。
地獄の磁場さながら不吉な黒瞳に吸い込まれそうになる。
「レイヴン・ノーネームの犯行の特徴。倒錯的かつ暴力的な強姦でたびたび死傷者をだす……」
うろおぼえの雑誌の記述を諳んじ、警戒を最高レベルにまで引き上げる。
「あなたは何も悪いことをしてない子どもをだまして、たぶらかして、泥棒カラスみたいに啄んだ」
「そうだよ」
悪びれたふうもなく肩を竦め、いけしゃあしゃあと肯定する。
どんな神経をしてるんだ。そもそも人の痛みに共感する神経があるのか。
燃え上がる義憤を拳に握りこんで封じ、感情を殺した平板な口調で続ける。
「俺のこともだましてたんですね。いい人ぶって……」
「君とも友達になりたかったのに残念だ。そのぶんじゃ嫌われてしまったね。大事な弟くんに酷いことされて怒ってるのかな。でも仕方なかったんだ、友達になるにはどうしても必要な儀式だから。血は一杯出るけど死にはしないよ、死ぬ子は少ないんだ。人間の体はアレで頑丈にできてるからね……尻が裂けた位じゃあ死なない、せいぜい下半身不随がいいとこさ。残り一生寝たきりか車椅子の生活は不便だけどね。友達みんなを中に入れてくれた子もいたよ、お腹がぽっこり膨らんで面白かったな、妊娠してるみたいで。本人はぜえぜえ喘いでたけど……産みの苦しみを追体験できて貴重な人生経験になったろうね」
「ぐっ……」
吐き気が加速する。背後にスワローがいなければとっくに卒倒していた。
俺まで倒れたらコイツを守れなくなる、今は耐えろ、耐えるんだ。
殺人鬼から目を逸らすな。
頭の中の地獄を直視しろ。
妄想に付き合って時間を稼げ、引き延ばせ。
床を踏みしばって立ち眩みに耐え抜き、燃え滾る眼光で一直線にレイヴンを睨み据える。
ささくれた唾を何とか飲み下し、不可視の重圧に抗するよう鈍った舌を動かす。
「……足が不自由だって同情引いて油断させて、好みの子をアトリエに連れ込む。それがあなたの手口ですか」
「その時々によって違うよ、盛り場で漁ることもある。ヌードモデルにならないか声をかけてね」
「ほらやっぱり俺の言うとーりだろ。絵描きなんて下心のかたまりだ、目ェ細めて服の下透かし見てんだ。テメェも真っ裸にひん剥かれてべたべた絵の具塗りたくられてたぜ、おだてりゃちょろいからな。色白いねピジョンくん、清らかな鳩のようだ。やめてくださいレーヴェンさん恥ずかしい、じっと見ないで……その恥じらいとてもいい、もう少し足を開いてみようか?まるで鳩の和毛のように穢れなく柔らかい毛だね、やだそんなとこあっあっー!」
「ちょろくないよ。脱ぐとしても上だけだ」
「脱ぐなよいっでぇ!!」
「痛いんなら大声だすなよ!!」
ベッドの下に伏せったスワローが口を挟み、それに応じたピジョンと言い争うも大声が傷に響いたのかへっぴり腰で悶絶する。レーヴェンが感心し無音の拍手を送る。
「物まねが上手い。そっくりだ」
「アイツはいないものとして扱ってください。脱ぐとしてもズボンまでです」
「さらに剥けてんじゃねえかよ……ストリップかよ……」
「パンツは死守する」
「股関節はずれちまえ」
「自分の括約筋の心配してなよ」
「俺の括約筋が死んだら責任とれよ」
スワローがまだ何か吠えてるが無視する。兄弟の馬鹿げたやりとりを斜に構えて眺めてレイヴンがあきれる。
