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Old mop
オールドモップはピジョンの犬だ。ゴミ捨て場に落ちていたのを拾ってきた。
「最初はモップが捨てられてると思ったんだ。毛がボサボサでさ」
それが名前の由来だ。[[rb:古いモップ > オールドモップ]]……そのまんま。センスが悪いとスワローはあきれる。
一家はトレーラーハウスで旅をしている。
大陸中西へ東へ転々と、長くて三か月、一箇所に滞在することはない。
ブロンドの母はまだ三十路前の若く美しい娼婦、息子たちは種違い。それぞれの父のことは知らない。母に聞いても笑ってはぐかされるだけ。
半分しか血が繋がってないせいか髪と瞳の色以外あんまり似ていない。
「またこりずに拾ってきたのかよ。どーせすぐ死んじまうのによ」
そこは雑草が疎らに生えた空き地だ。元々はバスケットコートだったらしいが、手入れもされず朽ちるに任せたまま、地面には薄汚れたバスケットボールが放置されている。
片隅に停まったトレーラーハウスの中では母が客をとっている。
スワローは誰かの忘れ物のバスケットボールを突く。見事なドリブルだ。その傍らで、ピジョンは汚い毛玉のかたまりを抱っこしている。
デカい。体長はスワローと同じか、少し上回るか。よく見るとあちこち斑に禿げている。皮膚病にでもかかっているのか、栄養状態が悪そうだ。
「よーしよしよしいい子だ。お前も今日から家族の一員だ」
「母さんはなんて?」
「家族が増えて嬉しいって。こんなかわいいモップなら大歓迎だって」
「マジかよ?」
母と兄の感性は理解しがたい。スワローにはどうしてもかわいく見えない。
雑種だろうか、伸び放題の毛に埋もれた顔はさだかではないが、フサフサと茂った太い眉毛がユニークだ。一目で老い先短いとわかる、よぼよぼの爺さん犬だ。
オールドモップと名付けられた野良犬は、大人しくピジョンの膝に寝そべり、お愛想でしっぽを振っている。
「前の猫はすぐ死んじまったじゃん」
「ジャンピングジョージは可哀想だった。朝起きたら段ボールの中で冷たくなってて……」
「手は尽くしたろ。寿命だったんだ」
何もないところで突然ジャンプするからジャンピングジョージ。やっぱりネーミングセンス最悪だ。
あの猫も兄が拾ってきた。どういうわけかコイツは蚤が沸いた死にぞこないばかり拾ってくる。
保護した時点でだいぶ衰弱しており、兄が綿棒にミルクを含ませて一生懸命飲ませようとしていたのをうっすら思い出す。
お人よしが動物に情けをかけるのは毎度のこと。捨て犬や捨て猫にとどまらず、巣から落ちた鳥の雛を助け、巣立ちまで見守るのは日常茶飯事。大半は雛のうちに衰弱して死に、兄がべそかきながら葬る羽目になる。
頭がお花畑、もといおおらかな母は、息子が動物を持ち帰るたびにちょっと困ったふりをするも、最後には「ちゃんと面倒見るのよ」と笑って許す。
そして「今日からあなたもうちの子よ。私をママだと思ってね」と跪き、新しいペットをひとなでして迎え入れるのだ。
どっこい、スワローはそうはいかない。母や兄のようにちょろくはない。新しいヤツがくると兄貴はそっちにかまけて俺をかまわなくなる。以来、新しいペットにはシカトをこくかライバル視してちょっかいをだすのが倣いだ。
先代の猫を思い出して目を潤ませたピジョンが、ぶんぶん首を振ってきっぱり言い切る。
「オールドモップは大丈夫。長生きするさ」
「もうよぼよぼだろ」
「お前も可愛がれよ」
「はっ、やなこった」
「弟欲しがってたろ?」
ピジョンがオールドモップをやさしくなでながら口を尖らす。スワローはしらけて念を押す。
「ワン公は弟じゃねェ。いいか、その臭くてうるさくて汚ねーのを俺に近付けんなよ?絶対だぞ?」
「どうしていじわるするんだ……こんな可愛いのに」
兄の感覚はわからない。スワローには汚れたモップにしか見えない毛のかたまりをぎゅむと抱きしめて、だらしないニヤケ顔で頬ずりする。オールドモップが「ワン」と鳴き、ピジョンの顔を舐めまわす。