「毎回同じ手口じゃワンパターンで飽きるだろ」
レイヴンが口端を釣り上げて笑みに似た歪みを形作る。
「ホント言うと最初のターゲットは君だったんだ」
「え?」
「君とはいい友達になれそうな気がしたよ。家族思いの素直で優しい子、人を疑うことを知らない純朴な少年……アンドリューを思い出す。やっぱりよく似ている」
「前の街で殺した子?」
「どのみち一人は友達を作って去る予定だった。弟くんに心変わりしたのは……俗な言い方をすれば一目惚れかな?あまりにも彼のもつ輝きが強すぎたんだ」
「変態にモテてモテて涙がちょちょぎれるぜ」
スワローが毒づく。
ピジョンはポツリと呟く。
「友達の定義が狂ってます」
スリングショットをポケットにさしこんでそばに落ちていた十字架を拾う。これも犠牲者の遺品だろうか。
「どうしてそうなってしまったかは知らないけど……あなたはただの犯したがり殺したがりの異常者だ。友達なんて本当はどうでもいいんでしょ」
「……随分だね」
レイヴンの声色がほんの僅か変化する。
演技に亀裂が生じ、苛立ちにも似た揺らぎが平板な声音をさざなみだてる。
「僕は友達が欲しいんだ、それの何が悪いのかな。だれだってひとりぽっちはやだろう、理解者が欲しいだろう。僕はありのままの僕を認めてくれる友達を一人でも多くそばにおきたいんだ」
相変わらず平坦な声音のまま切に願うレイヴン。
彼がのたまう理想は凡俗に塗れた陳腐さだが、孤独を恐れて理解者を求める気持ちに嘘はない。
しかしピジョンは鳩の目に備わる眼力でその欺瞞を的確に見抜く。
「まわりに侍らしてちやほやされたい?」
「それじゃまるで家来か奴隷じゃないか!勘違いしないでくれよピジョンくん、僕が欲しいのはゴミ溜めでぴかぴか光る友達さ、きらきら光ってやさしく囁いてくれるんだ、そのままの僕でいいんだよって。彼らはとても優しい、僕という人間の本質を真実理解してくれる。彼らの声は僕にしか聞こえない、姿は僕にしか見えない、けれどもずっと一緒にいる、朝目覚めてから夜寝るまで夢の中でも僕は彼らと一緒だ、だからもう孤独じゃないんだ、この中は彼らの輝きで充たされているんだ、永遠に錆びない友情の輝きで……」
「からっぽだから、詰めこもうとしたんですか」
「何?」
「詰めこんでごまかそうとしたんですか」
それはまるでカラスが盗品を巣に持ち帰る行為。
妄想に巣篭る倒錯した前戯。
音をたてぬよう摺り足で慎重に立ち位置を移動、殺人鬼との間合いを詰める。
「友達になりたいなら、どうしてコイツの名前を聞かないんですか?」
ようやくつけいる隙を見つけた。異常者が依って立つファンタジーを突き崩す隙を。
レイヴンの顔に動揺が走る。
「本気でコイツと友達になりたがってるなら真っ先に名前を聞くはずだ。忘れてた?強姦に夢中で?コイツの尻に色々突っ込むのが楽しくて?名前も知らない子どもをいたぶるのに興奮して?」
「このあと聞くつもりだったんだ」
「途中で加減を間違えて死んじゃったら?名無しのまんまじゃないか」
あなたと同じ、名無しのまんま。
「そしたらなんて呼んだんですか。コイツから盗った宝の代わりにくだらないニセモノをあげて、自分勝手に連れ回したんですか」
本質ともいえる名前を剥ぎ取って、偽物をおしきせて。
「レーヴェンさんは名前も知らない相手と友達になれるんですか?」