「よーしよし、お利口さんだ。うるさくないよな?」
「勝手にやってろ」
犬とじゃれる兄に愛想を尽かしそっぽを向く。
スワローは動物全般が嫌いだ。というか無関心だ。あちらも好意を持たれてないとわかるのか、遠巻きにしてめったに酔ってこない。
動物が増えると邪魔くさい。ただでさえ狭いトレーラーハウスの中が場所をとられてさらに狭くなる。抜け毛は落ち放題だわ糞はするわ、何もいいことがない。
そしてトレーラーハウスに居候が増えた。
母と兄はオールドモップを家族の一員として扱った。食事中もそばにおいて料理を分けてやるし、寝る時も一緒だ。首輪は付けずに放し飼いだ。足腰が弱っているので、自力で遠くへ行くのは無理だ。
「見て母さん、スパゲッティ食べてる」
「ホント、ミートソース好きなのかしら?口のまわりに付いてる、立派な赤ひげね」
「犬ってなんでも食べるのかな」
「今度パンケーキあげてみようかしら」
「母さんの?やめたほうがいいよ」
「えーなんでよー」
「生焼けだからお腹壊すよ」
「ちゃんと中まで焼くわよ」
テーブルに着いた母と兄の会話を、床に寝そべったオールドモップは大義そうにしっぽを振って聞いている。
スワローは片手にフォークを掴み、片手に皿を掴んでスパゲッティをかっこむ。オールドモップが億劫げに顔を上げ、チラリとスワローを見る。
スワローはフォークの尻で机を叩き、獰猛に歯を剥いて睨み返す。ピジョンが呆れ顔で注意する。
「こら、オールドモップが怖がるだろ」
「知るかってんだ、この馬鹿犬がじいっと見てくるのがワリィ」
「スワローと遊びたいのよ、きっと」
「食事中は外に出せよ」
「いいじゃないか、みんなで食べた方がおいしいし」
遊びたい?俺と?ンな物好きがいるもんか。
このバサバサモップは兄と母に可愛がられ、ちゃっかりウチに仲間入りした気でいるが、俺は断じて認めねェ。
フォークにスパゲッティを巻き付け、ミートソース塗れの口に突っ込む。オールドモップがおもむろに立ち上がり、覚束ない足取りでやってくる。
スワローの足元に前脚を揃えてお座り。スパゲッティを物凄い勢いでかっこむ姿を、物欲しそうに舌を出し見詰めている。
「ンだよ。見てんじゃねーよ、しっしっ」
意地汚ェ畜生め、人様のものを欲しがるなんざ躾がなっちゃねェ。スワローはフォークを咥え、もう片方の手で追い立てる。
「おいで、俺のを分けてやるから」
見かねたピジョンが椅子から身を乗り出して招き、モップはスワローを振り返りながらトコトコと歩いていく。
未練がましげな後ろ姿に哀愁が漂うも、スワローは目もくれずスパゲッティの残りをたいらげる。ミートソースで口も胸元もべとべとだ。
「行儀が悪いのはどっちだよ……」
それからというもの、オールドモップと遊ぶ日課がピジョンのルーティーンに組み込まれた。
ピジョンは友達がいない。気が優しい兄はどこへ行っても地元の子供たちにいじめられ、泣いて帰ってくる。
その点オールドモップは格好の遊び相手。娼婦の私生児だからといってピジョンをいじめたりせず、無邪気に懐いてくれる。
ピジョンはゴミ捨て場から拾い上げた飼い犬に様々な芸を仕込んだ。ゴムボールを投げてとってこさせる遊びはすぐマスターした。お手とちんちんもすぐ覚えた。
「すごいな、お前は天才だ!こんな賢い犬見たことない!」
オールドモップが芸を覚えるごとピジョンはべた褒めし、大袈裟にハグして喜ぶ。スワローは気に入らない。
誰かが置き忘れたバスケットボールを勝手に使い、脚の間を高速で潜らせて華麗なドリブルとシュートをキメる。
「よっしゃ」
どんなもんだ。
いい汗かいたのちにドヤ顔で振り返っても、ピジョンは犬に押し倒され笑っており、弟の活躍を見てもいない。
スワローはへそを曲げる。おまけにコイツはベッドの中にまでずかずか入ってくる、兄弟の間に厚かましく割り込んで眠るのだ。ピジョンは抱き枕がわりにして喜んでいるが、スワローには大層迷惑だ。
ただでさえ狭苦しいベッドの面積がさらに浸蝕され、どうかするとはみ出して転げ落ちる。
「なんでベッドに入れんだよ、床に寝かせろよ!」
「床は寒くて可哀想だろ。ベッドの方が気持ちいいに決まってる」
「じゃあテメェが床で寝ろよ!!」
「やだよ、固くて痛い」
言い争いに癇癪を起こし、ピジョンを蹴落としたことも一度や二度じゃない。そのたびピジョンはべそをかき、毛羽立ったタオルケットにくるまり床で寝る。オールドモップは兄に付き添って丸くなる。
せっかくベッドをひとりじめできてもちっとも嬉しくない。
スワローはオールドモップを嫌っていた。
臭くて汚くて病気持ち、コイツがずっと居座り続けると思うとぞっとする。
オールドモップが来て一週間後、スワローはいつものようにバスケットボールで遊んでいた。
今では完璧にドリブルをマスターした。運動音痴のピジョンじゃ練習相手も務まらない。
町の子どもの仲間に入れてもらうこともあったが、やはり張り合いがない。同年代と比べてもスワローの身体能力はずばぬけている。
スワローはピジョンほど奥手じゃない。
その気になれば友達を作るのは然程むずかしくなく、街の人間とも最低限交流している。金持ちの老婆やレジ番の女が駄賃や駄菓子を恵んでくれたり、見てくれがいいと何かと得をするのだ。
だが面倒もある。
『バスケットコートの娼婦の子?』
町の子の親が自分を見る目に、露骨な好奇心と嫌悪がまじるのを悟らぬスワローではない。
敬遠されるのは慣れている。軽蔑と白眼視はなれっこだ、いまさら痛くも痒くもない。
母さんはビッチだ。体を売って金を稼いでる。
それがどうした、母さんは母さんだ。
そのオツムと股のユルさを馬鹿にはしても仕事を恥じたことはないし、馬鹿にするヤツは容赦なく張り倒してきた。
スワローはひとりぽっちでボールを突く。どんなに上手くなっても褒めてくれる人がいない。ピジョンと母は買い物に行っている。
「けっ」
友達が欲しいなんて、そんなガキっぽいことを願うほどガキじゃない。
俺には兄貴と母さんだけいればいい、他は余計だ。
脚の間を高速で潜らせ水平にした腕を滑らせ、アクロバティックにボールを操るスワローの足元にもっさりと影がさす。
オールドモップだ。
「兄貴と一緒じゃねェのか」
オールドモップは緩くしっぽを振りスワローに忍び寄る。
首輪に繋がず放し飼いだから、当然居残りすることもある。ふらりとどこかへ消えて餌の時間に戻ってくるのがオールドモップの習性だった。ネコみたいなイヌね、と母は笑い、前世はネコだったんじゃないかな、とピジョンは大真面目に推理した。
どっちも馬鹿げてる。
「……なれあうつもりはねえよ」
オールドモップに背を向け、無心にドリブルをする。
コンクリで固めたコートに勢いよく跳ね返ったボールが、太陽を遮って影を落とす。ボールの軌跡を追って犬の頭が上下する。スワローはそれを見、さらに高く、もっと高くボールを跳ね上げる。
首の上下運動が激しくなり、遂にしっぽまで振り始める。
少しだけ気分がいい。
たとえ犬ころでも、ギャラリーがいるのといないのとではやる気が段違いだ。
「行くぜ」
「ワン!」
スワローはボールを突いて走り出す。オールドモップがそれを追ってくる。
なんだよ、ギャラリーじゃなくてチームメイト希望か。
犬ころの分際で思い上がるな。
負けてたまるかと力強く地面を蹴り、ボールにあてがう両手の親指を支点に、ゴールへと長大な弧を描いて押し出す。
スワローが投げたボールは、綺麗な放物線を青空に描いてゴールネットに吸い込まれる。網を揺らして潜り抜けたボールが転々とはね、戻ってくるのを待ちきれずオールドモップが飛び付く。
前脚で組み付いて転がし、腹の下にくぐらせては跳躍し、はしゃいでスワローを見上げる。
「ワン!」
高らかに一声吠え、ボールを越えてスワローにとびかかる。