母が弟につけた大事な名前を、自分とおそろいの名前を、こんな誇大妄想の変質者に渡すものか。
「コイツはスワローだ。俺のたった一人の弟だ。絶対にやるもんか」
コイツがスワローじゃなくなるのはいやだ。殺人鬼の慰みものにされるのがいやだ。
人が変わったように辛辣なピジョンの追及は、欺瞞で鎧い固めた殺人鬼の核心を容赦なく揺り動かす。
「コイツの名前を呼んでくれもしない人に、絶対渡すもんか」
スワローはスワローだ、俺の大事な弟だ。
口が悪くて手癖が悪くて足癖悪くてしょっちゅうベッドから蹴り落とされて頭を打ってズボンの中にイタズラされる、ゲスでクズで一日一度は縁を切りたいと切望するけれど靴紐を結べずふてくされてた頃を覚えてるから、俺のあとをちょこまか付いて回ったちびの頃をちゃんと覚えているから、本当は今すぐ逃げ出したいほど怖くても土壇場で見捨てられない。
見殺しにはできない。
後ろ手に十字架を隠し持ち、脚の震えをごまかして一歩一歩接近する。
レイヴンは足が悪い。最大の弱点となる左足への反応は遅れるはず-
床を蹴って前ぶれなくとびかかる。
利き手を勢いよく振り抜き、十字架の先端を左足へ突き刺す。
「そっちじゃねえ馬鹿!」
えっ?
スワローの警告は一秒遅い。
ピジョンが振り上げた十字架の先端が甲高い音たて弾かれる、腕が痺れる固い感触……義足?
しまった。
後悔先に立たず、鳩尾に拳をくらってはねとぶ。
「がはっ!!」
背中が壁に激突、重力に従ってずりおちる。
義足に痛覚はない、神経は通ってない、したがって十字架で貫けず決死の反撃も空振る。痺れが残る手を十字架がすり抜ける。その手の甲を固い靴裏がおもいきり踏み躙る。
「ぐうぅ、あぐっ」
「左足が悪いフリをしてるのはそっちに引き付けるためさ。弱点を盾にするんだ。まんまとひっかかったね」
指の骨が軋んで圧搾される激痛に視界が灼熱、仰け反る喉から悲鳴が迸る。
「今のうちに逃げろ!」
咄嗟にベッドの下を見る。影が不自然に蠢く。
弟の安否を確認後一瞬だけ安堵、キツく目を瞑り一心に念じる。ピジョンの腕を右足に全体重かけ踏み付け固定し、レイヴンがデスマスクのような無表情に徹する。
「Something old, something new,something borrowed, something blue,and a sixpence in her shoe……」
唇の動きを読む。
場違いに口ずさむのはマザーグースのサムシングフォー、高く低く唄いつつピジョンの片腕の上に跪く。
「あぐぅっああっ!!
全体重を掛けた片膝に敷かれて腕が軋み、折れそうな激痛が苛む。
もどかしげに床を掻く指先に十字架が転がっている。
レイヴンの犠牲者の形見……もう少しで届きそうで届かず狂おしい焦燥が降り積もる。
この十字架の持ち主はどんな無念な思いで死んでいったのだろう、レイヴンを信じて裏切られ絶望のどん底で嬲り殺されたのだろうか。自分ももうすぐそうなるのか。
レイヴンが暗闇の中、ズボンを捲り左足の膝から下を外す。
スワローの見立て通り、ありふれた木の義足。使用者の体型に合わせ細部まで精巧に造られている。
「この足はアンドリューにやられたんだ」
レイヴンが呟き、床にほったらかされた十字架を愛おしげに見詰める。