ちぎれんばかりにしっぽを振りたくり、澄んだ瞳で見上げてくる犬に、どうにも調子が狂って呟く。
「どんなもんだ」
「ワン!」
「楽勝だよ」
「ワン!」
「次はもっとすげーの見せてやる」
「ワフ?」
「もうちょい背が伸びりゃダンクも余裕だ。ドでけえのぶちこんでやる」
犬と会話するのは虚しいが、だれも見てないならかまうもんか。
日頃アレだけ邪険にしてるのにオールドモップは無邪気に懐いてくる。
自分に酷い仕打ちをした人間に懐き倒す、この極め付けの鈍感さはピジョンと似ている。
そう思うとなんだか憎めなくなる、自分の性分に嫌気がさす。
「ただいまー!そこのお店でリコリスキャンディたくさんおまけしてもらっちゃった、モップ食べるかしら」
「喉に詰まらすからやめたほうがいいよ、犬用じゃないし……」
「えーでもスパゲッティは食べたじゃない?」
「スワローと遊んでたのか?」
騒々しいお喋りに顔を上げれば、紙袋を抱えた母と兄が帰ってくる。
缶詰や乾燥食品を詰め込んだ紙袋を横におき、両手を広げたピジョンへとまっしぐらに飛びこんでいくモップ。
飼い犬の頭をなで、ドリブルを再開する弟と見比べる。
「勘違いすんな、遊んでやったんだよ。おいてけぼりくらってしょんぼりしてたんでな」
「コイツが残ったんだよ。お前のこと好きみたいだ」
「はぁ?」
「バスケしてるとこ、ジッと見てる」
そういえば、コイツと引き合わされた時もバスケをしていた。ボールを追って鮮やかに跳んで跳ねるスワローの姿は、老いぼれたオールドモップの目に輝かしく映るのだろうか。あるいはボール自体に興味津々なのか……
ともあれ今日の一件を経て、彼がスワローを遊び友達として認識したのは確実だ。
本当はずっと仲間に入れてもらいたかったのかもしれない。
スワローと一緒に走るのを夢見て、されど邪魔することはせず、じっとコートの片隅に控えていたのだ。
「お前と友達になりたいのさ」
ピジョンがいい笑顔でオールドモップの気持ちを代弁する。
犬の気持ちがわかるのかよと喉まで出かけるが、何故か声にならずに飲み込む。
少なくとも、オールドモップは俺らを馬鹿にしない。
母さんが体を売ってるからって白い目で見ないし、ピジョンをいじめるまねもしない。スワローが会心のゴールをきめたら、しっぽを振りたくって喜んでくれた。
スワローはチラリと横目を流す。オールドモップはピジョンの顔を舐めまわし、振り向いてワンと啼く。
「見てんじゃねーよバカ犬」
「こら!」
それからというもの、スワローはオールドモップと一緒にバスケをするのが習慣になった。
食事中、オールドモップが傍らに侍るのに嫌な顔をしなくなった。
夜、ベッドに飛び乗っても蹴り出しはしなくなった。
それはごくささやかで、だが大きい変化だった。
スワローは母と兄以外に基本心を開かない。だがオールドモップに対してだけはほんの少しドアを開けた。
ピジョンは知っている、スワローは好意に報いるのが不器用な人間だ。相手が一途であればあるほど慕われて困惑する。飼い犬が向ける愛情は、これまで彼が触れてこなかった種類のものだ。
「ほらよ」
食事中、嫌いな物がでるとわざと落とし、テーブル下で待ち伏せるオールドモップに蹴ってよこす。
「せめェんだよ、もっと詰めろ[[rb:便所 > スカベンジャー]]モップ」
夜はオールドモップを挟み、川の字で寝る。ベッドは窮屈だが、その分ぬくくて幸せだ。呼び名はバカ犬から[[rb:便所 > スカベンジャー]]モップに昇格した。スワローなりの愛称だ……多分きっとそうだ。
「おやすみオールドモップ」
ピジョンとキスをしたオールドモップが、スワローの上にのっかって大胆に唇を付け狙うも、両手で顎を閉ざされ「待て」を命じられる。傍目にはじゃれあいに見えなくない。
「畜生とキスはお断りだ」
「減るもんじゃなしいいじゃないか」
「涎と息が臭ェんだよ、そこらじゅうべとべとだ。したけりゃ金払え」