「ラクにしてあげようとしたら最期にやり返されてね……そんな凶暴な子には見えなかったのに。息も絶え絶えの瀕死の状態で、どこに余力が残っていたのか。両手に十字架を握り締めて、泣きながら襲いかかってきたよ」
昔の恋人との蜜月を懐かしむように遠くを見て、ひとりごちる。
「母親からのプレゼントだってさ。抱かれるときもモデルをするときも何をするときも肌身離さず身に付けて、信心深い子だったんだよ。僕も無理に外させようとはしなかった。窓から差し込むネオンが十字架を染める様子がとってもきれいだったから外すのがもったいなかったんだ。それが仇になった。深々左足に刺されて、大事な神経が何本か切れてしまった」
「引退すればよかったのに……」
「殺人鬼を廃業して更生しろって?そのへんの間抜けな賞金稼ぎにあっさり捕まってやれって?無理だよ、僕はこの生き方しかできない。今やめたら殺してしまった子たちに申し訳ない、彼らの死が無駄になるじゃないか」
「狂ってる……よ」
「友達を増やして回るのが旅ガラスの生き甲斐なんだ」
レイヴンはくすりと笑い、ピジョンに覆い被さる。
「リハビリにちょっと時間がかかったけど、慣れてしまえば案外快適だ。友達の安全な隠れ家になる」
そう言って義足の断面の蓋を開ける。
「そこに隠してたの……!?」
「肌身離さずね。用心深いんだよ僕は」
レイヴン・ノーネームは蒐集品を義足の中に収納し、体の一部として常に行動を共にしていた。
「歌にもあるだろう?なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、そして靴の中には6ペンス銀貨を……って」
「義足は靴じゃない」
「屁理屈だね」
「どっちが」
「コートのポケットだと嵩張るし音がうるさい。こっちは完全に盲点だ、中に布を詰めて音を吸収してるしね」
義足を逆さにし空洞から滑りでた物体をにぎりこむ。
小型のピストルだ。額に銃口を押し込まれピジョンの喉が引き攣る。
レイヴンが引き金に指をかけゆっくりと絞りつつ、仰向けにしたピジョンの上で銃口を遊ばせる。
「下の口にねじこんであげようか。弟くんと……スワローくんとおそろいになりたいんだろ」
「や……だ」
恐怖で喉に息が詰まる。
声が出ない代わりに必死に首を振る、それだけは勘弁してほしいと潤んだ目で懇願する。
怯えきって青ざめた様子が嗜虐心をくすぐり、固くゴツい銃口を額から鼻へ、顎へゆっくりと滑らしていく。
銃口を使って無理矢理口をこじ開け、ゴリッとえぐりこむ。
「!?んぐぅっ、」
「顎が外れちゃうよ。もっと大きく」
「んんっんーっ!!」
「丁寧に舌を使って唾液をまぶすんだ。僕のモノだと思って」
限界まで開けた口腔にずっぽりと銃口が埋まる。
太く固いモノで喉奥を犯され、ろくに呼吸もできない酸欠の苦しみに悶絶する。口の端からしとどに唾液が滴り、舌を押さえたモノがくりかえし歯に当たる。喉を突き破ってさらにその奥へ侵入せんとする異物に胃袋が痙攣、猛烈な吐き気がせりあがる。
「ふぅっうっ、ふーっ」
酸欠に朦朧とする頭で、ただひたすらに助かりたい一念で、無我夢中で口に突っ込まれたモノをめちゃくちゃにしゃぶりまくる。舌を巻きつけ舐め上げて、口の中を乱暴に犯すかたまりに物欲しげにむしゃぶりつく。