ピジョンはオールドモップに抱き付いて、スワローはシャツをはだけて腹を掻き、そんな息子たちと愛犬の寝姿を一仕事終えた母が下着姿で見守って毛布を掛け直す。
「センターとられちゃった」と、ほんのちょっぴりやきもちを焼いて。
そんなある日、オールドモップが死んだ。
突然だった。
冷たくなったオールドモップを最初に発見したのはピジョンだ。
ベッドに川の字で寝ていて、一番最初に目が覚めたピジョンは、隣からぬくもりが失せているのに気付いた。
ただの毛むくじゃらのかたまりになったオールドモップ。
既に息はしておらず、胸は平たいまま。
信じたくない。
夢であってほしい。
だからそのまま目を閉じて毛布にもぐり、二度寝しようと頑張った。
なのにどうしても寝付けなかった、眠気はすっかり消し飛んでいた。腕をおいたオールドモップは冷たく強張ったまま……夜中に死んだならもう死後硬直がはじまっている。
どうして。どうしよう。ピジョンは混乱する。オールドモップが生き返るならなんでもする、息を吹き返してくれるならコレクションしてるカード全部やる。
でも実際、そんな奇跡はおこらない。
のろのろとベッドから這い出てピジョンが一番はじめにしたことは、オールドモップの死体をシーツで包んで隠すことだった。
オールドモップに腕枕し、気持ちよさそうに鼾をかく弟のあどけない寝顔。
スワローが知ったらどうする?きっとすごく哀しむ。スワローが哀しいとピジョンも倍哀しい。
ピジョンは冷静な判断ができなかった。
寝起きの頭は朦朧として、意志とかけ離れた場所でひとりでに体が動く。
オールドモップの死体を布に包み、魂が抜けきった体をひきずって、ごめん、ごめんと謝りながらベッドの下に押し込んで、あとでちゃんと埋葬するからと約束して、でもオールドモップは大きくて枠に突っかえて入らない。
「………ッ………、おねがい、入って」
両手に体重かけて突っ張り、ベッドの隙間に無理矢理押し込もうとする。死体が床を滑り、枠に押し返され、焦れば焦るほど手が滑り、シーツはずり落ちて体がはみ出す。
なにしてるんだ俺。
ちゃんと弔ってやんなきゃ。
頭の片隅に冷静な自分がいる。現状を俯瞰して分析するもう一人のピジョンだ。
オールドモップの思い出が脳裏に巡り、こみ上げる哀しみと深い喪失感で呼吸が苦しくなる。
こんなことしちゃいけない、オールドモップが可哀想だと良心が叫ぶ一方で、真実を知った母さんやスワローがどんなにか哀しむか、その光景を想像して胸が張り裂けそうになる。
隠してどうする?
ごまかし通すのは無理だ。
ほんの少しの時間稼ぎでいい、後に起きたスワローが自分と同じ絶望に突き落とされるのだけは耐え難い……
自分が何も知らないあいだに、何もできないうちに、大好きなオールドモップが死んじゃったなんて。看取ることすらできなかったなんて。
体を押すほどにシーツはめくれ、それをあたふたと掛け直し、うろたえきって宥めすかす。
「おねがい、今だけでいいから……ちょっとのあいだ我慢して……」
「ピジョン……?」
背後で衣擦れの音と眠そうな声。母がカーテンを開け、忍び足でこっちにやってくる。
見られてしまった。
床にへたりこみ、ベッドの隙間に毛むくじゃらのかたまりを必死に押し込んでいた息子に、怖々と聞く。
「……なにしてるの?」
「母さん、あのね」
口を開くと同時に、ポロリと一粒涙がこぼれる。
「オールドモップが、死んじゃった」
ピジョンは目を見開いたまま透明な涙を零す。声をかけられた瞬間に虚脱しきって、努めて意識しないよう自らを麻痺させ誤魔化していた、愛犬を失った哀しみが一気に押し寄せる。
母が息を呑む気配が伝わる。
押し合う腕から急激に力が抜け、オールドモップの亡骸に突っ伏す。
ごわついた毛が頬をくすぐる。
縺れあう毛をなでてやりながら、虚ろな表情でたどたどしくくりかえす。
「俺……いけないことだってわかってたけど、隠そうとして。だって、そうしなきゃ、コイツ、スワローが」
あんな楽しそうなスワロー、初めて見た。
コイツはスワローの友達だった。