片手の五指がもどかしげに床を引っ掻く、ほんの数インチ先の十字架を引っ掴もうとかきむしる。
意識が次第に薄れ、口を犯すピストルとレイヴンの笑顔が遠のいていく―……
「めでてーな、自分が売られたのも気付かねーでイマラのまねごとかよ」
背後から投げられた声にレイヴンが止まる。銃口が少し抜かれ、漸く息を吸うゆとりが生じる。
間一髪意識を繋ぎ止めたピジョンの視線の先、暗闇から這い出たスワローがベッドに凭れ、何度もずり落ちる足腰を叱咤して立ち上がる。
タンクトップの裾でぎりぎり隠れた下肢を伝う血は処女の破瓜に似て、壮絶にいかがわしい。
自分の腿を伝って滴り落ちた血痕を憎々しげに踏みつけ、瀕死の顔色でスワローが詰め寄る。
「顔を変えた。髪の色も変えた。なのにこの街にいるってチクられた。どう考えたっておかしーだろうが。誰がチクった?誰がレイヴン・ノーネームの足取りを知ってる?」
雑誌には有力な目撃証言がでたと書いてあった。
それが本当ならレイヴンの証言と矛盾する、彼は整形して髪も染め以前とは様変わりしている。
ということは、情報提供者はレイヴン・ノーネームの現在の姿を知る人物……
ベッドに手をついて今にも倒れ込みそうな体を支え、スワローは口角を吊り上げる。
「アンタ、マーダーズに切られたんだよ」
レイヴンの目に困惑が広がる。
「どうして組織の名前を……聞いてたの?」
「寝たフリは得意なんだ」
「多めにクスリを持ったのに」
「カップを間違えないようわざわざ取っ手を逆向きにしたのに残念だったな」
レイヴンが台所から戻ってきた時、盆の上のカップの柄はそれぞれ反対を向いていた。絶対に間違えないように、睡眠薬入りのコーヒーを飲まないようにと。
スワローはしらけきって指摘する。
「最初から飲んでねーよ」
次いでタンクトップの生地を摘まみ上げ、ひらひらと風を送る。
「あン時お前は屑籠に注意をとられて、俺は椅子に座ったまんま後ろをむいた。そのタイミングでコーヒーをこぼしたのさ、火傷しねーよう体から離して」
タンクトップの裾を下に引っ張って肌から浮かせ、そこにコーヒーを零す。吸収されたコーヒーは、茶褐色に乾き始めた血痕とまじって区別が付かない。
「ちゃちなトリックだし近付きすぎたらバレるかもってヒヤヒヤしたぜ。余計な心配だったが……匂いは血でごまかせみてーだな。それともアンタの鼻、煙を吸い込んでイカれてたか」
「完璧な演技だったよ。イタズラしてもぴくりともしない」
「くすぐってーだけだあんなの」
「組織との話も……全部聞いてた?」
「ぺらぺら勝手にくっちゃべってくれたからな」
スワローは毒っぽく笑い、事実に憶測を交えた推理を述べる。
「さっきしゃべってた相手……長い付き合いならお見通しだったんじゃねェか、テメェが仕損じてボロ出すの。警告の体裁借りてプレッシャーかけにきたんだよ。トカゲのしっぽ切り改めカラスの羽切りだ、テメェはいろいろと杜撰すぎる。雑誌に書いてあった被害者数、ありゃ殺したんじゃなくレイプした数だろ?犯して逃げるだけならリスクは大きかねェ、片足びっこでもヤッてできねーことはねェ」
思わせぶりに言葉を切ってレイヴンと対峙、底の浅さを値踏みするように眸を細める。
「アンタさ、殺人鬼としちゃもう終わってるんじゃねーか?」
もう人を殺せなくなってるんじゃないか?
「ひとを殺せねェ人殺しに用はねェ、あれこれ便宜を図ってやる必要もねェ。アンタの居所チクったのも組織が世話したとかいう整形外科医じゃねーの、情報提供は匿名でできるしよ」
実際にレイヴンの行先を知ってるのは整形外科医を含む組織の関係者だけだ。
マーダーズは慈善団体ではない、殺人鬼のファンクラブでもない。
日々追うごとに犯行が杜撰になり、活動に差し障りをきたす三流の殺人鬼などお呼びじゃない。
お払い箱の殺人鬼は愕然と凍り付き、懐から出した携帯のボタンを操作して呼び出しにかかるも反応はない。当たり前だ、こちらからは連絡できない仕組みになっている。それとは関係なくもう二度とエージェントからは掛かってこない確信じみた予感を抱く。
「心境の変化ってヤツ?さんざん殺して信心に目覚めちまった?」
スワローが侮蔑の笑いを含んだ追い討ちをかけ、ピジョンの指先ほんの数インチの十字架に顎をしゃくる。
「どーせ俺と兄貴をヤる度胸もねーんだろうが」
「おいスワロー!」
「ハッタリのコケオドシだ。その証拠に俺のケツにナイフや歯ぁ突っこんだだけで満足しちまったんだろ、とんでもねー不能だな。オトモダチになれんの楽しみにしてたのに、がっかり肩透かしだ。腹ン中啄まれたってくすぐってえだけ、退屈で眠っちまいそうだった」
「ぐちゃぐちゃにかきまぜられて顔をべたべたにしてた子の台詞とは思えないね」
「マジに殺るならさっさと引き金引けよ」
今度は銃の方へ顎をしゃくる。ピジョンの顔から血の気がひき、絶望に目を見開く。レイヴンは銃を構えたまま瞬きも忘れて静かに聞く。
「なんで逃げなかった?寝たふりをする意味がわからない」
「自分が賞金首だって忘れてね?」
「スワロー!」
「賞金首を殺りゃ大金をゲットできる」
逃げるなんてとんでもない。こんなチャンスまたとない。
たとえ血の繋がった兄を見殺しにしても賞金首を捕まえれば懐に大金が転がりこむ。
「こんなおいしい餌を前にしてトンズラするかよ」
レイヴンが銃把を握り直す。
銃口がピジョンの額にめりこむ。スワローが意気揚々と発破をかける。
「どうした?兄貴はじらされンの嫌いなんだ、放置プレイは可哀想だ」
嬉々として底光る目、楽しげに弾み催促する声、そのどれをとっても命の恩人への罪悪感とか同情心とかは微塵も感じとれない。
まさか俺を見殺しにして一人だけ逃げる気か?
アイツならやりかねない、畜生こんな恩知らず助けにくるんじゃなかった、俺の人生最後まで貧乏くじだ。
遠くから集団の靴音と怒号が殺到する。
アパートの階段を大挙して駆け上がる震動が近付いてくる。
ベッドを支えにして震える両脚で立ち、スワローが高笑いする。
「ひとおもいにぶちまけちまえ!」
「降伏勧告だレイヴンノーネーム、抵抗はやめて出てこい!」
アパートのドアが猛然と蹴破られ自警団がなだれこみ、レイヴンの注意が居間へと逸れる。
銃口の圧が僅かにゆるんだ瞬間赤錆の眼光が交差、呼吸をあわせ同時にうってでる。
燕はすごく速く飛ぶ、鳩はとても長く飛ぶ。
スワローは抜群の瞬発力を発揮し、シーツの上に転がった血まみれのナイフをひったくる。
最前まで深々己の尻に穿たれていたナイフを躊躇なく構え、下半身の激痛もままよと堪えきって疾走し、ワンタッチで飛び出た鋭利な刃をレイヴンの腰に力任せに突き立てる。
苦悶に身を捩るレイヴンが狂ったように引き金を引く、発射された弾丸が壁や床や天井にめりこんで破片を散らす、ベッドが穿たれて大量の綿が舞う。
背中の激痛に抗い即座に立ち上がろうとする殺人鬼、スワローはすかさずポケットを裏返しジェニーに貰った飴玉の残りをばら撒く、足元が暗く靴の下にもぐりこんだ飴玉を踏んで体勢を崩すレイヴンの懐にまっしぐらにピジョンが突っこんでいく。