おそらくはたった一人の。
「一緒にバスケして、ボール追っかけて、寝るときも食べるときも一緒で……ッ、コイツが死んだら哀しいでしょ?俺だってこんなに哀しいんだから、母さんとスワローはもっと哀しいはずだ」
母さんは優しいから。
スワローだって、本当は優しい奴だから。
「ピジョン……」
母がそっと跪き、愛犬の死体に突っ伏して動かない息子を抱きしめる。
「老衰よ。きっと苦しまず逝ったわ。もう寿命だったの……おじいさんだったもの」
「知ってる……拾ったときからよぼよぼだった」
「今頃天国にいるわよ」
ピジョンはごくかすかに頷き、母を抱きしめ返す。
「ピジョンとスワローにいっぱい遊んでもらえて、この子もしあわせだったはずよ」
本当にそうだろうか。
もっとしあわせにできたんじゃないだろうか。
俺なんかよりもっと金持ちで親切な人に拾ってもらえたほうが、おいしいものいっぱい食べて、ふかふかのベッドで寝れて、新品のボールを貰えて、幸せな晩年を過ごせたんじゃないか。
母の慰めに頷く一方、ピジョンは後悔の念に苛まれ、オールドモップのためにもっとできたかもしれない数々を際限なく考え続ける。
生者のための優しい嘘を頭から信じ込むには、ピジョンは大きくなりすぎていた。
「ベッドの下に隠せば、全部なかったことになると思ったんだ」
また息を吹き返すと思って。
元気に吠える声が聞こえると思って。
ネグリジェに顔をこすりつけ、しゃくりあげてかきくどく。
「神様が……なんとかしてくれるんじゃないかって……」
抱き上げた時の柔く固い感触が、押した時の筋肉の強張りが、だらしなく弛緩して口の端からたれた舌が、愛犬の死のこれ以上ない残酷な裏付けとなる。
薄く開かれた瞳からは完全に光が失せ、白く濁り始めている。
「うるせぇ……朝っぱらからなに騒いでんだ」
衣擦れの音に続き起き上がる気配。
スワローがおもいっきり伸びをする。
胡乱げな寝ぼけまなこを瞬き、床で抱き合う兄と母、そして横たわったまま動かない愛犬へと視線を巡らし、一瞬にしてすべてを悟る。
「スワロー、あのね。オールドモップが死んじゃったの」
二人目の息子を気丈に見据え、母がありのままの事実を告げる。
息子が死体を隠そうとしたことにはあえて触れず、たおやかな手をのばして、伸び放題の毛に埋もれた骸をいたわる。
オールドモップの顔を一撫で、どことなく満足げなその目を閉ざす。
「老衰よ。安らかな死に顔だわ」
「…………くたばったんだ」
掴み所のない無表情のまま、愛犬の枕になった腕の痺れを持て余してベッドに投げだす。
静かに横たわるオールドモップに体温の低い目を落とし、「そっか」ともう一度呟く。すぐには消化しきれない事柄を吐息にくるんで、心の淵に落とし込むような呟き。
「……ベッドが広くなるな」
受け止めきれない現実を冴えない冗談でごまかす、空虚な横顔だった。
スワローはオールドモップの埋葬に立ち会わなかった。
死体を連れて旅に出るわけにはいかない。オールドモップの死体はバスケットコートの隅の木の根元に葬られた。ピジョンと母がシャベルで穴を掘り、ゴミ捨て場で拾った材料で、ピジョンが間に合わせの十字架を立てた。
それからピジョンは一日中トレーラーハウスに閉じこもった。
ベッドの上で膝を抱えて落ち込む兄をよそに、スワローは表でボールを突いている。
ピジョンは億劫げに顔を傾げ、ブラインドを半ばおろした窓からコートで遊ぶ弟の姿を盗み見る。
やる気なさそうなドリブル。
心なし肩の線がうなだれている。
右手で突いたボールを左手に受け、交互に延々とそれをくりかえして、俯き加減の赤錆の瞳に倦怠に似た鬱屈が澱む。
四角い窓に切り取られたポートレート。
大人びて寂しい横顔。
惰性でもボールさばきは巧みで、四肢に吸い付いてるように見える。唇を引き結んだ横顔に浮き出る癇癖の強さは人を近寄りがたくさせる要因のひとつだ。
いつにもまして無愛想なスワローのもとへ、派手なシャツを着崩した男が近寄っていく。