「今度は間違えないよ」
その手に握り締めた十字架の先端に、全体重をかけ押し込む。
「ぅがあああっ!!」
アンドリューの十字架がレイヴンの鳩尾を抉る。背中にはスワローが組み付いている、前後を兄と弟に挟まれ逃げ場を失ったレイヴンがよろめいて壁にあたる、ピジョンはますます頭を低め懐にもぐりこんでスワローは首に片腕を回し片手に持ったナイフを突きこんで滅茶苦茶に回す、自分がされたように赤く開いた傷口の肉を巻き込みさんざんに抉ってかき混ぜる。
男におぶさったまま耳朶へ唇を近付け、スワローはうっとり囁く。
「俺と兄貴に前と後ろから固くてぶっといの突っ込まれる気分はどうだ?」
「っぐ、ああ、やめ、離れ、痛ッ」
レイヴンが死に物狂いに暴れる、背中にしがみつくスワローを振り落とそうと身をよじりピジョンをひっぺがそうと両手で肩を掴んで押す、だが離れない、兄弟は絶対に離れない。以心伝心の連携をとって鳩と燕がカラスを挟み撃ちにする、前と後ろから容赦なく啄んで羽を毟っていく。片方が反撃されればもう片方が庇い、片方が逆襲されればもう片方が暴れて注意を引く。
抵抗が傷に響いて下肢を伝う血の流れが激しくなってもスワローはナイフをけっして手放さず、ピジョンもまた十字架を両手で押し込み続ける。
それぞれの武器から犠牲者の憎悪が乗り移ったように。
その復讐心を代弁するかの如く。
そして兄弟は、一糸乱れず声を揃えて叫ぶ。
「「俺の|兄貴《弟》に手を出すな」」
「こっちよ、寝室よ!」
「レイヴン・ノーネームがいたぞ、ガキどもも一緒だ!」
「銃を持ってやがる、とっとと取り押さえろ!」
背後のドアから自警団が雪崩を打って突入した。ジェニーも一緒だ。寝室に飛び込んだ自警団はベッドと床の惨状に愕然とするもすぐ正気を取り戻し、レイヴンを拘束にかかる。
「あははっ!」
背中と鳩尾に激痛を抉り込まれ踊り狂うレイヴン、何かを探し求めるように虚空に伸ばした指先、もはや自暴自棄でもう片方の手に預けた銃を乱射する。乾いた銃声が連続で爆ぜて流れ弾を喰らった何人かが悲鳴を上げる。
「痛いよアンドリュー、痛いよレオナルド、そんなにぐいぐいこられたら僕の中が破けちゃうよ!」
飛び交う弾丸を避けて画架やベッドの影に伏せる男たち、レイヴンは逃亡を試みて居間へ転げ出る。テーブルを蹴倒し、椅子とその上の残り物を薙ぎ払い、トレンチコートを引っ掴む。
「僕はまだ終わらない、まだ友達作りの途中だもの、スティーブとレオナルドとスチュアートとアンドリューとケビンとイーサンとニコラスと仲良しみんなでずうっと終わらない旅を続けるんだ、世界中の光り物を集めてぴかぴかにするんだ、この世界がゴミ溜めじゃないって……!!」
「友達ほっぽって逃げンなよ薄情者」
視界が突如として暗闇に覆われる。
背中におぶさったスワローが、自分の頭に半端にぶらさがった包帯でレイヴンの目の前を覆ったのだ。
両目を遮る包帯に動転したレイヴンの足が縺れ、コートを掴んだまま窓の方へ倒れ込む。スワローの冷え込んだ囁きが、追い詰められた殺人鬼の耳朶を串刺す。
「テメェの|贖罪《ヴィクテム》は両目だ。もう二度と光を見ることがないようにだとさ」
「スワロー、本気で」
「押さえてろよピジョン」
コイツに対価を払わせてやる。
何か言いかけた兄を制し、両足を胴に回して男にしがみ付いたスワローが腕を一閃、ナイフで両目を掻き切る。一片の躊躇もない、大胆で潔い攻撃。咄嗟に顔を背けたピジョンの上に、レイヴンの目から迸る生温かい血が降り注ぐ。目を切り裂かれた激痛に身悶え絶叫、レイヴンが手足を振り乱し窓をぶち割り風の吹く方角を向く。