見覚えある顔……母の馴染みだ。よく通ってくるので自然と覚えてしまった。
男は気さくに片手を挙げ、二言三言スワローと交わす。
スワローはどうでもよさそうにあしらっていたが、男がオールドモップの墓に顎をしゃくり、大袈裟な同情の素振りに阿る笑みを添えるや表情が一変する。
完全に目が据わる。紛れもない怒りの形相。
「何してるんだアイツ!」
慌てて跳ね起き、スニーカーを突っかけてトレーラーハウスを飛び出す。
男の腹に全力でバスケットボールを投げ込んだスワローが、全速力でコートを抜けて走り去る。
まともに喰らった鳩尾を庇い、脂汗に塗れ蹲る男が忌々しげに唸る。
「ぐっ……いきなりキレて、なんだよアイツ。なぐさめてやったんじゃねーか」
「なぐさめて……?」
「犬が死んだってゆーからさ、[[rb:古いモップ > オールドモップ]]は買い替え時だって……」
ピジョンは男を見もせず、弟の背中を追って駆け出す。コートを出、路地を抜け、ゴミ捨て場の前にくる。オールドモップと出会った場所だ。懐かしさで鼻の奥がツンとする。
兄が追っかけてきたのに気付いたか、スワローが速度を落として立ち止まる。
ゴミ捨て場にはクローゼットやテーブル、脚の折れた椅子や綿のはみでたソファーなどの廃品が乱雑に積み上げられている。
「……なんですぐ死ぬのばっか拾ってくんの?」
ピジョンに背中を向けたまま、何かを堪える声で突き放すように訊く。
ピジョンは汗を拭い、呼吸を整え、真剣に言葉を選ぶ。
「……だからだよ」
膝に手を付いて鼓動が落ち着くのを待ち、オールドモップがいたゴミ捨て場の一角、ソファーとクローゼットの隙間を見る。
在りし日の愛犬の存在の残滓を吸い込むよう深呼吸、ギュッと目を瞑る。
「かわいい子ならいいひとに拾ってもらえるけど、すぐ死んじゃいそうな子は俺が拾ってやんなきゃ……」
「母さんが言ってたとおりだ」
「……なんて言ってたの」
「ピジョンは優しいから、死にそうな子をほっとけないのよってさ」
ジャンピングジョージもオールドモップもそうだ。
ピジョンが毎度性懲りなく拾ってくるのは、人に虐待されるか病気になるかして、ボロボロの汚い犬猫ばかりだった。ピジョンはその犬猫をホースで洗ってやって、几帳面に蚤をとってやって、腹が減ってたら自分の分をわけてやり、怪我をしてたら手当てしてやり、見てるこっちがウンザリするほど甲斐甲斐しく尽くすのだ。
見捨てられた可哀想な動物たちに、ソイツらが今までもらえなかったぶん、たっぷり愛情をかけてやるのだ。
他人のぶんまで罪滅ぼししてるみたいに。
そうだとしたら死んでも治らないお人よしだ。
「帰ろう、母さんが心配する」
すべてを拒んで立ち尽くす弟に歩み寄り、おずおず声をかける。
「……オールドモップにも、ちゃんとお別れの挨拶してあげてよ」
「やなこった」
「仲良かったじゃないか」
「犬畜生と血の繋がりはねェ。家族なんて思っちゃねェ。どうなろうが知ったことか」
ピジョンはかける言葉をなくす。
スワローはゴミ捨て場のクローゼットを蹴倒し、憎々しげに顔を歪めて吐き捨てる。
「あっちが勝手にくたばりやがったんだ」
もっとすげえの見せてやるって約束したのに、勝手に逝っちまいやがった。
もうちょっと背が伸びたらダンクシュートだって余裕できめられたのに、それを見もせずくたばった。
母とピジョンが二人仲良く泣きながら穴を掘ってオールドモップを埋める間、スワローはさっきまで兄がしてたようにベッドで膝を抱え、愛犬の抜け毛を摘まんでいた。
[[rb:オールドモップ > 古いモップ]]……本当に汚い犬だった。
床を滑って遊ぶのが好きだった。ミートソーススパゲティが好きだった。ベッドで寝るのが好きだった。ボールにじゃれるのが好きだった。母さんが好きだった。ピジョンが好きだった。
スワローのことが好きだったかどうかは、知らない。
今となっては永遠にわからずじまい。
スワローは家族以外に心を開かない。