「逃がすか!」
「テメェを突き出しゃたんまり懸賞金がでる!」
居間にまろびでた自警団がレイヴンを指さし怒鳴り、先を競って駆けてくるが間に合わない。
投身自殺か、あるいは往生際悪く逃亡を企てたのか。
「!!レーヴェンさ、」
呼び慣れた偽名を咄嗟に口走る。ピジョンにとって生まれて初めてできた友達の名前。
レイヴンが窓枠に片足かけ宙に飛び出す寸前、ピジョンは彼を引き止めようと胴にぶらさがる。レイヴンが重力に引かれて前へ倒れ込み、ピジョンも釣られて空中へ―……
「心中なんかさせっか!!」
モッズコートの裾が広がって一瞬視界を隠す。舞い広がった裾の向こうからスワローが向かってくる。
切実な渇望の眼差しに真剣な表情を組み合わせ、ピジョンの腕を抜けんばかりに引っ張って自分のもとへ取り戻す。
ピジョンの手を血脂でぬめる十字架がすり抜け、レイヴンもまた虚しく離れていく。
窓からとびたつ一刹那、レイヴンが掴んだトレンチコートがカラスの翼の如く颯爽となびく。
自然と弟の胸の中へ倒れ込む、スワローの華奢な細腕が力一杯自分を抱きすくめる、取り戻した事実を実感しようと縋り付くように抱きしめてくる。
包帯が絡んで縺れあって倒れ伏し、窓の外で鈍い音が響く。
折り重なったピジョンの背を片腕でかき抱き、安堵の声色でスワローが呟く。
「…………お人よしが。ひきずられんなよ」
「……ごめん」
ちょっとだけ、かわいそうだと思ってしまったんだ。
なんでだかわからないけど。
「だーかーらぁ、泣くなようぜえ!」
「これは違う」
「何が違うんだよ、どーせあのクソ強姦魔に同情してめそめそ洟啜ってんだろ」
「違うよ。お前がうっかり殺されちゃわなくて、安心して泣いてるんだ」
涙腺が壊れた。涙がどんどん出てくる。
体がしんどいのに、傷に響くのに、あの人を引き止めようとして引きずられて死にかけた俺を全身全霊で引き戻してくれた。いやなことがいっぱいある、ひどいこともたくさんある、でも嫌いになりきれないこの世界に繋ぎ止めてくれた。
レーヴェンさんの大事なものはなんだったんだろう。
あの人はこのゴミ溜めみたいな世界のどこかで、それに出会えたんだろうか。
弟の胸に顔を埋めて洟をかむ。スワローはウンザリするが、何故か力ずくでひっぺがす気が起きずしばらく好きにさせる。
先刻頭をなでてくれた手の感触を想起する。安心をくれるぬくもり。
そういや兄貴の頭をなでてやったことねえな。兄貴だから当たり前だけど……そーゆーのってフツー年上が年下にやるもんだろ。
「……フツーね」
俺がそれを言うのかよ?
あんなにフツーを嫌っていたこの俺が?
もうとっくにフツーじゃなくなってるこの俺様が?
とっくに箍が外れちまったこの世界で、フツーにしがみつく意味などない。
腹の上でぐずるピジョンを眺めていると、この情けなくて女々しくてどうしようもないお人よしが自分の兄だという現実に絶望しそうになる。コイツには俺がいてやらなきゃ駄目だと征服欲なのか独占欲なのか判然としない感情が強く突き動かされる。
フツウなんて知ったことか。
俺は俺のやりたいようにする。
自分におっかぶさってみじめったらしく嗚咽するピジョンの頭に迷った末に手のひらをおき、ピンクゴールドの猫っ毛に指を通し、一日で一生分の悪運を使い果たしたようにくたびれきって目を瞑る。
「……いい加減ズボンとパンツはかせてくれ」
まあ助けてもらった対価としちゃ十分だ。
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