家族以外が死んでもどうでもいい。家族じゃないヤツが死んでも哀しくない。
意固地にそう言い聞かせることで、あまりに脆すぎる心を守っている。
ピジョンはスニーカーの爪先を見詰め、言葉を選んで口を開く。
「……でも、アイツはきっと、お前が好きだったよ」
「嘘吐け。なんでわかるんだよ」
「嫌いな人の近くにいかないよ」
「どうだか。餌もらえりゃだれにだってしっぽ振んだろ」
「しっぽを振る相手は選ぶさ。食事中はお前の足元にすっとんでったじゃないか」
「意地汚えモップ。食うか掃き掃除かどっちかにしろ」
「そこがよかったんだろ」
ピジョンが辛抱強く食い下がり、スワローの隣に行く。
「アイツはお前が好きだった」
「いい飼い主じゃねえ」
「友達だった」
青空の下、ともにボールを追って走り回った。トレーラーハウスのステップに座り、一緒に留守番してくれた。
スワローの拳が軋み、激情が噴き上げる。
「ンなことわかんねーだろ、デマカセ言うとぶちのめすぞ」
「俺も同じものが好きだからわかる」
はっきり断言するピジョン。
スワローは虚を衝かれ、切なげに顔を歪めて唇を噛む。
そっぽを向く弟に寄り添い、見た目よりずっと華奢な手を握り締めて回れ右する。
スワローは逆らわず大人しく付いてくる。ふてくされ俯いて、ピジョンに手を引かれるまま足を出す。
コイツは不器用だ。
なんでも余裕でこなすくせに、肝心な所で要領が悪い。泣いて哀しみを表現するのが下手だから、怒って代用しようとする。
俺の一粒の涙と、コイツの一滴の血は、きっと同じものでできている。
似てない兄弟は手を繋いでとぼとぼ帰り道を辿る。
スワローは兄の手を振りほどかず、もうどうにでもなれと捨て鉢に従っている。小さい頃から喧嘩をするたび見慣れた顔。
おいてかれまいと歩調を合わせ、だらりとたれた手を強く握り込み、俺はここにいるよと伝える。どこにも行かないよとぬくもりを通わせ態度で示す。
そんなことしかできないのがもどかしいが、二人で並んで歩いているだけで、胸を抉る哀しみがほんの少し癒える錯覚に安らいだ。
バスケットコートに帰還した時、すでに男はいなかった。
トレーラーハウスに上がる前に、真新しい墓へとスワローを引っ張っていく。弟はもう抵抗せず、諦めて付いてくる。
途中バスケットボールを拾い、小脇に抱えて持っていく。
困惑顔のスワローの隣で十字を切って瞠目、オールドモップが天国へ行けるよう祈る。
スワローは兄をまね、申し訳に[[rb:頭 > こうべ]]をたれる。
十字を切るまで付き合えない。
かわりに彼の流儀で、兄以外に初めて心を許した友達を悼む。
未だ目を瞑ったまま、天国へ旅立った愛犬の冥福を祈り続ける兄の隣から歩み出て、十字架の根元にオールドモップが好きだったバスケットボールを手向ける。
「……It’s been fun.」
楽しかった。
永遠と等価の静謐な一瞬。
スタジャンのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で固定し、ボールに最後の接吻。
涙を流す義理はないし、そんなガラでもない。
生前一回もしてやらなかった穴埋めだ。
特別な意味なんて持たない、そっけない別れの挨拶。
だからこそ。
震えるよう囁かれた言葉には、痛みを伴う哀惜の念がこもっていた。
イエローゴールドの髪が額に舞い落ち、伏せた睫毛が瞳に物憂く影を差す。
日頃の凶暴性が浄化された顔に情感の余韻を持たせて、唇の片端を皮肉っぽく吊り上げる。
十字架と向かい合い、儚い微笑みに一匙の皮肉を添えた弟の横顔がとても綺麗で、オールドモップがコイツを好きになった理由がピジョンにはよくわかった。
数日後、一家は町を去った。今でもゴミ捨て場に捨てられたモップを見るたび、子供時代のひとときを分け合った、飼い犬のことを思い出す。
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